
御岳さん に再訪。
冷たぬき(500円)を頼む。
付け合せは、大根と鶏肉の炊き合わせ。
京井 良彦 著 『つなげる広告 共感、ソーシャル、ゲームで築く顧客との新しい関係』 を読む。
ソーシャルメディア時代へ対応を進める企業
米調査機関のフォレスター・リサーチによれば、企業のソーシャルメディア対応の成熟度は、業種、地域、顧客層の違いに関わらず、共通の変化を遂げていく。
(5) ラガード(遅延者):休眠段階
これらの会社は非常に保守的で規制が多い。または興味がない。
(4) レイト・マジョリティー(後期多数採用者):テスト段階
ソーシャルメディアを導入したが組織のポケットの中で開始したに過ぎず、混沌が分散している段階。
(3)アーリー・マジョリティー(前期多数採用者):調整段階
マネジメントがソーシャルメディアから得られるメリットとリスクを認識し、リソースを割いて管理を始めた状態。分散した混沌から中央集権的なアプローチになり、組織全体で一貫性を持つようになる。
(2)アーリー・アダプター(初期採用者):拡大、最適化段階
スターバックスや、コカ・コーラ、家電量販店ベストバイのように、リーダーがソーシャル化した各組織を連携させ、マーケティングにおけるソーシャルメディア活動の最適化と統合化を行っている。
(1)イノベーター(革新者):社員への権限移譲段階
オンラインシューズ販売のザッポスなどごくわずかな企業だが、全関係社員がトレーニングを積み、ソーシャルメディアを活用するのに権限委譲がされている。
このように企業がソーシャルメディア時代に対応しようという動きは、「ソーシャルシフト」と言われ、この流れは加速することはあっても元に戻ることはありません。なぜならソーシャルメディアは一過性の流行ではなく、インフラとして普及していくものだからです。
ソーシャルメディアの浸透は、情報の流れと人間のマインドに大きな変化をもたらします。情報は人を介して伝播するようになり、生活者はこれまでと違った価値観に基づいて行動するようになります。そのため企業と生活者のコミュニケーションスタイルは、大きな転換点を迎えているのです。
広告は「対話」へ。「伝える」ために「つなげる」
ソーシャルメディア上では、価値ある情報ほど関係が構築された人につながりを介して伝わるようになります。情報がつながりの上で伝わるのであれば、企業は生活者とのつながりを持たなければなりません。つながり上のコミュニケーションは、従来型の「一方的に伝える」ことから、「対話の成立」という、より本質的なものになる。
よって、ソーシャルメディア時代の広告には、企業と生活者の本来のコミュニケーションを実現するため、両者を「つなげる」という役割が求められる。
ソーシャルメディア時代のコミュニケーションでは、従来と違うメカニズムが働きます。つながった生活者は他の生活者ともつながっていることを理解する必要しなければなりません。つながりの上を情報がどのように伝播していくかを理解する必要もあります。そして何よりも重要なことは、生活者のマインドの変化と長期にわたってつながり続けることの重要性を理解することです。
「つなげる広告」には、3つの「つなげる」の意味を込めています。
(1)企業と生活者、生活者と生活者をつなげる「関係の構築」の意
(2)その上をバトンリレーのようにつなげて広がる「自走するコンテンツ」の意
(3)単発で終わらない、次につなげる「持続性、継続性を保つ仕掛け」の意
ソーシャルメディア時代では、企業と生活者がつながり、両者が一緒になってブランドの未来を共創していくべきです。広告は3つのつなげる力によって、そんな企業と生活者が対話を続けていく環境を支えていくべきだと思うのです。
友人の声こそ情報フィルター
ソーシャルメディア時代には、いろんなソーシャルツールと人力のコラボレーションで、情報を選別するようになります。逆にここのふるいで落とされた情報は、その時点で価値を失ってしまいます。友人に推薦された情報は、フィルターをくぐりぬけてきたというだけで一定の価値が保証されるので、さらにその友人に薦められる可能性が高まります。
このようにして、価値のある情報だけが、人と人とのつながりを介して流れるようになるわけです。
