読書 森 茂暁 『建武政権 後醍醐天皇の時代』 講談社学術文庫

森 茂暁 著 『建武政権 後醍醐天皇の時代』 を読む。

”建武政権”
建武政権

第一章 鎌倉後期の公武交渉
得宗専制の末期症状
約150年間続いた鎌倉幕府の政治過程は、ふつう将軍独裁・執権政治・得宗専制の三段階をもって理解されている。このうち時間的に見て最も長い得宗専制は北条時頼のころに萌芽し、蒙古来襲を乗り切った子時宗の時期にいたって飛躍的な深化をみせ、その子貞時のとき最高潮に達したといわれている。
北条氏の家督を中心に一門、被官といった一部の者たちによって運営された得宗専制の強化は、当然のことながら一般御家人の間に根強い反発・抵抗を増幅させていった。貞時は幕府支配の基礎たる御家人制の疲弊に気付き、金融業者の犠牲のうえに永仁5年(1297)の徳政令を発布し、その再編に最大限の努力を傾けたが、ときすでに遅く、かえって経済界を混乱させるのみであった。
応長元年(1311)の貞時の病死は得宗の支配下に鬱積されたさまざまの矛盾をいっせいに表面化させた。確かな主導者を欠如した幕府内部の権力闘争、寺社統制の失策に伴う宗教界の敵対、悪党の跳梁、いづれも幕府の存立を根底から揺すぶった。逆に後醍醐天皇の側から見れば、倒幕のためのこよなき条件が整うことを意味したのである。

第二章 後醍醐天皇前期親政
1 倒幕運動の展開
後宇多院政の廃止
後宇多上皇が院中に院を聴いたのは二期十年にわたる。
後二条天皇の践祚とともに開始された第一次後宇多院政は、「乾元・嘉元の間(1302~06)、政理乱れず」といわれたように善政の誉れ高かった。その院政が晩節ととのわなくなったきっかけは、まず後宇多上皇の皇后 a遊義門院姈子(後深草皇女)が徳治2年(1307)7月、38歳で没したことである。このとき上皇は出家、大覚寺に入り、法諱を金剛性と称した。皇后の逝去に加えて翌年8月には将来を嘱望した後二条天皇が24歳の若さで早世したのである。たび重なる悲運に遭遇した法皇は政務への意欲を急速に喪失していった。同閏8月3日にはついに所領を第二子中務卿 尊治親王(のちの後醍醐天皇)に譲与してしまう。
尊治親王はこの年の9月19日に立太子、まさに政治舞台への第一歩を踏み出すわけであるが、、同親王登場の背後には父後宇多法皇の意図が大きく働いていた。
こうして世をはかなむ法皇は真言密教へのめり込んでゆく。徳治3年1月、東寺に幸し、前大僧正善助を大阿闍梨として秘密灌頂を受けた法皇は、同2月、西院御影堂において「六箇御願」を立て、東寺を平安初期の姿に復興する事業に、信仰心に裏打ちされた治天下としての全精力を傾けることになる。
法皇には嫡孫をもって皇統を継がしめるという意図があったため、すでに東宮には邦良親王が据えられていた。法皇にとって後醍醐天皇の即位は、邦良親王の成長を待つ間の暫定措置にすぎなかった。(当時の「一代の主」の言葉はそれを象徴する)。しかしこの法皇の宿願は、その崩御と共ともにほぼ反古となる。

室町院領
天皇家の経済は一に皇室領によって支えられた。皇室領荘園は全国に六、七百か所におよんだといれている。そのなかで代表的な大規模荘園群が長講堂領、八条院領、七条院領、室町院領などである。
持明院・大覚寺両統が熾烈な分裂劇を演じた理由の一つに両統の荘園支配に立脚した経済力の均衡性が指摘されている。持明院統は文永4年(1267)に宣陽門院(後白河皇女覲子)から後嵯峨院を経て、180か所におよぶといわれる長講堂領を伝領し、いっぽう大覚寺統は弘安6年(1283)、安嘉門院(後高倉皇女邦子)より百数十か所におよぶといわれる八条院領を手中に入れていたのである。この二つの荘園群はおのおの経済的意味での大黒柱であった。

室町院領といわれる荘園群は、承久の乱後これを獲得した後高倉院から、まず皇女式乾門院利子へ移譲され、さらに利子はこれを宝治元年(1247)、猶子にむかえた中書王宗尊に伝えようとしていた。
式乾門院は、建長3年(1251)に没するが、その2年前の建長元年、処分状をしたためておいた。それによって、件の荘園群は一期ののちは、宗尊に譲るという条件付きで姪の室町院に伝えられることとなった。この宗尊とは後嵯峨院の皇子で、鎌倉幕府の執権北条時頼の要請によって、建長4年(1251)、11歳ではじめての皇族将軍として東下した、かの宗尊親王のことである。
将軍宗尊はやがて得宗北条時宗との間に摩擦をひきおこし、文永3年(1266)7月、将軍の地位を子惟康王(3歳)に譲り、15年間におよぶ鎌倉生活を終え帰京することになる。問題の荘園群は予定通り宗尊に移譲されるかにみえた。ところが、当の宗尊は文永11年(1274)、33歳で没したのである。このため、せっかくの式乾門院の遺志は実現されぬまま消滅した。一期分としてこれを預かった室町院も正安2年(1300)5月、73歳で没したが、彼女がこの荘園群に対する措置をまったくとらなかったことが、紛争の種をまくことになった。のちに争奪の対象となるこの荘園群を室町院領という。
正安3年1月、後二条天皇の践祚に伴い、父後宇多上皇の院政が開始される。室町院領はごく自然のなりゆきとして宗尊の娘瑞子(土御門姫君)に帰した。ところが翌年、瑞子は准三后に列せられ、永嘉門院という院号をたまわり、後宇多上皇の猶子となる。この措置は女院の伝領する室町院領を目当てにした策略だと考えられている。むろん、持明院側は強硬に異議を申し立てた。そして結局、幕府の調停によって正安4年8月、室町院領は両統に折半された。このとき大覚寺統は二十余カ国にわたる53荘郷を獲得した。
室町院領をめぐる大覚寺側の攻撃は、文保の和談をたてに花園天皇を退位させて登場する後醍醐天皇の治世となって以降、再燃する。
両統の争いは持明院側から関東に愁訴された。このとき幕府が正安4年の折半決定を支持したため、天皇自身これ以上の介入を断念せざるを得なかった。

無礼講
正中の謀議は無礼講(あるいは破仏講)と称された乱痴気パーティーのなかで準備された。

およそ近日或る人云く、(日野)資朝、俊基等結衆会合し乱遊す。或いは衣冠を着せず、ほとんど裸形にして、飲茶の会これあり。これ達士の風を学ぶか。(中略)この衆数輩あり。世にこれを無礼講の衆と称すと云々。(花園天皇宸記)

正中の変
元亨4年(正中元)9月23日の北野祭を期したクーデター計画の概要は次のようである。北野祭では例年喧嘩がつきもので、その鎮定には六波羅探題の武士が出動する。このすきをとらえて北方探題 北条範貞を誅殺する。南都の衆徒は交通の要衝、宇治と勢多を固める。これら一連の指揮は資朝・俊基が行い、近国武士を多く味方に引き入れる。
しかし、この企ては一味同心したはずの土岐頼員の密告によって水泡に帰してしまう。頼員は同族の多治見国長を通して、資朝の奉じた後醍醐天皇の綸旨に接したのであったが、ことが成就しそうになく、関東の恩にも背くわけにはいかないので、妻の父である六波羅奉行人斎藤俊行にいっさいをばらしてしまったのである。
後醍醐天皇はこの事件との係累を否定した。事前には「関東執政しかるべからず、また運すでに衰ふるに似たり。朝威はなはだ盛んなり。あに敵すべけんや。よって誅さるべし」と語気強く倒幕意志をあらわにしていた天皇が、一転して「主上すこぶる迷惑し給う」と態度を変えたのである。

