
駅前ビルの地下街でランチを開拓する。
日曜日のお昼に開けている店は少ない。
第3ビルの地下1階で、3軒の店がランチを営業していて、迷った末に、「味のれん」に入る。

ほとんどが揚げ物なので、一番安い日替定食(650円)にする。
からあげにハンバーグは、きつかった。
味もよくない。
店は、照明が暗くて、雰囲気もランチ向きでない。居酒屋の雰囲気のままで、営業している。

まだ、さばの塩焼きの定食にすればよかった。
ほんとうに夜は、「魚とおばんざい」の店になるのだろうか。
アルベール・カミュ 『シーシュポスの神話』 を読む
神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩を転がして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。
神話とは想像力が生命を吹き込むのにふさわしいものだ。このシーシュポスを主人公とする神話についていえば、緊張した身体があらんかぎりの努力を傾けて、巨大な岩を持ち上げ、ころがし、何百回目も、同じ斜面に繰り返してそれを押し上げようとしている姿が描かれているだけだ。ひきつったその顔、頬を岩に圧しあて、粘土に覆われた巨魁を片方の肩でがっしりと受け止め、片足を楔のように送ってその巨魁をささえ、両の腕を伸ばしてふたたび押しはじめる。泥まみれになった両の手のまったく人間的な確実さ、そういう姿が描かれている。天のない空間と深さのない時間とによって測られるこの長い努力のはてに、ついに目的は達せられる。するとシーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下のほうの世界へところがり落ちていくのをじっと見つめる。その下のほうの世界から、ふたたび岩を頂上まで押し上げてこなければならぬのだ。かれはふたたび平原へと降りていく。
こうやって麓へ戻っていくあいだ、この休止のあいだのシーシュポスこそ、ぼくの関心をそそる。石とこれほど間近に取組んで苦しんだ顔は、もはやそれ自体が石である!この男が、重い、しかも乱れぬ足どりで、いつ終わりになるかかれ自身ではすこしも知らぬ責苦のほうへとふたたび降りていくのを、ぼくは眼前に想い描く。いわばちょっと息をついているこの時間、かれの不幸と同じく、確実に繰り返し舞い戻ってくるこの時間、これは意識の張りつめた時間だ。かれが山頂をはなれ、神々の洞穴のほうへとすこしずつ降ってゆくこのときの、どの瞬間においても、かれは自分の運命よりたち勝っている。かれは、かれを苦しめるあの岩よりも強いのだ。
この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず不条理だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。ところ、神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨な在り方を、かれは下山のあいだじゅう考えているのだ。かれを苦しめたにちがいない明徹な視力が、同時にかれの勝利を完璧なものたらしめる。侮蔑によって乗り超えられぬ運命はないのである。
このように、下山が苦しみのうちになされる日々もあるが、それが悦びのうちになされることもありうる。悦びという言葉は言いすぎでない。
シーシュポスの沈黙の悦びのいっさいがここにある。かれの運命はかれの手に属しているのだ。かれの岩はかれの持ち物なのだ。同時に、不条理な人間は、自らの責苦を凝視するとき、いっさいの偶像を沈黙させる。突然沈黙に返った宇宙の中で、ささやかな数知れぬ感嘆の声が、大地から湧きあがる。数知れぬ無意識のひそやかな呼びかけ、ありとあらゆる相貌からの招き声、これは勝利にかならずつきまとうその裏の部分、勝利の代償だ。影を生まぬ太陽はないし、夜を知らねばならぬ。不条理な人間は「よろしい」と言う、彼の努力はもはや終わることはないであろう。ひとにはそれぞれの運命があるにしても、人間を超えた宿命などはありはしない、すくなくとも、そういう宿命はたったひとつしかないし、しかもその宿命とは、不可避なもの、しかも軽蔑すべきものだと、不条理な人間は判断している。それ以外については、不条理な人間は、自分こそが自分の日々を支配するものだと知っている。人間が自分の生へと振り向くこの微妙な瞬間に、シーシュポスは、自分の岩のほうへと戻りながら、あの相互につながりのない一連の行動が、彼自身の運命となるのを、かれによって創り出され、かれの記憶のまなざしのもとにひとつに結びつき、やがてはかれの死によって封印されるであろう運命と変わるのを凝視しているのだ。こうして、人間のものはすべて、ひたすら人間を起源とすると確信し、盲目でありながら見ることを欲し、しかもこの夜には終わりがないことを知っているこの男、かれはつねに歩み続ける。岩はまたも転がってゆく。
ぼくはシーシュポスを山の麓にのこそう!ひとはいつも、繰り返し繰り返し、自分の重荷を見出す。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとうひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。
扇町通りのダイコクドラッグの先のローソンの手前に、お昼の定食の看板が出ていたので入ってみる。