企業から発信する情報は、超がつくほどの情報過多の中で、共感という友人の推薦を獲得してフィルターをくぐりぬけていかなければなりません。しかし、一度、受け手の共感を獲得すると、「いいね!」やシェアやリツイートという行動を促し、友人にその受け手の推薦とともに自動的に届けられます。新たな友人にとっても、友人からの推薦付きの情報ということで、新たな共感を生みやすいものになっています。
こうして人の共感をまとった情報は、まるで自らの力でつながりの上を走っていくかのように加速度的にどんどんと拡散していくのです。
共感情報の自走パワーは凄まじく、個人が発信する情報が共感の力で拡散し、そういった仕組みを理解していない大企業を揺るがすということも起きている。
広告はプロセス・マネジメントは大事に
ソーシャルメディア上で流通する情報は、完全に生活者によるオーガニックなもので、企業側がコントロールはできません。コントロールが難しいのではなく、コントロールは不可能なのです。これを無理にコントロールしようとすることが原因で炎上などが起きる場合がある。
ブランドは人間になり、物語が求められる
ブランドは、「ベストショット」だけでなく、いい面もよくない面も全てが見られるようになってしまいます。要するに、ブランドも人と同じように長所もあれば短所もある、キャラクターとでも言うような愛すべき「人格」ができるということです。企業活動やコミュニケーションの全てがさらされることによって、そのブランドには人間のような性格付けがされていくわけです。逆に言えば、日ごろの活動や、コミュニケーションが積み上げられて形成される人格こそが、ブランドそのものになるということでもある。
こうなると、「何を言っているのか?」という情報発信の内容もさることながら、「誰が(つまり、どんなブランドが)言っているのか?」ということがより重要になってきます。
企業のフェイスブックページがタイムラインに移行したことで、ブランドはより人間的な人格が表れるものになりつつあります。タイムラインを通じてブランドのヒストリーを見ることにより、人間に一生があるように、ブランドにも一生があることが感じられるようになるのです。
企業やブランドの広告が生活者との信頼を築いていくためのコミュニケーションは、常にこのようなブランドヒストリーの延長上になければならない。
ソーシャルメディア時代には、企業やブランドが日ごろどういう活動をしているかの積み重ねがコミュニケーションの前提になるため、脈絡もなくセールスメッセージを発信したり、表面的なイメージだけを取り繕ったりしてもあまり意味がなくなります。
こうなると広告は、人格を持つ企業やブランドの人生の一部に接してもらうという意味が強くなります。企業やブランドの人生という物語に接してもらい、共感してもらい、つながっている友人や知人とどんどん共有してもらうということです。
ブランドは人間になり、広告は生活者をその人生の物語に案内するという役割を持つようになるわけです。
網野善彦+宮田登 『歴史の中で語られてこなかったこと おんな・子供・老人からの「日本史」』を読む。
第一部 歴史から何を学べばいいのか?
「囲炉裏バア」とアゼチのオカカ
院政という制度は法的には本来なかったのです。ただ、太上天皇(だいじょうてんのう)が天皇と同じ待遇を受けるという中国大陸の法制にはない規定が、日本の律令にはあったので、それが前提となってこういう制度ができた。
表の公的な行事は天皇がやっていても、実質の公の政治は、隠居した天皇、上皇=院が握っているわけです。もうひとつ、日本の場合、天皇の母や皇后、内親王である女院の発言権が意外に強いのです。
鎌倉時代の天皇家領は全部女院の名前が付けられています。八条院領、宣陽門院領、七条院領、昭慶門院領、みなそうです。つまり経済的な力を女院が持っていたのです。
武士の社会には後見役みたいな形で実権を握る「ご隠居」がいます。
「水戸の隠居」の場合には、また少し別の意味があるかもしれませんが、「大御所」はまさしくそうです。よく江戸後期の徳川家斉の時代を「大御所時代」といいますが、彼は将軍職から退いて隠居したあとも隠然たる力を持って幕政を抑えていたので、こういわれているのです。そうしたケースは秀吉と秀次、家康と秀忠のときにも見られました。鎌倉期の北条氏の得宗と執権の関係もそうです。同じようなことは室町幕府にも見られます。