洛中の支配
荘園制の体制的発展が「王侯の宿営地」としての古代都市京都を政治・商業の中心都市=中世都市へと転換させたのは平安時代の後期院政期とみなされている。商品流通・貨幣経済の中心的地位を獲得し、公家をはじめ寺社権門を集住させた京都を王土思想をもとに掌握することは、後醍醐親政にとって喫緊の大問題であったと言える。
後醍醐天皇は親政開始と同時に、きわめて厳しい専制的姿勢でこの課題(洛中の土地を人の支配)に着手した。元亨2年(1322)に発せられた神人公事停止令・洛中酒鑪役賦課令は親政全般を貫く基本法令として注目される。
前者は洛中を中心に集住する寺社権門に属して、幅広い商業活動をおこなってきた神人の本所に対する諸公事を免除するというもの、後者はこれまた諸自社の神人として交易にたずさわっていた洛中の酒屋を、内廷経済の基盤として再編しようとしたものである。
この二法令の眼目は洛中神人に対する寺社権門の本所支配権を断ち切り、彼らを天皇の供御人として編成することにあった。
以上の神人に焦点をあてた施策が「人」に対する支配とみれば、いまいっぽうの「土地」に対するそれは地口銭の賦課に求められる。
地口銭とは朝廷・幕府などの公権力が、洛中の商工業者に対し地口、つまり道路に面した部分の長さに準拠して尺別に賦課した臨時課税である。この課税は商業都市としての洛中の特質にもとずくものである。

第三章 建武政権の成立と展開
2 新政の諸相

新政の理念
元弘3年6月5日、二条富小路内裏に還幸した後醍醐天皇は「自立登極」し、重祚の礼におよばなかった。2年前皇居から脱出した天皇にとって以降の幽囚の日々はあくまでも遷幸にすぎなかったのである。偽朝たる光厳朝下の任官・叙位は停廃されねばならず、もとのメンバーが次々と復官した。
帰京後、天皇がみせた政務に対する意欲にはすさまじいものがある。『梅松論』にみえる「古の興廃を改て、今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」という一文は新政の基本理念を端的に表現している。新しい政治が「延喜・天暦のむかしに立帰」ったと描かれるのもいわれなきことではない。後醍醐天皇の新政府の真面目は、徹底的な天皇親政のしくみを採用したことにある。このため院政はしかれず、摂関・太政大臣もおかれなかった。
後醍醐天皇は政務を担当するにあたり、まず記録所、ついで恩賞方・雑訴決断所などの官衙を開設し、親政体制を支える機構をととのえる。
天皇に課された最大の難問は、公武両社会をいかに統一的に支配するかであった。官制の特質も究極的にはここに帰着する。

読書 勝俣 鎮夫 『一揆』 岩波新書

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"一揆”
一揆

一 一揆とはなにか
1 一味同心
多分の儀
中世寺院の集会のありかたは、原始仏教の議決方法「多人語毘尼」に由来する多数決制においてもうかがえる。興福寺、東大寺、金剛峰寺、東寺などの中世を代表する諸寺院はもちろん、金剛寺、西大寺、法隆寺などの多くの寺院において、その集会の議決方法として多数決制がとられている。当時、多数決は「衆議評定の時は、多分に付きてその沙汰あるべし」とか「多分の衆議に随い評定すべし」などとあるように、「多分の儀」といわれた。評定集会のメンバーは各人が公正な意見を主体的にのべつくした後、多数決によって議決したのである。
そして、これらの評定集会の場合、多数決は、当時「合点」といわれた投票による表決方法でおこなわれている。

一味契約状
これらの集会の議決によって決定した事柄は、室町時代になると一揆契約状という表現もあわられるが、多くは一味契約状という起請文形式の文書によって残されている。そしてこの議決の末尾には「一同」「一味同心」「一味」「一揆」の結果として決定したことが明記され、その遵守すべき規範としての効力がうたわれている。
会議のメンバー全員が主体的に公平な意見を述べることを神に誓約して、そこでなされた議決が一味同心の議決であった。
このような性格をもつ一味同心の評議の議決方法は多数決を必然的にとらざるをえない。そして、このような一味同心のもとにおける多数の意見の一致は、道理すなわち正義でありると考えられたために、その決定が一味同心の決定とされたのである。

神慮としての決定
意思決定に際し、なぜ一味同心の決定をつくることを至上目的にしようとしたのであろか。それは、彼らが一味同心、すなわち一揆の裁断は、正義であるとともに、特殊な力をもつと確信していたからにほかならない。また、これをつくる人びとのみならず、当時の人びとが一揆の裁断に、他の決定と異なる独自の効力を認めていたからである。そして、この特殊な「一味同心」「一揆」の決定が特殊な力をもつという意識の背景には、一揆の決定は「神慮」すなわち神の意志にもとづくという観念が大きく作用していたと思われる。

2 一味神水

神水を飲む
「一味」「一味同心」の状態は、どのようにしてつくられたのかというならば、それは「一味神水」という儀式を必要とした。この一味神水という行為は、それに参加する全員が神社の境内に集合し、一味同心すること、その誓約に背いた場合はいかなる神罰や仏罰をこうむってもかまわない旨を書きしるし、全員が署名したのち、その起請文を焼いて神水にまぜ、それを一同がまわし飲みするというものがこの時代のオーソドックスな方法であった。

よるべの水
この神水は、神に供えられた水などをさし、古くは「よるべ(寄辺、寄方)の水」ともいわれた。これは、神前におかれた器に入れた水で、この水には神霊が宿っていると考えられていた。
この神水を多数の人が神前でわかちあって飲むという行為には、そこに神と人、人と人の共食共飲の観念が存在した。わが国では、非常に古くからの祭りの際、直会(なおらい)といって、祭りの奉仕者が、神事終了後、神の供えられた酒や食物をおろしておこなう宴会が祭りの重要な行事の一つとして存在している。

共同飲食
共同飲食の観念を媒介とすれば、神水を飲むという行為は、文字どおり神と人、人と人の間を「一味同心」することであった。
神水を飲むというこの誓約方式は、たんに誓約を破ったものは神罰をこうむるというだけのものではなく、それを遵守して履行する人間は、その限りで神と一体化しているという意識が存在した。それゆえ、「一味神水」は、それぞれの人が、神と一体化したという意識に支えられた集団を作り出したのである。

金打(きんちょう)
誓約のさいにその誓約者が身の回りの金属器具を打ちならし、音声で誓約するもので、武士は刀、僧侶は鉦、女性は鏡を打ちならした。
金属器を打ちならす行為は、本来神を迎える、または呼び出す行為で、誓約をおこなうさい、神をその保証人として立ち会わせるために金属器がうちならされたと思われる。これは、金属器を打つ音によって神が出現するという呪術的信仰に基づいておこなわれた誓約方式であった。

三 変身と変相
1 百姓一揆の出立ち
一揆のユニホーム
百姓一揆のユニホームは、多くの場合蓑笠であった。江戸時代の百姓一揆はその初期には、村役人層を代表とした越訴型が多かったが、やがて広汎な一般農民層が参加する強訴や打ちこわしを主とする型へと展開する。この型は通常、個々の村落をこえた全藩規模の百姓が領民の意識で団結したもので、全藩一揆といわれる。さらに一八世紀後半になると、それぞれの支配領域をこえた広域の一揆もおこり、この時期の一揆は、商品流通の展開によって生み出された貧農および半プロレタリア層が主体となって、世直し的性格をおびるようになる。
このように、百姓一揆の参加者の姿は、蓑笠姿だけででなく、乞食姿や非人姿をとることが知られている。一揆に参加する際にこのような異形姿にその姿を変えて参加するということは、非日常的な「場」、異常な「場」として一揆に参加する人びとの精神のありかた、その集団意識構造と、より強く結びついている。