階段を下りていくとお店がある。
来店がわかるようにチャイムが鳴る。
カウンターとテーブル席のお店。
阿波の鱧料理のポスターが貼ってある。夜は、和食の飲み屋さん。
鯛のあら煮定食(780円)を食べる。
鯛のあら煮、玉子焼き3切れ、ごはん、赤出汁、お漬物。
出汁にまぶして食べる鯛の身はごはんによく合う。玉子焼きもあっさりした出汁巻。あら煮の出汁につけて食べるとちょうどいい味。
ほかには、松花堂弁当やお造り定食などがある。エステサロンと提携しているお店らしく、連れられてくる人もいた。
柳田 邦男 『「人生の答」の出し方』 を読む
人が生きる時間
人生の「生きられた時間」
私の中に二つの異質な時間が流れていたのだ。一つは、私だけが個人的に直面している現実と結びついた「一人称的な時間」。そして、もう一つは、主観的な感覚や意識に関係なく、誰の上にも共通に流れている客観性を持った「三人称的な時間」である。
人間が生きるうえで決定的に重要なのは、「一人称的な時間」の中で、「生きられた時間」を持てたかどうかということだった。「生きられた時間」とは、哲学者ウジューヌ・ミンコフスキーが提唱した概念だ。
だが、情けないことに、次男が死んで、自分が離人症的な精神状態を経験してはじめて、「生きられた時間」が持てないというのは、ずっと深い実存的な苦しみであったのだと、ようやく実感のレベルで理解できるようになったのだった。
こうして「一人称的な時間」や「生きられた時間」というキーワードを手にしてからは、がんや難病などの厳しい病気と闘いながら懸命に生きている人々に生き方を見る眼をより深めることができるようになったと思う。
最近、がん患者たちがよりよく生き抜くための「生きがい療法」が、少しずつ広まっている。
生きがい療法の基本方針五項目の中で、とくに注目したいのは、次の三つの心得だ。
1)ただ生きようと思うのではなく、自分が自分の主治医になったつもりで、病気をしっかり見つめて、前向きな姿勢で治療を受け、がんと闘っていくこと。
2)今日一日の生きる具体的な目標を自覚して、全力投球すること。
3)人にためになることをすること。
このような闘病の姿勢と生き方を次のように表現することができるだろう。すなわち、進行がんになったからといって、絶望したりうつ的になったりして人生を投げ出すのではなく、あるいはただいたずらに生物的な延命(=三人称的な時間の延命)を求めて医師任せの治療を受けるのではなく、自分が直面している厳しい病気の現実に結びついた大事な日々、つまり「一人称的な時間」を可能な限り密度の濃い「生きられた時間」にするべく、主体性をもって治療に臨み、生きがいを実感できる日々を設計していくならば、納得することのできる「これが私の人生だ(This is my life!)」という物語を書けるに違いない。しかも、そういう生き方を貫くならば、唯々諾々と治療を受けているよりも、結果として、はるかに大きな延命効果を獲得することができるにちがいない-と。
このことは、人生の長さとは何か、ひいては本当の長寿とは何か、という本質的な問題について、一つの答を出していると言えるのではないかと、私はとらえている。
そして、私は、次のようなモデルを考えている。
「人生の長さ(意味のある人生の長さ)」=「生きられた時間の長さ」x「その密度」
ここで一つ、補足しておくべき大事な問題がある。それは、生きがい療法の方針の中にある「人のためになることをする」が、なぜ厳しい病気を背負った自分の生を支えることになるのか、その意味についてだ。
この問題について、最も鋭く明快な解答を出したのは、第二次大戦中のナチス・ドイツの強制収容所で生き残った精神医学者ヴィクトール・E・フランクルだ。飢えと強制労働とガス室による大量殺戮という絶望的な限界状況下で、人格を崩壊させずに生き抜くことができた人々を支えた考え方はどんなものだったのか。フランクルは、『夜と霧』の中で、劇的に気づいたことについて、こう書いている。
<人生から何をわれわれはまだ期待できるのかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。>
<われわれが人生の意味を問うのではなく、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。>
限界状況の中で絶望しないためには、生きる意味についての考え方を180度転換させること、すなわち「人生の問いのコペルニクス的転回」が求められるというのだ。
博報堂ブランドデザイン 沼田 宏充 『あなたイズム ムリなく、自分らしく、でも会社に愛される働き方』 を読む
第1章 なぜ仕事は「つまらない」のか
仕事が「つまらない」というのはどういう状況なのだろうか。詳しく分析すると、実は仕事を「つまらない」と感じる要因は、大きく分けて2つある。
ひとつは、その人の「適性」や「志向性」が合っていないこと。
もうひとつは、その人の「スキル」や「才能」が合っていないことだ。
個人の「志向性」が合っていなければ、その仕事も職場もつまらないし、「スキル」や「才能」がフィットしていなければ、結果が出ず、やはりつまらない。「つまらない」は、この2つの要素のいずれか、もしくは両方によって生じていることがほとんどだ。