神の姿が、老人のスタイルを取る。つまり、老人でなくては神様としては通用しない。民俗学的事例でいうと「竈を分ける」というかたちで、長男を残して、二、三男を連れて老人が隠居する。隠居は、「隠居免」の土地を持つけれども、同時に先祖の位牌を持って家を出ていくわけです。そしてさらに二、三男を養育し、二男が独立すると、また三男を連れてその家を出ていく。
末子相続になるわけです。
竈は家の象徴だからその火を分けて持っていくこともある。先祖の位牌を持っていくことは重要で、そうした事例を残している場合は、老人のもっている祭祀権との関わりが注目されます。また老人が、爺さんなのか婆さんなのかも重要です。
囲炉裏から「囲炉裏バア」という妖怪が出てくる。妖怪がいるから囲炉裏の火は消してはいけないし、囲炉裏に不浄なものを入れたりしてはいけない。
囲炉裏の火は竈の火とも通じて家の象徴です。その火を支配している神様、つまり竈神じゃ「三宝荒神」という道教的な陰陽道の神格です。
囲炉裏は、家の中のいちばんの中核の場所ですが、そこを女性が押さえているわけです。家の中のもうひとつの重要な場所である納戸は、夫婦のセックスをする部屋でもあると同時に、蔵でもありますが、これも女性が管理しています。
中世には土倉や借上などの金融業の経営者に女性が多いのですが、これは蔵を管理するのが女性だという慣習を背景にしていると思います。
それから家の権利については、意外に女性が強い権利を持っています。家地の売買については、少なくとも中世の前期は女性の名義になっている場合が非常に多いのです。
囲炉裏には横座と嬶座と客座と木尻の四席があり、主婦は嬶座と決まっていた。嬶座に座ってヘラを握りご飯を配分する。また財布も握っている。「ヘラを握る」ということは、主婦権を持つという考え方があります。そのヘラを譲るということは、嬶座から引退することです。主婦が嬶座に座るのは、普通三十代の中ごろでしょう。「シャモジ渡し」ともいいます。
一般的には、嬶座を譲るに至るまでの嫁と姑との確執が非常に激しい。「姥捨て山」の表現のように、捨てられるのはお婆さんです。中国では60歳の男主人を捨てますが、日本では姥捨ては「姥」というのをわざわざつけている。お婆さんを捨てる形にしている。嬶座を奪われて、嫁が権限を握ったところで捨てられてしまうわけです。
ところが、嫁と姑の中に入った息子は、姥捨てのため母親を背負いながら山奥へ行った。そのときに母親は、我が子が帰り道で迷子にならないように柴を折っては捨てていく。そのことを息子が知って母の愛を知り、母親を捨てることをやめて連れ帰るという美談になるわけです。
誤解されている二男・三男のあり方
先ほどの能登の「アゼチ」と「アゼチオカカ」は、どうも並行していて、爺が死んでもオモヤ側はアゼチの婆、オカカを以前と同じ扱いにしています。爺と婆が一緒に隠居をしているわけです。しかし能登でも隠居するときは、二、三男を連れていきます。
面白いのは、時国家のような大きな家だからかもしれませんが、息子たちをみんな都会へ出して商人にしています。宇出津という都市に家を持たせて時国屋と称します。石高はないので、確かに二、三男は身分的には「水呑」になりますが、決して貧しいわけではありません。「水呑」でも金持ちの商人です。土地は分けないのです。
都市や村落で展開されている日本社会の非農業部門は、われわれが思っているよりもはるかに広く、比重が大きいのです。ところが百姓は全部農民だから八割が農民だ、という今までの感覚、間違った思い込みで江戸時代を見ると、その実態がまるでわからなくなります。実際、能登の百姓の中には、農業以外の生業に携わる人がたくさんいるわけで、水呑の中にも商工業者や廻船人の水呑、つまり都市民が非常に多いのです。土地を持たない商人、手工業者は身分的に水呑になりますし、百姓といっても農業以外の生業を主な飯の種にしている人たちが多いのです。ですから隠居がアゼチをしたときに連れていった二、三男の進む道も非常に広いといえます。