その人間の姿・形は、その人間の社会的存在としての身分、階層、職能などを表示していたのであり、前近代社会では、とくにこの関係は厳しい社会秩序として存在していた。
中世社会の成人式をすませた男子は、髻をゆい、烏帽子をかぶることによって、成年男子であることを表示した。この髪型がその存在を証明したのであり、髻を切られることは、最大の恥辱であって、髻を切ることが首を切ることと等価値と意識されていた。
女性は長い髪を持つのがその標識で、髪を短く切ることは、女性を女性でなくしてしまうことであった。

四 変革の思想
1 徳政一揆
一揆のスローガン
15世紀、近畿地方を中心に、各地に土一揆が蜂起したが、その一揆が要求したものは、ほとんど「徳政」であった。土一揆は、「徳政と号して」蜂起した。
中世社会の「徳政」の本質は「復活」にある。

借りの姿
わが国の古代社会の土地売買の「売る」の語の検討をされた菊地康明氏にようれば、所有権の完全な移転を意味するものではなく、請戻し・買戻しが、つねに前提とされていた。また、中世社会における土地売買形態は、元金を持参することによって請戻す本銭返し、期限付売却である年期売などにみられるように、土地の有期的、もしくは請戻し留保付売買がむしろ一般的であり、「取戻し不能の売買、確実に保護される債権」はむしろ「不自然な売買、特異な貸借」であったこと、また、没収地になお潜在する、もとの持主(本主)の再給与期待権などの存在により、中止社会の人びとにとって所有の移動は「仮の姿」であると意識されていた。

読書 神谷 和宏 『ウルトラマンは現代日本を救えるか』 朝日新聞出版

ウルトラマン
ウルトラマンは現代日本を救えるか

神谷 和宏 著 『ウルトラマンは現代日本を救えるか』 を読む。

第1章  1960年代 「大きな物語」とウルトラマン

超越者としてのウルトラマン -1960年代「イデオロギーの時代」の中で-
初代ウルトラマンと後のウルトラマンたちとの違いは、超越性にあります。人間としての弱さや未熟さ、さらには苦悩すら、ほぼ露呈することなく、超越的なキャラクターとして描かれたウルトラマン=(人間時の)ハヤタ。
かつて、神の存在が信じられていた時代には、大衆が神という一点へ信仰の気持ちを向けることで(社会のベクトルが一方向に向き)階層や秩序が成り立っていたが、神への信仰が迷信と化した時代においては、イデオロギーが(人々を統括するような)超越性を持つ。

神の不在が暴かれた近代社会では、人間ではなく、何らかのイデオロギーが超越者のごとく大衆の頭上に掲げられ、そのイデオロギーの実現に向けて人々が結集するという構図が見られました。
このように、王権やイデオロギーが健在であった時代、人々は自分たちを統べる超越者の存在を認めます。『ウルトラマン』が登場した1960年代は、「政治の季節」、イデオロギーの時代でした。
大衆からその権威を疑われることのないウルトラマンと科学特捜隊。彼らが超越者として存在できたのは、イデオロギーに満ちた60年代という時代性と無関係ではない。

第2章 1970年代 ポストモダンのウルトラマン

臨界点としての1970 太陽の塔とウルトラマン
「万国博覧会の太陽の塔とウルトラマンが似ている。」という指摘が古くからある。(仏文学者 巌谷国士)1970年に開催された万国博覧会のテーマは「人類の進歩と調和」であり、岡本太郎氏はその表象となるオブジェの制作を求められましたが、彼があえて調和に反発して制作したのが「太陽の塔」である。人類が一定の方向に収斂されるかのように調和するという社会の有り様は、岡本の目指すところとは正反対であり、そこであえてあおの左右非対称、調和というコンセプトとはまるで真逆の顔を持った太陽の塔を作った。(あの顔つきは、べらぼうである。)
ウルトラマンをデザインした彫刻家の成田亨氏はコスモス=秩序の象徴として、ウルトラマンのマスクを設定しましたが、作中のウルトラマンはコスモスであると同時にカオス=混沌をも決して排除せず、むしろ分かちがたいコスモスとカオスの間に立つ存在でした。

この万国博覧会は、戦後日本のシステムが「完成」したことへの国民上げての祝祭であり、「戦後日本社会のある種の飽和点を指し示す事件である。」
その理由として、近代における万国博覧会の役目を、魅力的な商品や、革新的な技術、あるいは珍しい異文化という、「イマ-ココ」の「外部」にあるものを見せて、それらを獲得するためのモチベーションを国民に与えることであるはずなのに、1970年の日本社会ではそれらが既に日常のものとなっており、すなわち「イマ-ココ」の「外部」などもはや存在しないことを万博は示したのだ。万博が「国土システムの飽和点、臨界点-最高潮であると同時に死へと歩み始める瞬間」である。(社会学者 北田暁大)

近代とは、神や王の神性を否定し、その代わりに理想の実現という「大きな物語」を設定することで、ツリー的な秩序を維持する時代でした。
戦後の日本ではアメリカが、豊かな国という、わかりやすい「外部」として存在しました。そして、その豊かさを手に入れようと、国民が意識的、あるいは無意識的に「外部」のモノやテクノロジーを取り入れ、自分たちも豊かになろうという「大きな物語」を生きていきました。しかし、そのような豊かさ、すなわち「外部」はもはや、自分たちの内側にあるとわかったとき、国民が同一の外部に向かうベクトルは消失し、代わりに、個々が経済的豊かさを求めることで、やはり「大きな物語」は解体されていくほかなかったのです。

この「大きな物語」崩壊後の『ウルトラマン』シリーズの世界観は、以前の作品の世界観と大きく異なり、上位者の機能不全を招き、リーダーとフォロワー(権力者と服従者、国家と国民)という従前の秩序は解体していきました。

超越者から、未熟な超人へ
人間の上位に位置する超越者として描かれていたウルトラマン(=ハヤタ)と異なり、『帰ってきたウルトラマン』以降の主人公たちは、成長途上の「未熟な超人」として描かれました。

ウルトラマンや防衛隊の面々は、怪獣と戦う以前に、理解のない上司や、大衆と向き合わなければなりません。かつて超越者として存在したウルトラマンや、何だか大らかでさえあった、科学特捜隊の面影はすっかり失われてしまいました。

「光=正義/経済的繁栄=正義」の崩壊
長らく、光とは正義の象徴でした。ウルトラマンの出身地は「光の国」と謳われています。また、光は物質的繁栄の象徴でもありました。都市はその繁栄に比例して光を増します。光はまたエネルギーの消費の象徴でもあり、輝きが途絶えない=眠らない街の登場は、24時間エネルギーが消費されていることを示します。夜でも光り続ける大都市。しかし、そんな経済的繁栄がずっと右肩上がりでいくのでしょうか。エネルギーは無尽蔵なのでしょうか。そのようなことはなく、日本はオイルショックというエネルギー問題に直面し、経済成長は終焉します。

ポストモダンのウルトラマン
「大きな物語」に向かって国民が収束するのが近代であり、「大きな物語」が崩壊した後の世界が「ポストモダン」である。(哲学者 ジャン・フランソワ・リオタール)70年代の4本のシリーズ『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』は、ポストモダンのウルトラマンであったといえる。「未熟な超人」が「大きな物語」喪失後の日本社会の問題と対峙しながら成長し、超人として人間に何かを伝え、去っていく物語であったと言えます。

オイルショックと大きな物語の終焉
オイルショックは、長期にわたった高度経済成長に終止符を打ちます。オイルショックによる物価高騰は製作費を圧迫しセットを作る費用を抑えざるを得ず、『ウルトラマンレオ』の初期に等身大の宇宙人の描写が増えることになります。
怪獣は巨大なものとして設定されたことで、人々が見上げるべき存在であり、人々に共通して立ちはだかる壁、災厄などの表象として機能しました。
しかし、オイルショックの煽りを受けて、巨大な怪獣の出現シーンが抑えられることで、人々に共通の敵が存在する「大きな物語」の時代が終焉しつつあることを計らずも表象するものになりました。
日本に怪獣が頻出する理由が、「エネルギーに満ちていたから」であり、経済発展していく日本の光と闇を映し出すために怪獣の出てくる物語が構築されてきたのだと考えるのならば、オイルショックというエネルギー危機が、戦後一貫して成長してきた路線に歯止めをかけたとき、そこではもう怪獣が日本に現れる物語は構築される理由を失ったかもしれません。