これは、別の言い方をすると、その人の「持ち味」が活かされなければ、人は仕事や職場を「つまらない」と感じやすい、ということでもある。
だが、このような個人と組織の価値観の接点に着目し、個人の「イズム」を発揮させようと考えている企業はまだまだ少ない。さらに、そのための施策を実践している企業はもっと少ない。
だからこそ、「仕事がつまらない」と感じる人が多いのである。
第2章 自分の「持ち味」、組織の「らしさ」
個人にさまざまな持ち味があるように、組織にもそれぞれの考え方や重視している価値観、固有の雰囲気などがある。私たちはこれを組織の「らしさ」と読んでいる。
個人の持ち味が志向性とスキルに大別でき、それぞれに多彩な要素が含まれているように、組織のらしさもさまざまな要素から構成されている。
たとえば、その組織では、個々人の業績だけを問うのか、それともプロセスの質も問うのか。あるいは、リーダーシップの発揮が良しとされるのか、皆でフラットに助け合うチームプレーが求められるのか。また、個人を尊重したさっぱりとした付き合い方が奨励されているのか、和気あいあいと交流し合う雰囲気なのか....。
「なんとなく働きにくい」「つまらない」「合わない気がする」という場合は、こうした組織のらしさと、自分の持ち味の接点が見つけられていないことが多い。
組織のらしさが分かれば、自分の側から「どこが重なるか」という視点で組織に近づくことができる。
個人の持ち味の円と、組織らしさの円、この2つが重なる部分が双方の接点であり、今後の行動指針になる。
個人と組織のらしさの接点にある価値観を行動指針とすれば、自分の持ち味を活かしながら、組織に貢献するというウィン-ウィンの働き方ができるというわけだ。
この行動指針を、その人らしい働き方をガイドする価値観として「イズム」と定義している。
この「あなたイズム」を発揮することは、すなわち自分の持ち味を発揮することである。それでいて、組織の価値観にも合致する。だからこそ、イズムにのっとって仕事に取り組めば、楽しく働けるうえに、組織にとっても良い影響を及ぼすことができる。
部屋の近くで新しくできたお店でお昼を食べる。
以前は、手作り婦人服のお店だったところに民芸風の店ができた。
店内は、囲炉裏を囲む席とカウンター、座敷席がある。全部で20席程度のお店。
ランチは、日替わりと焼き魚、鶏のからあげの3種類。
日替わりを薦められたけれど、焼き魚定食を頼む。
さばの塩焼きに、ごはん、キャベツが具のお味噌汁、それに小さな2段の重箱に煮物が入っている。
さばの塩焼きは、皮がカリッと焼けていて、身は油っこくなく、さっぱりとしてとても食べやすい。
向かいの3人組のおばさんもお店の焼き魚は、家で作るのと違うと感心していた。
夜も魚料理はおいしいと思う。今度は一緒にいきましょう。
博報堂ブランドデザイン 『「応援したくなる企業」の時代 マーケティングが通じなくなった生活者とどうつきあうか』 を読む
はじめに-ブランディングという仕事を通じて見えてきたもの
私がリーダーを務めている「博報堂ブランドデザイン」は、ひとことでいえば、ブランド企画やコンサルテーションを主要業務とした専門チームである。
チームの業務内容を人に説明するときは、やや乱暴であるが、「ブランドとは、商品や企業、組織の”らしさ”である」といいかえるようにしている。つまり「さまざまな商品や企業、組織の”らしさ”をつくるために、なにをしたらいいのかと企画を考えたり、コンサルティングをしたりする」のが、仕事である。
第0章 ”買わない”のは本当に不景気のせいか
私はこの「つぎの時代の企業像」を読み解くカギは、「正、反、合」という、いわゆる弁証法的な思考法にあると考えている。
ある命題を「正」(=テーゼ)として、それに矛盾する、あるいは否定する反対の命題を「反」(=アンチテーゼ)、それらを本質的に統合した命題を「合」(=ジンテーゼ)とする概念から櫛絵される。
わかりやすくいうと、ある意見(正)に対して反対の意見(反)がある場合、どちらか一方の意見を選ぶのではなく、2つの矛盾した意見をうまく解決して高めた第3の意見(合)に昇華していくという考え方だ。一般的な弁証法では、これを止揚(アウフヘーベン)と呼ぶ。
いま社会で潜在的に求められているのは持続的な幸福なのである。幸福という意味の英語としてよく用いられるのは、「happiness」と「well-being」の2種類の単語だが、これからの時代により求められるのは、「happiness」ではなく、「well-being」であろう。「よりよく生きる」「満足がつづく」という意味合いだ。本書ではあえて「幸福」といわず、「しあわせ」という言葉を使う。
これからは、どうしたら社会が「しあわせ」になるかを考え、独自のやり方で、それを提供しようとする高い”志”が企業に求められる時代になる。そして、そういう姿勢をもった企業こそが生活者の共感を獲得し、長く生き残っていくことになるのではないか。
生活者が自分たちの「しあわせ」を真摯に考えてくれるとして信頼し、支持したくなる企業、つまり、「応援する価値がある」と認められた企業が、社会に必要とされるのである。
第1章 「ターゲットにモノを売る」というまちがい -「ターゲット発想」から「コミュニティ発想」へ-