「80%が農民」というのは絶対におかしいのです。「百姓が80%」なのです。それが農民が80%になったのは、「壬申戸籍」が百姓・水呑をすべて農にしてしまったからです。その結果、明治7年の公式統計が、農が約80%になるのです。だからこの「百姓=農民」という常識は、百年にわたって日本人の頭に刷り込まれてきたわけです。
十分な能力を持った「女相場師」
江戸時代の妖怪は女の人が多い。今までの解釈では、虐げられた女性が、家内で中傷され三角関係を清算されたあげくに殺されて怨霊になるというストーリーが多かった。しかし、怪談の中には女性がその家の分を守らずに、家のおカネを勝手に使い、相場につぎ込んで稼いだりしたことで罰せられ、その怨霊が出てくるという怪談も意外に多い。
だいたい商家では女性の地位が高い。女将という言葉が使われる世界は、宿屋や料理屋のように、動産の世界です。商業や交易、交通の世界に関わりがあるわけですが、公の世界にはみな不動産=土地がからんでいます。
税金を出すのも建前は男です。土地が税金の基礎になっているから、公は男の世界になるわけです。しかし、裏の世界、動産の世界での女性の力は大変なものだと思います。
古い伝統に裏付けられた「接待」と「談合」の歴史
接待の伝統は非常に古くて、酒迎をはじめ、訪れてくる貴人に対する接待は儀礼として不可欠なものでした。中世の荘園経営も、正月の説には百姓と一緒に酒を飲むことが代官たちの不可欠な仕事でした。正月二日には魚肴を市場で買い、トウフを作って清酒、白酒をたくさん買い、代官は百姓に大盤振る舞いをします。この費用は、必要経費として年貢の中から支出しています。それから、年貢を倉に納めたときにも酒を出し、祭りのときは必ず代官が寄付をしています。それはみな年貢から控除されるわけです。
百姓と一緒に酒を飲むのも、百姓に文句を言わないで租税、年貢・公事を払ってもらうためであり、有力者への接待は荘園に余計な口出しをしないようにしてもらうためだったわけで、これがうまくできないと、代官として合格ではなかった。15世紀になると、市場は都市になり、飲み屋ができて、代官はそこで近辺の有力者を接待するようになります。しかし、あまりこれをやりすぎると罷免されますから、そこにはおのずから適当な節度があります。
神仏がかかわった「談合」の現場
「相談」も「談合」も中世以来の言葉です。
東京の団子坂の由来も、談合とつながっています。あの坂の奥に根津権現の古社があり、神社へと至る道が聖域と俗界との境界になっている。相談事を村境でするのは「境界争い」の場合に生じますが、その場合の談合形式は、聖のテリトリーである境界で両者が話し合いをして決着する。日本には、元来聖なる場所で談合するという伝統があったらしい。その場合には、接待や饗応、その際に奢りという言葉で表現されるような、神様の前で皆共食する会合があった。ですから、聖域で「神人共食」の場の談合は正当なものだった。
森 茂暁 著 『建武政権 後醍醐天皇の時代』 を読む。
第一章 鎌倉後期の公武交渉
得宗専制の末期症状
約150年間続いた鎌倉幕府の政治過程は、ふつう将軍独裁・執権政治・得宗専制の三段階をもって理解されている。このうち時間的に見て最も長い得宗専制は北条時頼のころに萌芽し、蒙古来襲を乗り切った子時宗の時期にいたって飛躍的な深化をみせ、その子貞時のとき最高潮に達したといわれている。
北条氏の家督を中心に一門、被官といった一部の者たちによって運営された得宗専制の強化は、当然のことながら一般御家人の間に根強い反発・抵抗を増幅させていった。貞時は幕府支配の基礎たる御家人制の疲弊に気付き、金融業者の犠牲のうえに永仁5年(1297)の徳政令を発布し、その再編に最大限の努力を傾けたが、ときすでに遅く、かえって経済界を混乱させるのみであった。
応長元年(1311)の貞時の病死は得宗の支配下に鬱積されたさまざまの矛盾をいっせいに表面化させた。確かな主導者を欠如した幕府内部の権力闘争、寺社統制の失策に伴う宗教界の敵対、悪党の跳梁、いづれも幕府の存立を根底から揺すぶった。逆に後醍醐天皇の側から見れば、倒幕のためのこよなき条件が整うことを意味したのである。
第二章 後醍醐天皇前期親政
1 倒幕運動の展開
後宇多院政の廃止