第3章 1980年代 軽佻浮薄の時代 -ウルトラマンの敗北

ウルトラマン不在の80~90年代 -軽佻浮薄の時代
15年超にも及ぶ「ウルトラマン不在」の期間。最大の理由は制作サイドの問題かもしれませんが、世間が「ウルトラマン的なもの」を欲しなかったからこともあった。
1980年代は、バブル経済への道程でもあり、政治について熱く語るおうな前時代的なスタイルは、「真面目ぶっている」「何だかお堅そう」なイメージとなり、軽佻浮薄を求める世間の風潮とはかけ離れていくようになりました。その時代ごとの政治性が底流する『ウルトラマン』が成立する土壌は失われていまった。

第4章 1990年代 復活するウルトラマンと大いなる闇

環境問題の使者としてのウルトラセブン
単発とはいえ『ウルトラセブン』の続編が作られたことは大きな衝撃でした。
『ウルトラセブン 太陽エネルギー作戦』(1994年)は太陽光発電に代表するクリーンエネルギーの普及を狙う通産省とのタイアップで制作されたものです。ウルトラセブンは太陽をエネルギーとする、太陽の象徴のように描かれます。バブルという酔狂のトンネルを脱し、「80年代的なもの」すなわち「軽佻浮薄」を一掃し、人々が政治性を再び内包するようになった時代だからこそ、『ウルトラ』シリーズは復活しました。

 

 

 

電車の旅(和歌山編)

大阪天満宮からJRの東西線に乗る。
まず、京橋を越えて、放出で下車。ホームの向かい側に停車しているおおさか東線に乗り換えて、久宝寺まで行く。
久宝寺がおおさか東線の終点なので下車。
向かいのホームに、大和路線の快速高田行が到着する。
この列車に乗り換えて、王子駅まで行く。王子駅で下車して、次の大和路快速に乗って、奈良に到着。

"和歌山行の各駅停車”
和歌山行の各駅停車

ホームに降りると、一番端のホームに和歌山行の青い電車が停まっていた。
奈良から桜井線を経由して高田に行き、そこから進行方向を変えて和歌山へ行く、2両編成の各駅停車。運転士だけのワンマン運転なので、途中の無人駅では、先頭車両しか扉が開かない。

和歌山線には、はじめて乗る。
奈良から吉野と高野山をかすめて和歌山まで走る(乗車時間:3時間)
(奈良->天理->桜井->高田->御所->吉野口->五条->橋本->粉河->和歌山)

”バス”
バス

和歌山駅西口からバスに乗って、紀三井寺まで行く。
飛び乗ったため、着いてみたら2駅先のJRの紀三井寺駅だった。(360円)

 

 

 

”紀三井寺駅”
紀三井寺駅

紀三井寺は、線路を越えて反対側の山の上にありました。
徒歩10分くらい。距離は500m。

津波が来た時の避難場所に指定されている。

 

 

紀勢線
紀勢線

帰りは、紀三井寺駅から紀勢線に乗る。
30分に1本のダイヤ。

紀三井寺から和歌山へは、紀勢線の各駅停車で2駅(180円)。
和歌山から大阪まで阪和線の紀州路快速で帰る。(乗車時間:1時間40分)

 

紀三井寺 和歌山

 

”楼門”
”楼門”

正式名「紀三井山金剛宝寺護国院」というが山内から湧き出す3つの泉(清浄水、楊柳水、吉祥水)から「紀三井寺(きみいでら)」と呼ばれる。
西国三十三所観音巡礼第二番札所。

 

 

"長い石段”
”長い石段”

急な石の階段が一直線に伸びている。
みんな手すりにつかまって登ってくる。

気をつけないと膝を痛めそう。

 

 

 

 

”本堂”
本堂

本堂。枝にさえぎられて写らない。
西国三十三所の朱印を集めている人が参詣するところ。

 

 

 

 

”展望台”
展望台

平成20年建立の大観音像(高さ13m)を見にいく。
できたての金色の観音様。

階段で3階へ上がると眺望がいい。

 

 

”景色”
景色

すぐ海が見える。

 

 

 

 

 

アジサイ
アジサイ

アジサイがきれいに咲いていた。

 

 

 

 

”裏門”
裏門

古そうな裏門がある。
この裏から登っていった。

 

 

 

読書 網野 善彦 『中世日本に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』 歴史新書 洋泉社 

網野 善彦 著『中世日本に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』 を読む。

Ⅰ 境界
境界に生きる人びと 聖別から賎視へ

境界的な行為としての交易
物と物の交換、贈与互酬が繰り返されると、通常の状況では人と人との間は緊密に結びついていく。特に古代人にとって自分自身とその持ち物とがきわめて強く結びついている。だから物を交換することによって自分自身の一部を相手に渡し、相手自身の一部を自分にもらうことになるので、むしろ切り離しがたいきずなが、両者の間にできてしまうわけです。それでは交易が成り立ちえないことになります。とすれば、交易という形で、物自体の交換が行われるためには、やはり、ひとつの手続きが必要になる。その手続きが行われる場所が市庭(いちば)です。
市の立つ場所にはさまざまな特徴があります。たとえば大樹が立っている場所に市が立つ。また虹が立つとそこに市をたてなければならないという、日本だけでなく広く他の民族にも見出される習慣があります。そのほか河原、中洲、浜、坂、山の根など、特徴的な場所に市が立ちます。このような市の立つ場所はまさしく自然と人間社会との境界、神仏の世界と俗界の境で、神の支配下にあり、聖なるものに結びついた場であり、そこに入ったものは、人間でも物でも俗界の縁から切れて、聖会に属することになる。いわば一旦は神のものになるという特異な性格を持った場なのだ、勝俣さんは指摘しています。
私流にいえばこれは「無縁の場」ということになりますが、市庭はそういう場だから、はじめてあとぐされなく物を物として相互に交換することができまる。逆に言えば商品の交換は、そういう場所でなければできなかったことになります。いわば物を一旦神のものとして交換するわけですから、これは神を喜ばせる行為であったとも、勝俣さんは指摘をしておられます。
市という空間は、そのように特異な、境界的な空間であり、そこで行われる交易という行為そのものも、境界的な行為ということになります。交易は神仏との関わりにおいてはじめて行い得るわけですから、この交易を業とする人、市や道で活動する商工民、遍歴する商人、職人はやはり境界的な人びととして、神仏に関わりを持たざるをえなくなってくることになります。