顧客は大切にすべき仲間であっても、けっして攻撃対象ではないはずだ。にもかかわらず、ビジネス界には暗黙のうちに「ターゲット」や「戦略」という軍事用語が氾濫している。こうした背景には、企業と生活者はある種の対立概念であり、生活者は攻略すべきものだという暗黙の不可思議前提が潜んでいる。
マルチステークホルダー発想のもとで、広範なパートナーシップをベースに知恵を結集させながら未来を描いていく必要がある。つまり、生活者ともコミュニティ、ステークホルダーともコミュニティ、である。そこで求められるのは「モノを売る」という発想から「仲間を広げていく」という発想への転換だ。
コミュニティ発想への転換と実現は、そう簡単なことではない。しかし、その第一歩として、まず「ターゲット」や「戦略」といった軍事用語の使用をやめることからはじめてみてはどうだろうか。ターゲットのかわりに「ファン」、セグメントの代わりに「コミュニティグループ」という言葉を使うだけでも、ビジネスに取り組み姿勢は変わるはずだ。
第2章 「差別化のポイントはどこ?」という不見識 -「シェアアプローチ」から「新市場創造アプローチ」へ-
既存のフレームのなかで競合企業から市場を奪う取り組みは「シェア拡大アプローチ」と呼ばれる。これに対して、既存の市場そのものを拡大し、結果的に売り上げを向上させる取り組みは、「パイ拡大アプローチ」と呼ばれている。長らく企業は、この「シェアか、パイか」という二元論的な選択肢のなかでしのぎを削り合いながら成長してきた。しかし、市場が縮小しただけでなく、今後の拡大が期待薄になったいま、もはやどちらかを選択することによって事態を好転させるのは難しい。これからの「合」の時代には、市場そのものや業界そのもののポジションをずらし、越境し、新しい海を見つける必要があるのだ。それが、「新市場創造アプローチ」である。
新市場の創造には、たしかにリスクを伴う、しかし、同質化しつつある既存市場にしがみつき続けるのも、また同じように大きなリスクがある。差異の小さな差別化競争を繰り広げているところに、他社から市場創造型アプローチによる新たな価値が持ち込まれると、生活者の関心は一気にそこに向かう。そうなると、差別化競争を繰り広げている企業は、のきなみ危機的な状態に陥ってしまいかねないのだ。
”ブルーオーシャン”を望むのなら、既存業界の通例にとらわれずに、むしろ全く異なる他業界を参照しながら、みずからの業界の慣習や前提を破り、新しいフレームを再構築する力が求められる。
アイデアとはまったく無から生まれるものではなく、既存の要素の新しい組み合わせ以外のなにものでもない、といわれる。優れたアイデアとは、ほかの人が気づかないような「すぐれた組み合わせの妙」だと考える。
企業はもっともっと模倣すべきなのだ。ただし、まったく異なる業界のことを。
第3章 「ニーズはなんだ?」と問うあやまち -「ベネフィット訴求型」から「スピリッツ共感型」へ-
いま注目されているのが、ニーズに応えることで支持を集めようとする従来的なアプローチではなく、生活者が企業やブランドの側にみずから歩み寄ってくるような関係の構築である。
そこで求められるのは、競合企業の動向に敏感に反応することでもなければ、生活者のニーズにだけ耳を傾けて改善をはかることでもない。進むべき方向性を表す企業の「ビジョン」を示すことが不可欠であり、その企業ならではの信念や理念に基づいた「絶対アプローチ」が必要だ。ここでいう「ビジョン」とは、企業が一丸となって取り組む理念や哲学のことである。「こうなりたい」という理想像だ。
モノをつくる企業はもちろんのこと、サービスを提供する企業もまた、こうしたビジョンがあるからこそ、競合企業に惑わされることなく、独自の絶対価値を打ち出すことができる。
企業が明確な将来像を思い描きながら、ビジネスを進めていこうとする考え方を「ビジョン型」とするなら、強い理念や思い、信条をもって共感を集め、ファンを獲得していく企業や商品の考え方は「スピリッツ共感型」と定義できる。「ビジョン」が明確な将来像があるのに対して、「スピリッツ」には、それに信念や哲学、信条などの”思い”が加わっている。
第4章 「勘でものいうな」がもたらす損失 -「論理、言語重視」から「文脈、非言語重視」へ-
数字は「測定できるもの」しか表せない
日本のビジネスの現場で数字を偏重する傾向が強いのは、高度経済成長期に、市場の変動や自社の成長を共有するために、数字によってわかりやすく単純化する必然性があったからだといわれている。
だが、問題はそこからそぎ落されてしまうものにある。数字には、測定できるものしか表現されない。そのため、扱いやすくなるものの、視点が一面的になってしまいがちなのである。さらには、わかりやすくする目的でもちいられる数字は、市場の状況がシンプルであるときは機能するが、市場が複雑になってくると効果が薄れてしまいやすい。
ビジネスにおいて言語は絶対だと思われがちだが、言語化されたものがすべてではないし、言語化されたものを理解すれば、それだけで適切に理解できるとも限らないのである。
グループインタビューや調査データから、うまく生活者の要望をくみ取れない理由のひとつもここにある。直接ニーズを問いかけたところで、生活者は自分が感じていることのごく一部しか言語化できないし、それをデータとしてさらに単純化すれば、実像から大きくかけ離れてしまう可能性はさらに高まる。非言語領域にあるものをくみ取るのは容易ではない。だからこそ、モノをつくったり、サービスを考案したりするときには、数字や言語を超えたところにある勘に注目してみる必要があるのだ。