後宇多上皇が院中に院を聴いたのは二期十年にわたる。
後二条天皇の践祚とともに開始された第一次後宇多院政は、「乾元・嘉元の間(1302~06)、政理乱れず」といわれたように善政の誉れ高かった。その院政が晩節ととのわなくなったきっかけは、まず後宇多上皇の皇后 a遊義門院姈子(後深草皇女)が徳治2年(1307)7月、38歳で没したことである。このとき上皇は出家、大覚寺に入り、法諱を金剛性と称した。皇后の逝去に加えて翌年8月には将来を嘱望した後二条天皇が24歳の若さで早世したのである。たび重なる悲運に遭遇した法皇は政務への意欲を急速に喪失していった。同閏8月3日にはついに所領を第二子中務卿 尊治親王(のちの後醍醐天皇)に譲与してしまう。
尊治親王はこの年の9月19日に立太子、まさに政治舞台への第一歩を踏み出すわけであるが、、同親王登場の背後には父後宇多法皇の意図が大きく働いていた。
こうして世をはかなむ法皇は真言密教へのめり込んでゆく。徳治3年1月、東寺に幸し、前大僧正善助を大阿闍梨として秘密灌頂を受けた法皇は、同2月、西院御影堂において「六箇御願」を立て、東寺を平安初期の姿に復興する事業に、信仰心に裏打ちされた治天下としての全精力を傾けることになる。
法皇には嫡孫をもって皇統を継がしめるという意図があったため、すでに東宮には邦良親王が据えられていた。法皇にとって後醍醐天皇の即位は、邦良親王の成長を待つ間の暫定措置にすぎなかった。(当時の「一代の主」の言葉はそれを象徴する)。しかしこの法皇の宿願は、その崩御と共ともにほぼ反古となる。
室町院領
天皇家の経済は一に皇室領によって支えられた。皇室領荘園は全国に六、七百か所におよんだといれている。そのなかで代表的な大規模荘園群が長講堂領、八条院領、七条院領、室町院領などである。
持明院・大覚寺両統が熾烈な分裂劇を演じた理由の一つに両統の荘園支配に立脚した経済力の均衡性が指摘されている。持明院統は文永4年(1267)に宣陽門院(後白河皇女覲子)から後嵯峨院を経て、180か所におよぶといわれる長講堂領を伝領し、いっぽう大覚寺統は弘安6年(1283)、安嘉門院(後高倉皇女邦子)より百数十か所におよぶといわれる八条院領を手中に入れていたのである。この二つの荘園群はおのおの経済的意味での大黒柱であった。
室町院領といわれる荘園群は、承久の乱後これを獲得した後高倉院から、まず皇女式乾門院利子へ移譲され、さらに利子はこれを宝治元年(1247)、猶子にむかえた中書王宗尊に伝えようとしていた。
式乾門院は、建長3年(1251)に没するが、その2年前の建長元年、処分状をしたためておいた。それによって、件の荘園群は一期ののちは、宗尊に譲るという条件付きで姪の室町院に伝えられることとなった。この宗尊とは後嵯峨院の皇子で、鎌倉幕府の執権北条時頼の要請によって、建長4年(1251)、11歳ではじめての皇族将軍として東下した、かの宗尊親王のことである。
将軍宗尊はやがて得宗北条時宗との間に摩擦をひきおこし、文永3年(1266)7月、将軍の地位を子惟康王(3歳)に譲り、15年間におよぶ鎌倉生活を終え帰京することになる。問題の荘園群は予定通り宗尊に移譲されるかにみえた。ところが、当の宗尊は文永11年(1274)、33歳で没したのである。このため、せっかくの式乾門院の遺志は実現されぬまま消滅した。一期分としてこれを預かった室町院も正安2年(1300)5月、73歳で没したが、彼女がこの荘園群に対する措置をまったくとらなかったことが、紛争の種をまくことになった。のちに争奪の対象となるこの荘園群を室町院領という。
正安3年1月、後二条天皇の践祚に伴い、父後宇多上皇の院政が開始される。室町院領はごく自然のなりゆきとして宗尊の娘瑞子(土御門姫君)に帰した。ところが翌年、瑞子は准三后に列せられ、永嘉門院という院号をたまわり、後宇多上皇の猶子となる。この措置は女院の伝領する室町院領を目当てにした策略だと考えられている。むろん、持明院側は強硬に異議を申し立てた。そして結局、幕府の調停によって正安4年8月、室町院領は両統に折半された。このとき大覚寺統は二十余カ国にわたる53荘郷を獲得した。
室町院領をめぐる大覚寺側の攻撃は、文保の和談をたてに花園天皇を退位させて登場する後醍醐天皇の治世となって以降、再燃する。