「資本主義」の源流
かつて私が、「無縁」と表現したことについて、中沢新一さんが、これは「資本主義」ではないかといったことがありますが、そういわれれば、商業、金融、技術、そして貨幣も「無縁」ということになるので、確かにこれはやがて資本主義として発展していく諸活動、諸要素であります。
商工業者や金融業者は、貨幣流通の発展、活発化に伴って、その活動は著しく発展していきます。おのずと鎌倉後期ごろから新しく神人、供御人になろうとする人びとが急増してくるので、王朝はそれを懸命に統制しようとして、たびたび新制を出すのですが、それだけでなくて、仏教の方でも、禅僧・律僧をはじめ、上人、聖などといわれる人びとの活動も、単に宗教的な活動だけでなく、金融、商業、交通、技術、芸能にまで及ぶ広い範囲に及んで非常に活発になり、これがまた、鎌倉後期の大問題になってくる。いわば、神人、供御人の枠をやぶる動きが鎌倉後期から澎湃とおこってくるのです。非人に関わる「悪党」の動きもその一つにほかなりません。
その中で王朝側も、鎌倉幕府も、これを禁圧するだけでなく、新しい方式で統御しようと試みはじめます。
王朝側では、亀山、伏見、後宇多など、それぞれに努力していますが、最も積極的かつ大胆にこの動きを組織しようとしたのは後醍醐天皇であったと私は思います。後醍醐はすべての神人、つまり商工業者や金融業者などの職能民を天皇の直轄下に置こうとしました。全神人の供御人化を意図していたと思われます。これに対抗して鎌倉幕府も西国の神人交名を、きちんと注進させ、自らそれを掌握しようとしはじめているのです。
ところが、その方式がなかなか成功しないうちに、まさしく境界的な人びとである悪党・海賊・職能民や非人をふくむこれらの人びとの爆発的な動きの中で、まず鎌倉幕府が後醍醐によって倒され、その後醍醐も建武新政府も2、3年後に崩壊し、南北朝の動乱が60年にわたって続くということになっておくわけです。

神仏の権威の低落
この動乱は、やはり社会に決定的な転換をもたらしたと考えております。この動乱を境にして、天皇は権力をほとんど失い、その権威も大きく低落することは間違いありません。それとともに中世前期までの神仏の権威、南都北嶺や大きな神社の権威も、この動乱を境にその低落は著しいものになってくる。その実力の低下はおおい難いものがあるといってよいと思います。後醍醐天皇が実行しようとして延暦寺、興福寺等の抵抗で実施できなかった京都の酒屋に対する全面的課税を、南北朝の動乱後、足利義満は断行してこれを貫徹し得ています。

芸能民の中でも、一部は世阿弥のように寺社や幕府と関係を保ちながら、広く公衆を対象とした芸を磨き、社会的な地位を保った能役者のような場合もありましたが、なんといっても商工業者・金融業者のように富の力によって社会的地位を確保できた人びとと違って、呪術的な宗教民、芸能民、とくに遊女・傀儡(くぐつ)さらに非人のように、聖俗の境にいるとみられていた人びとの場合、この転換が賎視の方向に向かって大きな転換になっていったことも事実といわざるを得ません。かつての「聖別」がここで賎視の方向に向かっての差別になっていったことは間違いない。

 

 

読書 立花 隆 『宇宙からの帰還』 中公文庫

立花 隆 『宇宙からの帰還』 を読む。

”宇宙からの帰還”
宇宙からの帰還

神との邂逅
第一章 伝道者になったアーウィン

ダンテの時代には、生ある人間には想像力に中でしかできなかった天への物理的上昇を、宇宙飛行士たちは現代において可能にした。そして最初に天を周回したユーリ・ガガーリンは、こう述べた。
「天には神はいなかった。あたりを一所懸命ぐるぐる見まわしてみたがやはり神は見当たらなかった」ガガーリンのこのセリフはアメリカ人大衆に大変なショックを与えた。アメリカでは、ガガーリンのセリフとして、「地球は青かった」より、このセリフを記憶している人のほうが多いくらいだ。アメリカはキリスト教国であり、大半はクリスチャンである。だから、アメリカ人同士が「お前の宗教は何だ」と聞くとき、それは仏教かキリスト教かイスラム教かを聞いているのではなく、キリスト教の教派を聞いているのである。書類に「宗教」を書き込ませる欄があったら、そこに「キリスト教」などと書き込むバカはいない。教派を書くのだ。それもキリスト教何々派などとは書かない。キリスト教であることは前提とされているのだ。
そういうアメリカ人にとって、ガガーリンのセリフは、第一に神への冒涜であった。第二に、無神論コミュニズムのアメリカ・キリスト教文化に対する優越性を誇る挑発的言辞であった。アメリカはこの挑発にカッとなったのである。アメリカがソ連との宇宙飛行競争に熱をあげた背景には、大国同士の国威発揚競争もさることながら、こういう一面もあったのである。アメリカは、ソ連との競争に勝つことで、キリスト教文化の無神論文化に対する優越性を示さねばならなかった。
その競争の代表選手である宇宙飛行士たちは、典型的なアメリカ人でなければならなかった。正に、オール・アメリカン・ボーイズというのにふさわしい連中が宇宙飛行士に選ばれたのである。
だから、黒人も、女性も、少数民族も、一人もはいっていない。
国民的英雄として脚光を浴びるのは宇宙飛行士たちだ。
彼らはもちろん、教派はとりどりだとしても、全員当然クリスチャンのはずだった。
「アメリカの大衆は(そしてNASAも)、キリスト教の堅固な信仰を持っていない宇宙飛行士を空に打ち上げることにいい顔をしないだろう。何しろ、宇宙飛行士たちは天高く、いわば、神さまのオフィスの近くにいくわけだから」とウォルター・カニンガム(アポロ7号)はいう。ところが、実はかくいうカニンガム自身は、信仰を持っていなかった。ハイスクール時代に信仰を捨て、不可知論者になったという。カニンガムは1963年に選抜された第3期生である。第3期生の中にもう一人、信仰を持たない男がいた。シュワイカートは、大学に入るときには、牧師になるつもりでいたのに、大学で勉強するうちに信仰を捨てたという。第1期生の7人、第2期生の9人は全員よきクリスチャンだったが、第3期生14人の中に2人の異端が混じっていたわけである。
記者会見の前に、NASAの広報係から事前のレクチャーがあった。だいたいこんな質問があると予想されるが、そのうち、こういう質問には、この点に気を付けて答えてくれ、といったことを注意されるのだ。彼があげた予想される質問項目に、「宗教」があった。一人一人聞かれるだろうというのだ。あわてたのはカニンガムとシュワイカートである。レクチャーが終わったところで、広報係のところにそっと行って、実は自分は、信仰心を持っていないのだが、どうしたらいいだとうと相談した。二人とも、アメリカ人の大衆感情を知っていたからである。すると広報係は、「それじゃ、”うちの家族の宗教は”とか言ってごまかしたらどうかね」と示唆した。本人はともかく、家族まで無宗教ということはないに決まっているという前提である。
で、記者会見になり、シュワイカートは宗教を問われると、
“I have no preference.”(特にこれという好みはありません)と答えた。これは実に巧みな答えである。シュワイカートは、「宗教に対する好み」という意味でこういったのだが、聞くほうは「教派に対する好み」という意味に解釈する(いろんな教派を転々とする人は結構いる)からである。もちろんシュワイカートはそう解釈されることを狙って、自分の良心と大衆の期待の双方を裏切らぬように、ことばを選んだわけである。
カニンガムも巧みにごまかした。
「母と妹はルーテル派ですが、ぼくはいろんな教派の教会にいきました」
これもそのこと自体はウソではなかった。結局、二人とも無宗教で開き直るということはしなかったわけだ。せっかく、あこがれの宇宙飛行士になったところで、大衆の反感をかって将来を台無しにしたくはなかったからである。

第二章 宇宙飛行士の家庭生活

アメリカには、あらゆる国から移民が流れ込んできたため、キリスト教のあらゆる教派がある。それだけでなく、アメリカで生まれた教派が沢山あるため、世界一教派が入り組んでいる。政府統計で信者5万人以上の教派教団だけで83ある。
キリスト教の歴史が長いヨーロッパでは、どこの国でも、その国の国教的立場の教派があり(たとえば、南欧とフランスはカトリック、ドイツと北欧はルーテル派、イギリスは聖公会など)、それ以外の教派の信者はごく少数である。そうした国では、国のすみずみまで、その国教的教派の教会があり、それぞれの教会が教区を持って、いわば地域別の管理がなされているから、一般に住む場所が決まれば、所属する教会が決まる。しかし、アメリカではあらゆる教派が入り乱れて伝道活動をしているし、また、どの教派も国のすみずみまで教会を置けるほどに大きくないから、特に新しい土地に引っ越した場合など、教派を変えることは珍しくない。