20世紀に活躍した哲学者のマイケル・ポランニー氏は、「私たちは言葉にできるより多くのことを知っている。」と指摘し、経験に基づく身体的な感覚や、言葉には表せないが確かに存在する知識を「暗黙知」として提唱している。
第5章 「どんなアウトプットが得られるんだ?」と問う不利益 -「ソリッドプロセス」から「フレキシブルプロセス」へ-
これまでのビジネスプロジェクトの多くは、「事前に下調べをして綿密な計画を立てておく」ようなアプローチで進められてきた。
立ち上げの段階では市場の状況について綿密な調査が行われ、可能なかぎり精緻にゴールイメージが描き出される。そして、それを最短かつ低コストで成し遂げるために必要なワークプロセスを設定し、いざ実行するとなれば、とにかく効率的に進めていくというやり方がなされてきたのである。
こうした物事の進め方を「固い」「確実」という意味で「ソリッドプロセス」と呼んでおく。
しかし、つくるべきものがはっきりしている際のプロジェクトプロセスと、モノやサービスを考えながら、これから生み出していこうとする際のプロジェクトプロセスは必ずしも一致しない。ソリッドプロセスアプローチで成果を上げることができるのは、達成すべき目標がはっきりしているときだ。
いま私たちが直面しているような、生活者が「なにが欲しいのか」を自覚でいてはいない状況では、同じアプローチは通用しない。求められているものが「わからない」以上、そもそも実現すべきゴールを設定することができないからだ。
また、イノベーティブなアイデアは、論理を着実に積み上げれば生まれるという性質のものではない。発想に飛躍を生み出すためには、どうしてもある種の偶発的な要因を取り込む必要がある。
つまり、いまプロセスに求められているのは、「なりゆきに身をまかせる」ビジネスの進め方なのである。
事前にプロセスを厳格に定めておく「ソリッドプロセス」の対極として、「なりゆきに身をまかせる」物事の進め方を、「フレキシブルプロセス」とよんでしる。最終的なアウトプット像や、それが生み出されるプロセスに対する考え方をできるだけ柔軟に保ちつつ、真に生活者に必要とされるもの、効果を生み出せるものをつくっていこう、そこに近づけていこうとするアプローチの仕方だ。
平たくいえば、”とろあえず”プロジェクトをスタートさせてみて、あとは市場の反応などを参考にしながら、より高い効果を生み出せるように工夫を重ねていくのである。
不完全でも目に見えるかたちを提示して考えていくという「プロトタイプ発想を重視する。」
企業が新たにモノやサービスを開発する際には、作るべきものがあらかじめ明確になっているときに効力を発揮する「ソリッドプロセス」を、必ずしも用いなければならないわけではない。むしろ、より柔軟なフレキシブルプロセスを踏むことで、行きつ戻りつしながら、結果的に事前に想像もしなかったような新しいアイデアが生み出されることを目指した方がいい。
そして、柔軟な開発プロセスを踏める企業は、サービス自体も柔軟なかたちで提供することができる可能性がある。完成度を高めた商品を満を持して登場させ、生活者が飽きたら、また別の商品を出していくという従来のモデルチェンジ発想ではなく、ある程度かたちができた時点でまず世の中に出してみて、生活者の意見を取り入れながら、積極的に改善や工夫、アップデートをおこなっていく、その方が本当の意味で生活者の「しあわせ」につながるサービスが提供できるはずだ。
決められた時間のなかで、効率的に、無駄なく、リスクなく、という発想ではなく、効果を最大化するために時間をもっと柔軟に使い、生活者とともにモノを改良していく。そんなフレキシブルプロセスこそが、「合」の時代には求められているのである。
第6章 「下から意見が出ない」という勘違い -「管理型組織」から「共創型組織」へ-
いまのこの経済状況にもっともうまく対応できるのは、伝統的なトップダウン型でもなく、かといってボトムアップ型でもない「合」の位置にあるハイブリッド型の組織なのである。
この第3の組織形態として、注目されているのが、「共創型組織」だ。
事業やプロジェクト、あるいは日常の業務に対して、メンバーがフラットに関わる体制が特徴的で、意見のまとめ役としてのリーダーがいることはあるが、基本的に上下関係はない。各スタッフが必要に応じて臨機応変につながることから、いわゆるピラミッド型の人事構造と比較して、「アメーバ型」「ネットワーク型」と呼ばれることもある。
最大の効果は、メンバー一人ひとりの多様な知恵と経験が共有され、掛け合わされて、ダイナミックな成果を生み出せることだろう。人数をかけたことによる単なる足し算ではなく、どちらかといえば掛け算のように成果が飛躍的に増大していく。個人の能力の総和を上回る力を発揮できるのである。
第7章 「仕事にプライベートをもち込むな」という非常識 -「公私分離」から「公私混同」へ-
趣味をそのまま仕事にするのは、簡単なことではない。
この視点から、私たちのチームで導入しているのが、「6・2・2ルール」である。「6・2・2」は、6割、2割、2割の意味で、メンバーが取り組む仕事の配分を示している。それぞれの内容はというと、全体の6割は、チーム本来の業務にあてる、次の2割は、自分が興味をもっているテーマをビジネス化する取り組みにあてる。そして、最後の2割は、データベース作成やチーム内イベントの幹事といった、チーム維持のために費やす。
