網野善彦+宮田登 『歴史の中で語られてこなかったこと おんな・子供・老人からの「日本史」』を読む。

第一部 歴史から何を学べばいいのか?
「囲炉裏バア」とアゼチのオカカ
院政という制度は法的には本来なかったのです。ただ、太上天皇(だいじょうてんのう)が天皇と同じ待遇を受けるという中国大陸の法制にはない規定が、日本の律令にはあったので、それが前提となってこういう制度ができた。
表の公的な行事は天皇がやっていても、実質の公の政治は、隠居した天皇、上皇=院が握っているわけです。もうひとつ、日本の場合、天皇の母や皇后、内親王である女院の発言権が意外に強いのです。
鎌倉時代の天皇家領は全部女院の名前が付けられています。八条院領、宣陽門院領、七条院領、昭慶門院領、みなそうです。つまり経済的な力を女院が持っていたのです。
武士の社会には後見役みたいな形で実権を握る「ご隠居」がいます。
「水戸の隠居」の場合には、また少し別の意味があるかもしれませんが、「大御所」はまさしくそうです。よく江戸後期の徳川家斉の時代を「大御所時代」といいますが、彼は将軍職から退いて隠居したあとも隠然たる力を持って幕政を抑えていたので、こういわれているのです。そうしたケースは秀吉と秀次、家康と秀忠のときにも見られました。鎌倉期の北条氏の得宗と執権の関係もそうです。同じようなことは室町幕府にも見られます。
神の姿が、老人のスタイルを取る。つまり、老人でなくては神様としては通用しない。民俗学的事例でいうと「竈を分ける」というかたちで、長男を残して、二、三男を連れて老人が隠居する。隠居は、「隠居免」の土地を持つけれども、同時に先祖の位牌を持って家を出ていくわけです。そしてさらに二、三男を養育し、二男が独立すると、また三男を連れてその家を出ていく。
末子相続になるわけです。
竈は家の象徴だからその火を分けて持っていくこともある。先祖の位牌を持っていくことは重要で、そうした事例を残している場合は、老人のもっている祭祀権との関わりが注目されます。また老人が、爺さんなのか婆さんなのかも重要です。
囲炉裏から「囲炉裏バア」という妖怪が出てくる。妖怪がいるから囲炉裏の火は消してはいけないし、囲炉裏に不浄なものを入れたりしてはいけない。
囲炉裏の火は竈の火とも通じて家の象徴です。その火を支配している神様、つまり竈神じゃ「三宝荒神」という道教的な陰陽道の神格です。
囲炉裏は、家の中のいちばんの中核の場所ですが、そこを女性が押さえているわけです。家の中のもうひとつの重要な場所である納戸は、夫婦のセックスをする部屋でもあると同時に、蔵でもありますが、これも女性が管理しています。
中世には土倉や借上などの金融業の経営者に女性が多いのですが、これは蔵を管理するのが女性だという慣習を背景にしていると思います。
それから家の権利については、意外に女性が強い権利を持っています。家地の売買については、少なくとも中世の前期は女性の名義になっている場合が非常に多いのです。
囲炉裏には横座と嬶座と客座と木尻の四席があり、主婦は嬶座と決まっていた。嬶座に座ってヘラを握りご飯を配分する。また財布も握っている。「ヘラを握る」ということは、主婦権を持つという考え方があります。そのヘラを譲るということは、嬶座から引退することです。主婦が嬶座に座るのは、普通三十代の中ごろでしょう。「シャモジ渡し」ともいいます。
一般的には、嬶座を譲るに至るまでの嫁と姑との確執が非常に激しい。「姥捨て山」の表現のように、捨てられるのはお婆さんです。中国では60歳の男主人を捨てますが、日本では姥捨ては「姥」というのをわざわざつけている。お婆さんを捨てる形にしている。嬶座を奪われて、嫁が権限を握ったところで捨てられてしまうわけです。
ところが、嫁と姑の中に入った息子は、姥捨てのため母親を背負いながら山奥へ行った。そのときに母親は、我が子が帰り道で迷子にならないように柴を折っては捨てていく。そのことを息子が知って母の愛を知り、母親を捨てることをやめて連れ帰るという美談になるわけです。
誤解されている二男・三男のあり方
先ほどの能登の「アゼチ」と「アゼチオカカ」は、どうも並行していて、爺が死んでもオモヤ側はアゼチの婆、オカカを以前と同じ扱いにしています。爺と婆が一緒に隠居をしているわけです。しかし能登でも隠居するときは、二、三男を連れていきます。