一般には、大ざっぱな表現だが、アメリカ人の6割がクリスチャンで、その6割がプロテスタント、そして、プロテスタントの6割は、”メインライン”と呼ばれる主流派の教派に属しているといわれる。メインラインに属するのは、メソディストバプティストプレスビテリアン(長老派)、コングリゲーショナル(会衆派、組合教会)、それにエピスコパリアン(聖公会)、ルーテル派などである。
よく、アメリカのエリートの条件として、WASPでなければならないことがあげられ、WASPのPはプロテスタントのPであると説明される。しかし、WASPのPはプロテスタントであれば何でもよいのかというと、そうではなく、メインラインのプロテスタントであることが必要なのである。
カトリックのケネディが大統領になったとき、WASP以外の大統領が生まれたと驚きの声があがったが、カーターが大統領になったときも、同様に驚かれた。カーターはプロテスタントだったが、メインラインにはかぞえられない南部バプティストだったからである。アメリカのバプティストは、南北戦争のときに、奴隷解放に対する対応などをめぐって、南北に分裂し、それ以来、南部バプティストとバプティスト(はじめは北部バプティストを名乗っていた)は、全く別の教派として発展をとげている。
南部バプティストは、現在アメリカのプロテスタント教派の中で、最も多くの信者を持ち、最も活動的で、最も豊富な資金力を持つ。もはや布教地域は南部に限定されてはいないが、南部から南西部にかけては、圧倒的な強さを誇っている。
南部バプティストの教義はきわめて保守的で、聖書に書いてあることはすべて字義通り真実であるとするファンダメンタリストである。他の教派が、現代の科学的知識うぃ矛盾しないように、聖書のある部分(たとえば天地創造を伝える創世記など)は神話や、たとえ話であるとして合理化をはかろうとするのに対して、頑固に反対している。従って、もちろん進化論などは信じないから、(人間はアダムとイブの後裔であって、猿の後裔ではないと信じてる)南部バプティストが強い地域の学校では進化論は教えない。マリアの処女懐妊、キリストの復活、再臨などの教義も、多くの教派が捨てているが、南部バプティストは文字通り信じている。道徳律もすべて聖書から引き出してくるから、これまた保守的で、あらゆる意味での性解放に反対だし、目下問題の男女同権憲法修正案(ERA)にも頑固として反対している。
この南部バプティストは、もともと南部のプア・ホワイトを基盤にして発展した教派であって、その後の発展も、社会的には下層の都市住民が中心であるから、決してエリートの宗教でなない。アメリカでは教派と社会的階層がわかちがたく結びついている。だから、南部バプティストから大統領が生まれたことがアメリカ人には驚きだったのである。
これに対して、メインラインがなぜメインラインたりえたかというと、移民の国アメリカでは、早くに移民した者ほど早く成功し、社会の上層部を占めていったからである。イギリスの植民地であった時代、植民地を支配する側としてやってきたのはイギリス国教徒(エピスコパリアン)だった。同じイギリスでも、初期移民となったのは、母国のイギリスで国教会に反対して迫害されたピューリタンだちで、彼らの教派はコングリゲーショナルだった。同じイギリスで、やはり国教会反対派だった、プレスビテリアンもほとんど時をおかずにやってきた。バプティストはヨーロッパ各地に起源があるが、やはり新天地における宗教の自由を求めてやってくるということで、独立戦争当時、コングリゲーショナル、エピスコパリアン、バプティスト、プレスビデリアンが、この順に勢力の強い四大教派として成立した。
メソディストは19世紀に入って急激に発展する。この教派は、イギリスのジョン・ウェスレーが18世紀半ばにおこしたものである。ウェスレーはもともと、国教会の牧師だったが、35歳のとき突然霊感を受けて、大衆伝道の旅に出る。そして、屋内であろうと屋外であろうと、いたるところで人を集めては説教をし、悔い改めよ、イエス・キリストを受け入れよ、ほんとうの信仰を持てと説いてまわる。
宗教はキリスト教に限らず、その創立期には熱の入った信仰を獲得するが、やがて教派が大きくなり教団の官僚的組織ができたりすると、日常的ないいかげんな信仰の上に教団も安住することになる。そこにやがて、ほんとうの信仰はこんないいかげんなものではないと説く人があらわれて、信仰復興運動を興す。これがリバイバル運動である。強烈なリバイバル運動は、その結果として新しい教派を生む。ウェスレーの場合もそうで、それがメソディストになった。これがアメリカに渡り、その熱心な信奉者がアメリカ各地で伝道集会を開きリバイバル運動を展開したので、19世紀中頃までには、プロテスタント最大の教派となった。

メソディストがアメリカで発展した19世紀中頃、ドイツ、北欧から大量の移民がやってきて、中西部を中心にルーテル派が強固な勢力をきずいた。こうして、19世紀中にメインラインは確立したのである。
プロテスタント諸派は、これが同じキリスト教かと思われるほど、それぞれの教義が対立しあっている。しかし、アンチ・カトリックという点においては、全プロテスタントは一致している。

メインラインの教派では、理神論的傾向が強く、聖書に書かれていることを何から何まで信じているわけではない。いや、それどころではなく、実をいうと、神の存在すら信じていない信徒が沢山いるのだ。アメリカ人のキリスト教信仰は、日本人が一般にこれがキリスト教と想像しているような信仰とはかなりかけ離れているのである。
こんな調査がある。
「あなたは神の存在を信じますか」
「あなたはイエスを神の子であると信じますか」
という、いわばキリスト教の根本教義中の根本教義を各教派の信徒に質問して統計を取ったところ、メインラインでは最大の教派であるメソディストの場合、神の存在を信じる者60%、イエスを神の子と信じる者54%しかなかったのである。信徒といっても、いいかげんな信仰しかもたないチャーチ・ゴーアー(教会に行くだけの人)を含んだ調査だからだろうと思われるかもしれない。しかし、そうではない。実は同じ質問を、牧師、教会教職者だちにぶつけた調査がある。こちらは教派別の調査ではなく、神学的立場から、ファンダメンタリストコンサーバティブネオ・オーソドックスリベラルの四つに分類して統計がとられているが、メソディストはほとんどがリベラルであるから、その数字をみると、神の存在を信じる者46%、イエスを神の子と信じる者31%という驚くべき結果が出ている。信徒より、牧師、教会教職者たちのほうが、より神の存在を信じていないのである。それに対して、南部バプティストはどうか。これな実に見事に、99%の人が神の存在も、イエスの神性も信じている。牧師をとっても同じである。ファンダメンタリストの99%がやはりその両方を信じている。

第三章 神秘体験と切手事件

ここでいう切手事件とは、スコットとアーウィンが宇宙飛行記念切手を貼った封筒を650枚を月にまで持参し、月の上でそれに消印を押して(スタンプを持参した)帰ってきたという事件である。消印だけでなく、これらの封筒には、スコット、アーウィン、ウォーデンのサインも入っていた。切手収集家の間で、引っ張りだこになることは間違いなかった。
アーウィンたちが持参した650通のうち大半は知人から義理で頼まれたものや、自分たちが記念ないし、将来の値上がりを見越して保存しておくものだったが、うち100通は西ドイツの切手業者から1人8000ドルの謝礼で依頼されたものだった。
これがマスコミの報道され、ことの全貌が明るみに出て、一大スキャンダルになった。

四天王寺 

 

和宗総本山 四天王寺に行ってみた。

”四天王寺”
四天王寺

地下鉄 谷町線の四天王寺夕陽ヶ丘前 下車 徒歩5分。

四天王寺は、聖徳太子が建てた日本最古の官寺と言われている。
薬師如来、弘法大師(空海)、布袋、大黒堂、弁財天、法然上人(浄土宗)、親鸞上人(浄土真宗)、阿弥陀堂など、何宗なのかわかりにくいが、仏教最古の寺なので宗派は、この寺の後からできた。戦前は、天台宗のお寺だったが独立して和宗になった。