このうち、メンバーの「私」の部分の取り組みに寄与するのは、真ん中の「2」だ。自分が興味をもっていることを探究し、そのビジネス化をはかるのである。
2割という割合は、数字だけを見ると少ないとの印象を受けるかも知れないが、実際には、このなかでビジネス化に取り組み、プロジェクトとして成立したものは、つぎの瞬間から、チーム本来の業務である6割に組み込まれる。これを繰り返していけば、自分の趣味をベースに取り組む業務の率が増していく。
こうしてオフィシャルに”公私混同”の目安を提示すると、メンバーも思い切って「私」の部分を交えやすくなる。その結果、イノベーティブなアイデアが生まれやすくなり、ビジネスが外に向かって発展する「遠心力」が高まる。
ただし、「遠心力」だけでは、どうしてもチームとしてのまとまりを欠いてしまう。逆の方向の力、つまり内側に向かって働く「求心力」も必要だ。そこで最後の2割では、あえてチームのために時間や労力を割くよう求めているのだ。
ここまでビジネスにおける「公私混同」の重要性について説明してきたが、「公」はともかくとして、交える「私」は、時代と共に変化している。
最大の違いは、多様性にある。高度成長期は、みなが同じ方向を向く「住人一色」の時代だった。それが時代が進むにつれて、個々人の多様性を重視する「十人十色」となり、これからは「一人十色」といってもいいほどに、それぞれの個人のなかに多様な個人が同居している時代になるのだ。
個人が持つ多様性については、その多様さゆえにマーケティングアプローチの難しさが指摘されている。しかし、「私」を交えることができれば、多彩さのプラスの面を、ビジネスの中に無理なくインテグレートできる可能性がある。そして、それは企業という閉ざされた枠を脱し、広く生活者の感覚を取り入れることでもある。
すなわち、ビジネス的価値観と生活者的価値観の一致をはかることができるようになるのだ。「公私混同」には、そういう意味合いも含まれている。
第8章 「応援したくなる企業」の時代
前提やフレームから自由になることの重要性は、いま組織開発の世界でも注目されている「U理論」でも強調されている。
具体的には、つぎの7つのプロセスからなる。
1.ダウンローディング(過去情報の収集をやめる)
2.シーイング(現場で見る、見つめる)
3.センシング(五感で感じる)
4.プレゼンシング(深く潜り、外と内の世界が一体化する)
5.クリスタライジング(結晶化、インスピレーションが導かれる)
6.プロトタイピング(原型をつくる、とりあえずつくってみる)
7.パフォーミング(大きく展開する)
「新三方よし」
「自分よし、周囲よし、将来よし」が、今後、企業が心得るべき「新三方よし」である。
生活者にしてみれば、この「新三方よし」が実践できている企業は、自分にとってもありがたいパートナーであり、社会にとっても必要な存在である。そうなれば、単純に支持するだけでなく、ぜひその企業には発展を遂げてほしいと望むようになる。だからこそ「応援したい」と思い始めるのである。
本田 哲也 池田 紀行 『ソーシャルインフルエンス 戦略PRxソーシャルメディアの設計図』を読む。
第2章 ソーシャルメディアマーケティングのこれから
ソーシャルメディアのユーザを「コンテンツ」や「メディア」として捉えるのではなく、自社やブランドの「消費者」「顧客」として捉えなおし、エンゲージメントを促進させよう、という流れに潮目が変わった。マーケティングの原点に回帰したのだ。
消費者との中長期的な関係性づくりにおいては、「エンゲージメント」の概念が重要になる。自分に興味を持ってくれない相手に対して、いくら一方的に情報を送っても、他人ゴトとしてスルーされてしまう。自分に無関心の相手に興味を持ってもらうためには、「自分が」ではなく、「相手に」関与してもらう必要がある。エンゲージメントは、「関わり合い」と表現することができる。企業と消費者が相互に関わり合うことによって関係性を深め、興味を持ってもらったり、好きになってもらうのだ。
一言でエンゲージメントといっても、ファンとの関わり合いと低関与層との関わり合いは全く異なる。その時に参考になるのが、ラダー・オブ。エンゲージメント(エンゲージメントのはしご)という考え方だ。
ラダー(はしご)の下には、商品への低関与層でも関わり合うことができるプログラムを用意する。
次に、少しだけ興味を持ってくれている消費者には、ソーシャルメディアの公式アカウントをフォローしてもらい、「いいね!」やコメントなどをつけてもらうことで、徐々に双方向コミュニケーションを開始する。
さらに関係性が深まると、ことちらが投稿した情報を友人・知人にシェア/RT(リツイート)をしてくれたり、ユーザ自らがツイッター、フェイスブック、ブログなどへ商品情報を投稿してくれるようになる。そしてキャンペーンへの応募、メルマガへの登録、イベントなどへの参加と、よりユーザとブランドの距離感を縮めていく。
最終ゴールは、商品の連続購入(ロイヤルカスタマー)よりもさらに進んで、友人や知人への推奨者(エバンジェリスト)になってもらうことだ。この段階まで行くと、消費者とブランドの間には強い感情的・情緒的関係性が築けている。エバンジェリストは、ブランドの好意的な情報を積極的に共有してくれる心強いマーケティングパートナーになってくれる。