面白いのは、時国家のような大きな家だからかもしれませんが、息子たちをみんな都会へ出して商人にしています。宇出津という都市に家を持たせて時国屋と称します。石高はないので、確かに二、三男は身分的には「水呑」になりますが、決して貧しいわけではありません。「水呑」でも金持ちの商人です。土地は分けないのです。
都市や村落で展開されている日本社会の非農業部門は、われわれが思っているよりもはるかに広く、比重が大きいのです。ところが百姓は全部農民だから八割が農民だ、という今までの感覚、間違った思い込みで江戸時代を見ると、その実態がまるでわからなくなります。実際、能登の百姓の中には、農業以外の生業に携わる人がたくさんいるわけで、水呑の中にも商工業者や廻船人の水呑、つまり都市民が非常に多いのです。土地を持たない商人、手工業者は身分的に水呑になりますし、百姓といっても農業以外の生業を主な飯の種にしている人たちが多いのです。ですから隠居がアゼチをしたときに連れていった二、三男の進む道も非常に広いといえます。
「80%が農民」というのは絶対におかしいのです。「百姓が80%」なのです。それが農民が80%になったのは、「壬申戸籍」が百姓・水呑をすべて農にしてしまったからです。その結果、明治7年の公式統計が、農が約80%になるのです。だからこの「百姓=農民」という常識は、百年にわたって日本人の頭に刷り込まれてきたわけです。
十分な能力を持った「女相場師」
江戸時代の妖怪は女の人が多い。今までの解釈では、虐げられた女性が、家内で中傷され三角関係を清算されたあげくに殺されて怨霊になるというストーリーが多かった。しかし、怪談の中には女性がその家の分を守らずに、家のおカネを勝手に使い、相場につぎ込んで稼いだりしたことで罰せられ、その怨霊が出てくるという怪談も意外に多い。
だいたい商家では女性の地位が高い。女将という言葉が使われる世界は、宿屋や料理屋のように、動産の世界です。商業や交易、交通の世界に関わりがあるわけですが、公の世界にはみな不動産=土地がからんでいます。
税金を出すのも建前は男です。土地が税金の基礎になっているから、公は男の世界になるわけです。しかし、裏の世界、動産の世界での女性の力は大変なものだと思います。
古い伝統に裏付けられた「接待」と「談合」の歴史
接待の伝統は非常に古くて、酒迎をはじめ、訪れてくる貴人に対する接待は儀礼として不可欠なものでした。中世の荘園経営も、正月の説には百姓と一緒に酒を飲むことが代官たちの不可欠な仕事でした。正月二日には魚肴を市場で買い、トウフを作って清酒、白酒をたくさん買い、代官は百姓に大盤振る舞いをします。この費用は、必要経費として年貢の中から支出しています。それから、年貢を倉に納めたときにも酒を出し、祭りのときは必ず代官が寄付をしています。それはみな年貢から控除されるわけです。
百姓と一緒に酒を飲むのも、百姓に文句を言わないで租税、年貢・公事を払ってもらうためであり、有力者への接待は荘園に余計な口出しをしないようにしてもらうためだったわけで、これがうまくできないと、代官として合格ではなかった。15世紀になると、市場は都市になり、飲み屋ができて、代官はそこで近辺の有力者を接待するようになります。しかし、あまりこれをやりすぎると罷免されますから、そこにはおのずから適当な節度があります。
神仏がかかわった「談合」の現場
「相談」も「談合」も中世以来の言葉です。
東京の団子坂の由来も、談合とつながっています。あの坂の奥に根津権現の古社があり、神社へと至る道が聖域と俗界との境界になっている。相談事を村境でするのは「境界争い」の場合に生じますが、その場合の談合形式は、聖のテリトリーである境界で両者が話し合いをして決着する。日本には、元来聖なる場所で談合するという伝統があったらしい。その場合には、接待や饗応、その際に奢りという言葉で表現されるような、神様の前で皆共食する会合があった。ですから、聖域で「神人共食」の場の談合は正当なものだった。
こんなに要約をまとめるのは大変でしょ。
今も昔もあまり変わりないような気がします。