 

”亀の池”
亀の池

亀がたくさんいる池がある。

 

 

 

 

"鳥居"
鳥居

石の鳥居。西大門から見ると、春分、秋分には、夕陽がこの門の間に沈んでいくのが拝めることで有名。

 

 

 

”釣鐘屋”
釣鐘屋

鳥居を出て、南に四天王寺参道が天王寺まで続く。
途中に、釣鐘屋という饅頭屋があった。

 

 

 

”釣鐘饅頭”
釣鐘饅頭

釣鐘饅頭(110円)を1つ買う。
あんこ入りのお饅頭。あっさり味でおいしい。

 

読書 マルセル・モース 『贈与論』 ちくま学芸文庫

マルセル・モース 著 『贈与論』 を読む。

”贈与論”
贈与論

第4章 結論
1 道徳的な結論
われわれの道徳や生活の大部分は、いつでも義務と自由とが入り混じった贈与の雰囲気そのものの中に留まっている。幸運にも今はまだ、すべてが売買という観点から評価されるわけではない。金銭面での価値しか持たない物も存在するが、物には金銭的価値に加えて感情的価値がある。われわれは商業上の道徳だけをもっているわけではないのである。いまだ過去の風俗を持ち続けている人々や階級が残っているし、われわれの殆どは一年のある時期もしくはある機会に過去の慣習に従う。
返礼なき贈与はそれを受け取った者を貶める。お返しするつもりのないのに受け取った場合はなおのことである。

喜捨はそれを受ける者の感情をいっそう害する。したがって、われわれの道徳は、裕福な「施し好き」による無自覚で無礼な慈善を無くそうと最大限の努力を払うのである。
「礼儀」として、招待にはお返しをしなければならない。ここに古い伝統的基盤の痕跡と古い貴族的なポトラッチの痕跡がみられる。また、人間の活動の根源的な契機、すなわち同性間の競争心、男性の持つ「生来の支配的傾向」が浮かび上がっているのがみてとれる。そこの表れているのは、一方では社会的基盤、他方では本能的基盤、そして心理的基盤である。われわれの社会生活のような特殊な生活においては、われわれのあいだで今も言われているように「借りをそのままにしておくことができない」。われわれは貰ったより多くを返さなければならないのである。「人におごること」は常に、より豪勢に、よりたくさん行われる。そうゆうわけで、われわれが幼い頃のロレーヌ地方では、普段は慎ましく切り詰めた生活を生活を送っている村の家族が、守護聖人の祝日、婚礼、聖餐式もしくは葬儀などに際し、接待のために破産することまであった。このようなときには「大富豪」ぶらなければならない。われわれの国民の一部はいつもこのように行動し、来客、祝祭、「心付け」に関しては、むやみに金を使うとさえ言えるかもしれない。
招待は行われなければならないし、招待には応じなければならない。このような慣習をわれわれは自由主義的な組合の中でさえも保持している。

誰かが欠席することはまさに凶兆で、妬みや「呪い」の前ぶれ、証であるとされたのである。村人すべてが儀式に参加するというような地方が、フランスにはまだ多く存在する。プロヴァンス地方では子供が生まれると、人々は卵その他の象徴的な贈り物を持参する。
売却された物は依然として霊魂を持っている。かつての所有者は売却した物の後を追い、物の方もかつての所有者のもとに戻ろうとする。

クランからクランへ全体的給付体系とわれわれが呼ぼうとするもの-つまり個人と集団が互いにすべてのものを交換する体系-は、われわれが確認し理解しうる限りにおいて、経済と法の最も古い体系を作っている。それは贈与=交換の道徳が浮かび上がったその背景を形作っているものである。さて、このような体系は、大小の差はあれ、われわれが望む社会のあり方とまさに同じタイプのものである。

つまり、利己を脱却し、自発的にそして義務的に贈り物をすること。これに間違いない。マオリ族の優れた格言もそれを述べている。
「貰ったのと同じだけ施しなさい。そうすれば万事うまくいく」。

2 経済社会学上および政治経済学上の結論
贈与=交換の経済全体は、いわゆる自然経済や功利主義的経済の枠組みからほど遠いことを、われわれな何度も繰り返してきた。

「未開」社会においても価値概念は機能している。このことについて述べるなら、そこでは膨大な剰余が蓄積されるのである。それらは大抵、相対的に巨額な奢侈を伴う全くの浪費に充てられるが、金儲け主義な面はみられない。富のしるしや一種の貨幣も存在し、これらも交換される。しかしこの豊かな経済全体はなおも宗教的要素に満ちている。すなわち、貨幣はまだ呪術的力を持ち、クランや個人と結びついている。各種の経済的活動、例えば市のようなものには儀礼と神話が浸透している。各種の活動は儀式的、義務的そして実効的性格を持ち続けている。つまり儀礼と法で満たされている。

貨幣の使用はその他の省察のヒントとなるだろう。
トロブリアンドのヴァイグアすなわち腕輪と首飾りは、アメリカ北西部の銅製品やイロコイ族のワムパンとまったく同じように、富そのものであると同時に富のしるしであり、交換や支払いの手段であり、人に与えるか、さもなくば破壊しなければならない物である。ただし、ヴァイグアはそれを用いる者に結びついた担保であり、この担保はその者を拘束する。しかし他方では、ヴァイグアは貨幣のしるしでもあるのだから、さらなるヴァイグアを所有するために他に与えてしまった方が得である。それらは商品やサービスになり、再び貨幣へと形を変えるからである。全く、トリブリアンドやチムシアンの首長は、流動資本を立て直すのに適切な時に貨幣を手放す資本家のやり方を実施していると言えるだろう。利益追求と無私無欲は、こうした富の循環形態と、その後に続く富のしるしのアルカイックな循環形態を等しく説明している。
富すべての破壊でさえ、そこに見出されると思われるような、利益への完全な無関心に応じて行われるものではない。こうした度量の大きな行為ですらも利己主義を免れていないのである。単に贅沢で、殆どいつも誇張されており、大抵な場合に全くの破壊が行われるような消費の形態は、これらの制度に不経済極まりない出費ち稚拙な浪費をいう表情を与えている。

しかしこのような贈与や凄まじい消費、さらに度を外れた富の浪費や破壊は、特にポトラッチの諸社会において、利益追求と全く無関係な契機によって行われるのではない。首長とその部下のあいだ、部下とさらにその追従者のあいだで、こうした贈与によって階層性が作られるのである。与えることが示すのは、それを行う者が優越しており、より上位でより高い権威者であるとことである。つまり、受け取って何のお返しもしないこと、もしくは受け取ったよりも多くのお返しをしないことが示すのは、従属することであり、被保護者や召使いになることであり、地位が低くなること、より下の方に落ちることなのである。

最高位になること、最も立派になること、一番幸運に恵まれること、誰よりも強くなること、最も豊かになること。問われているのはそうなるための方法である。貰ってきたものを後に部下や親族に再分配することで、首長は彼のマナを堅固なものにする。首飾りには腕輪を、訪問には歓待を返すなどして、彼は首長間での地位を保つ。このような場合、富はあらゆる観点からみて有用物であり、それと同時に権威の手段である。果たしてわれわれの場合、これと異なっているだろうか。われわれにおいても、富とは何よりもまず他者を支配する手段なのではないだろうか。

贈与や無私無欲の観念と対置してきたその他の観念、そなわち、利益の観念、有用の個人的追求の観念である。

蓄財が行われるのは、消費するため、「親切を施す」ため、もしくは「隷属者」を獲得するためである。他方、交換の対象は特に贅沢品、装飾品、衣服、あるいは直ちに消費されるもの、饗宴に限られる。貰った以上のものが返されるが、それは最初の贈与者もしくは交換者を屈服させるためであり、単に「引き伸ばされた遂行」による損失を埋め合わせるためではない。利益もあるが、それはわれわれを動かすものと利益と似ているが同じではない。