低関与層、公式アカウントのファンやフォロワー、メルマガやイベントなどへの参加者、ロイヤルカスタマー、エバンジェリストなど、ターゲットごとにエンゲージメントプログラムを準備し、それぞれのレイヤーに属するユーザに一段一段はしごを上っていてもらう設計を施すことが大切なのである。
第3章 「戦略PR」の登場(本田 哲也)
モノが売れるまでに立ちふさがる「2つのハードル」
企業から消費者に商品の良さを伝えたいと思っても、その情報伝達を「2つのハードル」がジャマしている。1つは、「量のハードル」、もう一つは、「質のハードル」だ。
「量のハードル」とは、インターネットの出現と発達にともなって生まれた情報の洪水状態のこと。
日本企業は、自社製品をアピールするために、実に細かいスペックの違いを広告メッセージに打ち出してきた、だがその結果、日本の消費者はいい具合に目が肥え、市場が成熟してしまった。そうして生まれたのが「質のハードル」だ。
消費者は、商品に関する細かな情報に接してきたことで、モノを買う前に情報収集したり比較検討したり、他の人の感想を確かめる、といった行動をより多くはさむようになった。
商品を売るために必要な「空気」
多くのヒット商品が生まれるのは、今という時代に合わせた「売り方」「伝え方」がある。これは商品の良し悪しや宣伝コストとは別次元の話。それが「戦略PR」というノウハウだ。
そもその今の世の中でモノが売れるか、売れないかは、その商品が売れるための「空気」(「場の雰囲気」「ムード」堅苦しい言い方をすれば「人々が暗黙のうちに共有する情報の集合体」)ができているかどうかにかかっている。
消費者は「空気」を共有することで、新しい「トレンド」「価値観」「問題」の存在に気付く。そこで、その空気に呼応するようにして「トレンドに中心にある商品」「価値観のシンボルとしての商品」「問題の解決策としての商品」を提示できれば、そのモノが売れるチャンスは大きく広がるからだ。消費者にとってその商品は「みんながほしかったモノ」だから、受け入れやすいのだ。このような「空気」は、自然と生まれることもあるし、作り出すこともできる。この「商品が売れるために作り出したい空気」を僕は、「カジュアル世論」と呼んでいる。
空気を生み出す戦略PRのノウハウ
戦略PRでは、多様なメディアを組み合わせ、いかにさまざまな情報発信を行うかもプランニングする。いかに広く消費者の関心を集めるか、の作戦もたてるのだ。
このような戦略PRの2つの視点は、次のようにまとめることができる。
1.戦略PRでは、戦略的なテーマ設定を行う
2.戦略PRでは、戦略的なチャネル設計を行う
「テーマ設定」のコツ
「商品の便益を消費者の関心に関連づけてPR内容を策定する」といったことになる。
「チャネル設計」のコツ
テーマ設定後の情報発信では、3つの視点からメディアを利用する必要がある。
1.「おおやけ」感を生み出すために 「マスコミ」の活用
2.「ばったり」感を生み出すために 「クチコミ」の活用
3.「おすみつき」感を出すために 「インフルエンサー」の活用
「おおやけ」とは、「公(おおやけ)のこと」。組織や世間一般に関わっていることだ。つまり、モノゴトに対してある種のカジュアル世論が生まれるには、世間で広く共有されていることが必要ということ。(公共性)
マスコミに取り上げてもらうことで、「この話題は、日本中でたくさんの人に知られている」と消費者に思ってもらい、設定したテーマに「おおやけ感(公共性)」を付与する効果は絶大だ。
「ばったり」とは、偶然出会う様子のこと、カジュアル世論の形成には、消費者が情報に接する際にある種の「偶然性」を持たせる必要もある。
この「ばったり」感を演出するには、クチコミの活用が欠かせない。
最近は、ソーシャルメディアで情報共有が浸透し、消費者がネット上で情報発信や情報シェアを行うことは、すっかり日常になった。これによってクチコミは、「ある程度」意図的に仕掛けられるものとなった。「クチコミを起こす人」を見つけられるようになったからだ。彼らにアプローチできれば、好意的なクチコミをネット上に広げて、「ばったり感」の下地にすることも不可能ではない。
「おすみつき」とは、「お墨つき」のことで、「影響力のある第三者」が関与、推奨することで、「あの人が薦めるんだから問題ない!」と感じさせることが必要(信頼性)。
インフルエンサーとは、何らかの専門領域を持っていて、その領域で一定以上の知名度、影響力を持っている人のこと。
インフルエンサーを戦略PRに巻き込むには、とにかく誠心誠意「人間関係づくり」を丁寧に行うこと。そうして、インフルエンサーの協力を取り付けることに成功したら、調査の監修、コンテンツや商品企画などの監修、セミナーでの講演、イベントへの出演、アレンジしたマスコミ取材への対応、といった活動をお願いすることが可能になる。
しかし、カジュアル世論の形成がうまくいったとしても、それだけではモノは売れない。
カジュアル世論と広告の連動
「戦略PRはカジュアル世論をつくってニーズを掘り起こす。広告はその解決策を提示する」という連動が一番うまくいくのではないかと思う。
カジュアル世論を形成することで、消費者に「気づき」を与え、「買う理由」を生み出す。そんな「買う理由ができた状態」の消費者に、「あなたが探している商品はこれではないですか?」と広告する、というわけだ。
