勝俣 鎮夫 著 『一揆』 を読む

一 一揆とはなにか
1 一味同心
多分の儀
中世寺院の集会のありかたは、原始仏教の議決方法「多人語毘尼」に由来する多数決制においてもうかがえる。興福寺、東大寺、金剛峰寺、東寺などの中世を代表する諸寺院はもちろん、金剛寺、西大寺、法隆寺などの多くの寺院において、その集会の議決方法として多数決制がとられている。当時、多数決は「衆議評定の時は、多分に付きてその沙汰あるべし」とか「多分の衆議に随い評定すべし」などとあるように、「多分の儀」といわれた。評定集会のメンバーは各人が公正な意見を主体的にのべつくした後、多数決によって議決したのである。
そして、これらの評定集会の場合、多数決は、当時「合点」といわれた投票による表決方法でおこなわれている。
一味契約状
これらの集会の議決によって決定した事柄は、室町時代になると一揆契約状という表現もあわられるが、多くは一味契約状という起請文形式の文書によって残されている。そしてこの議決の末尾には「一同」「一味同心」「一味」「一揆」の結果として決定したことが明記され、その遵守すべき規範としての効力がうたわれている。
会議のメンバー全員が主体的に公平な意見を述べることを神に誓約して、そこでなされた議決が一味同心の議決であった。
このような性格をもつ一味同心の評議の議決方法は多数決を必然的にとらざるをえない。そして、このような一味同心のもとにおける多数の意見の一致は、道理すなわち正義でありると考えられたために、その決定が一味同心の決定とされたのである。
神慮としての決定
意思決定に際し、なぜ一味同心の決定をつくることを至上目的にしようとしたのであろか。それは、彼らが一味同心、すなわち一揆の裁断は、正義であるとともに、特殊な力をもつと確信していたからにほかならない。また、これをつくる人びとのみならず、当時の人びとが一揆の裁断に、他の決定と異なる独自の効力を認めていたからである。そして、この特殊な「一味同心」「一揆」の決定が特殊な力をもつという意識の背景には、一揆の決定は「神慮」すなわち神の意志にもとづくという観念が大きく作用していたと思われる。
2 一味神水
神水を飲む
「一味」「一味同心」の状態は、どのようにしてつくられたのかというならば、それは「一味神水」という儀式を必要とした。この一味神水という行為は、それに参加する全員が神社の境内に集合し、一味同心すること、その誓約に背いた場合はいかなる神罰や仏罰をこうむってもかまわない旨を書きしるし、全員が署名したのち、その起請文を焼いて神水にまぜ、それを一同がまわし飲みするというものがこの時代のオーソドックスな方法であった。
よるべの水
この神水は、神に供えられた水などをさし、古くは「よるべ(寄辺、寄方)の水」ともいわれた。これは、神前におかれた器に入れた水で、この水には神霊が宿っていると考えられていた。
この神水を多数の人が神前でわかちあって飲むという行為には、そこに神と人、人と人の共食共飲の観念が存在した。わが国では、非常に古くからの祭りの際、直会(なおらい)といって、祭りの奉仕者が、神事終了後、神の供えられた酒や食物をおろしておこなう宴会が祭りの重要な行事の一つとして存在している。
共同飲食
共同飲食の観念を媒介とすれば、神水を飲むという行為は、文字どおり神と人、人と人の間を「一味同心」することであった。
神水を飲むというこの誓約方式は、たんに誓約を破ったものは神罰をこうむるというだけのものではなく、それを遵守して履行する人間は、その限りで神と一体化しているという意識が存在した。それゆえ、「一味神水」は、それぞれの人が、神と一体化したという意識に支えられた集団を作り出したのである。
金打(きんちょう)
誓約のさいにその誓約者が身の回りの金属器具を打ちならし、音声で誓約するもので、武士は刀、僧侶は鉦、女性は鏡を打ちならした。
金属器を打ちならす行為は、本来神を迎える、または呼び出す行為で、誓約をおこなうさい、神をその保証人として立ち会わせるために金属器がうちならされたと思われる。これは、金属器を打つ音によって神が出現するという呪術的信仰に基づいておこなわれた誓約方式であった。
三 変身と変相
1 百姓一揆の出立ち
一揆のユニホーム
百姓一揆のユニホームは、多くの場合蓑笠であった。江戸時代の百姓一揆はその初期には、村役人層を代表とした越訴型が多かったが、やがて広汎な一般農民層が参加する強訴や打ちこわしを主とする型へと展開する。この型は通常、個々の村落をこえた全藩規模の百姓が領民の意識で団結したもので、全藩一揆といわれる。さらに一八世紀後半になると、それぞれの支配領域をこえた広域の一揆もおこり、この時期の一揆は、商品流通の展開によって生み出された貧農および半プロレタリア層が主体となって、世直し的性格をおびるようになる。
このように、百姓一揆の参加者の姿は、蓑笠姿だけででなく、乞食姿や非人姿をとることが知られている。一揆に参加する際にこのような異形姿にその姿を変えて参加するということは、非日常的な「場」、異常な「場」として一揆に参加する人びとの精神のありかた、その集団意識構造と、より強く結びついている。
その人間の姿・形は、その人間の社会的存在としての身分、階層、職能などを表示していたのであり、前近代社会では、とくにこの関係は厳しい社会秩序として存在していた。
中世社会の成人式をすませた男子は、髻をゆい、烏帽子をかぶることによって、成年男子であることを表示した。この髪型がその存在を証明したのであり、髻を切られることは、最大の恥辱であって、髻を切ることが首を切ることと等価値と意識されていた。
女性は長い髪を持つのがその標識で、髪を短く切ることは、女性を女性でなくしてしまうことであった。
四 変革の思想
1 徳政一揆
一揆のスローガン
15世紀、近畿地方を中心に、各地に土一揆が蜂起したが、その一揆が要求したものは、ほとんど「徳政」であった。土一揆は、「徳政と号して」蜂起した。
中世社会の「徳政」の本質は「復活」にある。
借りの姿
わが国の古代社会の土地売買の「売る」の語の検討をされた菊地康明氏にようれば、所有権の完全な移転を意味するものではなく、請戻し・買戻しが、つねに前提とされていた。また、中世社会における土地売買形態は、元金を持参することによって請戻す本銭返し、期限付売却である年期売などにみられるように、土地の有期的、もしくは請戻し留保付売買がむしろ一般的であり、「取戻し不能の売買、確実に保護される債権」はむしろ「不自然な売買、特異な貸借」であったこと、また、没収地になお潜在する、もとの持主(本主)の再給与期待権などの存在により、中止社会の人びとにとって所有の移動は「仮の姿」であると意識されていた。
時代劇で髪の毛を切られているシーンを見たことがあるけど、
屈辱的なことなんですね。
髪の毛を切られたぐらいで、大げさなリアクションをとるなあと
子供の頃良く思っていました。