人を労働に向かわせる一番の方法は、自分たちのためと同時に他人のために誠実に果たした労働によって生涯、公正に賃金が支払われると確信させることだと人々は気づいている。自分たちは生産した以上のもの、もしくは労働時間以上のものを交換している。そして、時間であったり命であったり自分自身の何らかを与えていると生産者=交換者は改めて感じている。常に意識していたのであるが、今度は明確に意識しているのである。したがって、生産者=交換者はこの贈与が適度に報われることを望むのである。この報いを行わない場合、怠惰と生産性の低下を招くことになる。

3 一般社会学上および道徳社会学上の結論
諸社会は、社会やその従属集団や成員が、それだけ互いに関係を安定させ、与え、受け取り、お返しすることができたかに応じて発展した。交換するためには、まず槍から手を離さなければならない。そうして初めて、クランとクランのあいだだけでなく、部族と部族、民族と民族、そしてとりわけ個人と個人のあいだにおいてでも、財と人の交換に成功したのである。その後になってようやく、人々は互いに利益を生み出し、共に満足し、武器に頼らなくてもそれらを守ることができるようになった。こうして、クランや部族や民族は虐殺し合うことなく対抗し、互いに犠牲になることなく与え合うことができたのである。これこそが彼らの知恵と連帯の永遠の秘密の一つである。
これの他に別の道徳、経済、社会的実践は存在しない。

諸民族、諸階級、諸家族、諸個人は豊かになることはできるだろう。しかし幸福になれるのは、円卓の騎士団のように共通の富の周りに座ることができた場合のみに可能である。善や幸福を遠くまで探しに行っても無駄である。それが存在するのは、平和状態、公共のためと個人のためとに交互にリズムよく行われる労働、蓄積され再分配される富、教育によって身につく互いの尊敬と寛大さの中なのである。

道徳的な結論、より正確に言えば、-古い用語を再び用いるなら-「礼儀正しさ」、また今言われているような「公民精神」という結論をいかにして導きうるのかさえも明らかになる。
これらの意識的な舵取りは最高度の技法、つまり、ソクラテス的な意味での「政治」なのである。

 

読書 原 武史 『滝山コミューン一九七四』 講談社文庫

原 武史著 『滝山コミューン一九七四』 を読む。

"滝山コミューン1974"
滝山コミューン1974

1 序
私が小学6年生になった1974年、七小を舞台に、全共闘世代の教員と滝山団地に住む児童、そして七小の改革に立ち上がったその母親たちを主な主人公とする、一つの地域共同体が形成された。たしかにごく一時的な現象ではあったけれども、「政治の季節」は、舞台を都心や周辺部の山荘から郊外の団地への移しながら、72年以降もなお続いていたと見ることもできるのである。
私はここで、国家権力からの自立と、児童を主権者とする民主的な学園の確率を目指した地域共同体を、いささかの思い入れを込めて「滝山コミューン」と呼ぶことにする。
倫理学者の古茂田 宏は、戦後教育の三つの潮流について触れた「文化と文化の衝突」(『講座学校第3巻 変容する社会と学校』、柏書房、1996年所収)と題する論文で、戦後第一段階に当たる1970年頃までの学校教育に対するまなざしに見られた「美しい物語」につき、次のように述べている。
国家主義的な滅私奉公を要求する非合理な道徳教育の押し付けではなく、一人一人の子供たちを賢く幸せにするための科学教育を・・・・といったスローガンの中には、子供の自然な発達段階に応じた(押しつけでない)真理の教授と民主的社会の形成とが予定調和するという美しい夢が託されていた。
「日の丸・君が代・特設道徳」といった上からの押し付けに対して子供を守るスタンスから抵抗した民主教師たちの中には、自ら教育行為そのものが別な形での権威主義-客観的知の権威主義(中西新太郎)-をはらむことになるなどという自覚はなかったし、またそういう自覚が促される歴史段階でもなかった。
教育とは人類の自己形成の営みであり、学校はこれを共同的に具現する場所などだという美しい物語が一定のリアリティをもって維持されたのである。

古茂田によれば、1970年頃を境に見られる第二段階になると、戦後民主主義教育のオプティミズムが維持できなくなり、校内暴力、イジメ、登校拒否などの事態が次々に起こって学校的秩序が解体していく。
「滝山コミューン」とは、「美しい物語」がまだリアリティをもっていた時代の最後に現れたものちいってよかった。実際に当時、文部省大臣官房統計課が毎年発表していた『学校基本調査報告書』によれば、「学校ぎらい」を理由とする全国の小学生の長期欠席者数(50日以上の欠席者数)、つまり登校拒否児童の数は、奇しくも「滝山コミューン」が確立された74年に最も少なくなっている。
いまでこそ、学校が本質的に権力性をもつというのは教育学で自明の前提となっているが、当時はそうではなかった。七小の教師たちは、「自らの教育行為そのものが別な形での権威主義をはらむことになるなどという自覚」はつゆほどもなく、コミューンの理想を信じ、その建設に向かっていったのである。

3 「水道方式」 と 「学級集団づくり」

全国生活指導研究協議会、略して全生研は59年、日教組教研第八次大阪集会で生まれた民間教育研究団体である。「日教組の自主教研の中から誕生した民間教育研究団体であるという点に、他の民間教育研究団体と異なる特色をもつ」という。

そこには一見、憲法や教育基本法に保障された「個性の尊重」が「内外の反動的諸勢力」によって脅かされているという、典型的な護憲派リベラルの主張が読み取れる。
だが、全生研で強調されたのは、集団主義教育であった。「大衆社会状況の中で子どもたちの中で生まれている個人主義、自由主義意識を集団主義的なものへ変革する」という文面からは、世界が東西の二大陣営に対立していた時代にあって、まだ理想の輝きを失っていなかった社会主義からの影響が濃厚にうかがえる。「個人」や「自由」は、「集団」の前に否定されるのである。

このような集団主義教育は、旧ソ連の教育学者、A・S・マカレンコ(1888~1939)の著作によるところが大きかった。
全国組織に並行して、地方の支部もつくられていった。63年には、全生研の教育包方針をまとめた『学級集団づくり入門』が明治図書出版から刊行され、71年には第2版が刊行された。

全生研によれば、集団とは「物理的な ちから としての存在」である。「集団はひとつのちからになりきらなければ、社会的諸関係をきりひいていき、変更していくことは不可能である。
まして、非民主的な力に対抗していくためには、集団はみずからを民主的なちからに高めるほかはないのである。」集団は、「民主的集団」、つまり「民主集中制を組織原則とし、単一の目的に向かって統一的に行動する自治的集団」にならなければならない。そのためには、目的自覚的な教師の指導が不可欠であるが、「集団を民主的なものにするのはあくまでも集団自身であり、子どもたちである」。児童は教師から「正しい指導」を受ければ、必ず集団の担い手としての自覚をもち、自ら集団を変えていくとされるのである。
「学級集団づくり」には、「よりあい的段階」「前期的段階」「後期的段階」という三つの発展段階がある。「学級集団はこのような三つの発展段階をたどりながら、その合目的的な発展の法則性を展開していくのである」。ただし実際には、「後期的段階」の実現は「まだかなりむずかしい」とされる。

全生研の唱える「学校集団づくり」は、最終的にその学級が所属する小学校の児童全体を、ひいてはその小学校が位置する地域住民全体を「民主的集団」に変革するところまで射程に入っていたのである。
「滝山コミューン」の思想的母胎がここにあった。
しかも滝山団地にはコミュニティセンターがなく、自治会も割れたいたのに対して、七小は1街区から3街区まですべての児童が通学していたから、小学校こそコミュニティの中核としての役割を果たしていた。七小が「滝山コミューン」の舞台となる条件はそろっていたのである。
さらに目を外に転じれば、全生研が影響を受けた旧ソ連の集団主義教育は、団地を中心とするソビエト社会の中で発展したものであった。

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