第4章 「ソーシャルインフルエンス」を生み出す(池田 紀行)
ソーシャルインフルエンスの設計において最も重要であり、すべての考え方の土台になる「自分ゴト化x仲間ゴト化x世の中ゴト化のデザイン」の方法について整理する。
自分ゴト化のデザイン
自分ゴト化されていない情報は仲間ゴトも世の中ゴト化も進まない。
「この情報は自分に必要な(価値ある)情報だ」と感じてもらうことが最も重要な作業になる。
情報があふれかえり、ほとんどのことが無関心、他人ゴトの中で生活している消費者を「自分ゴト化」させるためには、興味のない対象物に「新たな意味づけ」をしてあげなければならない。それがコンテキストプランニングという考え方だ。
仲間ゴト化のデザイン
仲間ゴトを促進させるために最も重要なのは、共有されやすいコンテキストづくり、つまりトーカブル(Talk-able:話したくなる要素)、バザブル(Buzz-able:話題になる要素)なネタになっているかどうかである。人は感情が動いたときにそれを他の誰かに伝えたくなる。誰かに伝えることで感情的なバランスを保とうとするのだ。
僕はそれを「琴線スイッチ」と呼んでいる。面白い、(良い意味で)バカバカしい、インパクトがある(驚きがある、新たな発見がある)、考えさせられる、感動する-。人間には、感情が動くいくつかのスイッチがある。このスイッチを押さない限り。自分ゴト化はされても、仲間ゴト化は発生しない。「誰かと共有したい」という動機が生まれないからである。
話題の共有・拡散は、足し算ではなく掛け算だ。「自分ゴト化」と「仲間ゴト化」のどちらかがゼロになれば、合計はゼロになる。
もうひとつ大切なことは、自分ゴト化され、誰かにそれを伝えたいと思ったときに、共有されやすいコンテンツやフォーマット(シェアブル:shar-ableな仕様)になっているかどうかである。
仲間ゴト化は、偶然の産物ではなく、マーケターによる緻密な「企て」なのである。
世の中ゴト化のデザイン
ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアが持つ本来の強みには3つかる。
・拡散性 Spreadable
・共有性 Sharable
・常時性 Always On
情報が次から次へとまるでウィルスのように伝播していく動的な拡散性、共感したり価値ある情報を友人や知人とすぐさまシェアすることができる共有性、そして、いつも隣で一緒にいることができる常時性である。
会話されるニュースをつくる
ソーシャルインフルエンスを最大化させるため重要なのは、「ソーシャルメディアで話題になるネタをつくり、それをニュース(記事)として露出させること」である。
キャンペーンセントリックからオールウェイズオンへ
いままでのキャンペーンセントリック型(短期的なキャンペーンによるアプローチ)を反省し、オールウェイズオン(いつもユーザに寄り添って中長期的なブランドコミュニケーションを図ることでエンゲージメントを高めてくいく)という考え方だ。
新商品のローンチや商品リニューアル、その他シーズナリーキャンペーンごとに知恵を絞って大量の広告予算を投下してきたが、それら施策が「投資」として蓄積されたいない。キャンペーンをおこなえば、企画内容や広告予算に応じてそれなりのバズを発生させることはできるものの、それが次につながらない。1回のキャンペーンでリーチしたユーザーと、そのときだけの関係でなく、それをスタートラインにして関係性を育んでいきたい。次にキャンペーンを打つ場合、前回のキャンペーンで接点のあったユーザーにもう一度告知したり、参加してもらいたい。企業はいま、過去のキャンペーンセントリックな時代に分かれを告げ、ユーザーとの「継続性」のある関係性づくりへシフトしたいと考えているのだ。
短期的なキャンペーンによるバズの最大化を、オールウェイズオンの施策によってつなげることで、「投資」としての効果を蓄積できるようになる。
広告だけで興味を喚起することは難しい
『ブランドは広告ではつくれない PR vs 広告』の中で、
「PR first,Advertising Second.(最初にPR、その後に広告)」
という一節がある。「いきなり広告を打つのではなく、まずPRによって世の中ゴトをつくってから広告を打った方が効果が高いですよ」ということがまとめられている。
瞬間的な話題(ファッド)を長期化(ブーム化)する
話題の寿命(ライフサイクル)について解説する。
話題には、数日で一気に盛り上がって消滅するFad(ファッド)、数か月程度続くBoom(ブーム)、1年程度継続するTrend(トレンド)の3つがある。
また、話題のライフサイクルは話題化のスピードとほぼ同じくらいの時間尾をかけて消滅していく。だから、一気に話題になったものは、その分、寿命も短い。
ファッドをブームやトレンドに押し上げていくためには、「おおやけ」「ばったり」「おすみつき」のポジティブサイクルをまわさなければならない。そのためには、ソーシャルメディアでの仲間ゴト化だけでは不十分だ。いかにマスメディアによる刺激を与え続けることができるか。
話題のエクステンション(拡張)xマスメディアでの継続的露出の掛け算がソーシャルインフルエンスを長寿化させる肝になる。