両統の争いは持明院側から関東に愁訴された。このとき幕府が正安4年の折半決定を支持したため、天皇自身これ以上の介入を断念せざるを得なかった。
無礼講
正中の謀議は無礼講(あるいは破仏講)と称された乱痴気パーティーのなかで準備された。
およそ近日或る人云く、(日野)資朝、俊基等結衆会合し乱遊す。或いは衣冠を着せず、ほとんど裸形にして、飲茶の会これあり。これ達士の風を学ぶか。(中略)この衆数輩あり。世にこれを無礼講の衆と称すと云々。(花園天皇宸記)
正中の変
元亨4年(正中元)9月23日の北野祭を期したクーデター計画の概要は次のようである。北野祭では例年喧嘩がつきもので、その鎮定には六波羅探題の武士が出動する。このすきをとらえて北方探題 北条範貞を誅殺する。南都の衆徒は交通の要衝、宇治と勢多を固める。これら一連の指揮は資朝・俊基が行い、近国武士を多く味方に引き入れる。
しかし、この企ては一味同心したはずの土岐頼員の密告によって水泡に帰してしまう。頼員は同族の多治見国長を通して、資朝の奉じた後醍醐天皇の綸旨に接したのであったが、ことが成就しそうになく、関東の恩にも背くわけにはいかないので、妻の父である六波羅奉行人斎藤俊行にいっさいをばらしてしまったのである。
後醍醐天皇はこの事件との係累を否定した。事前には「関東執政しかるべからず、また運すでに衰ふるに似たり。朝威はなはだ盛んなり。あに敵すべけんや。よって誅さるべし」と語気強く倒幕意志をあらわにしていた天皇が、一転して「主上すこぶる迷惑し給う」と態度を変えたのである。
洛中の支配
荘園制の体制的発展が「王侯の宿営地」としての古代都市京都を政治・商業の中心都市=中世都市へと転換させたのは平安時代の後期院政期とみなされている。商品流通・貨幣経済の中心的地位を獲得し、公家をはじめ寺社権門を集住させた京都を王土思想をもとに掌握することは、後醍醐親政にとって喫緊の大問題であったと言える。
後醍醐天皇は親政開始と同時に、きわめて厳しい専制的姿勢でこの課題(洛中の土地を人の支配)に着手した。元亨2年(1322)に発せられた神人公事停止令・洛中酒鑪役賦課令は親政全般を貫く基本法令として注目される。
前者は洛中を中心に集住する寺社権門に属して、幅広い商業活動をおこなってきた神人の本所に対する諸公事を免除するというもの、後者はこれまた諸自社の神人として交易にたずさわっていた洛中の酒屋を、内廷経済の基盤として再編しようとしたものである。
この二法令の眼目は洛中神人に対する寺社権門の本所支配権を断ち切り、彼らを天皇の供御人として編成することにあった。
以上の神人に焦点をあてた施策が「人」に対する支配とみれば、いまいっぽうの「土地」に対するそれは地口銭の賦課に求められる。
地口銭とは朝廷・幕府などの公権力が、洛中の商工業者に対し地口、つまり道路に面した部分の長さに準拠して尺別に賦課した臨時課税である。この課税は商業都市としての洛中の特質にもとずくものである。
第三章 建武政権の成立と展開
2 新政の諸相
新政の理念
元弘3年6月5日、二条富小路内裏に還幸した後醍醐天皇は「自立登極」し、重祚の礼におよばなかった。2年前皇居から脱出した天皇にとって以降の幽囚の日々はあくまでも遷幸にすぎなかったのである。偽朝たる光厳朝下の任官・叙位は停廃されねばならず、もとのメンバーが次々と復官した。
帰京後、天皇がみせた政務に対する意欲にはすさまじいものがある。『梅松論』にみえる「古の興廃を改て、今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」という一文は新政の基本理念を端的に表現している。新しい政治が「延喜・天暦のむかしに立帰」ったと描かれるのもいわれなきことではない。後醍醐天皇の新政府の真面目は、徹底的な天皇親政のしくみを採用したことにある。このため院政はしかれず、摂関・太政大臣もおかれなかった。
後醍醐天皇は政務を担当するにあたり、まず記録所、ついで恩賞方・雑訴決断所などの官衙を開設し、親政体制を支える機構をととのえる。
天皇に課された最大の難問は、公武両社会をいかに統一的に支配するかであった。官制の特質も究極的にはここに帰着する。