読書 名取洋之助 『写真の読み方』 岩波新書

名取 洋之助 著 『写真の読み方』を読む。

”写真の読みかた”
写真の読みかた

Ⅰ 写真の読みかた
個人の芸術から集団の芸術へ
写真は何枚かを使うことによって、一枚の写真としての弱点を克服し、物語ることができます。現実の流れから切ってしまうことができます。現実の束縛から逃れることができます。それが、新しく写真が獲得した方法であり、場なのです。小説を読み時に、映画を見る時に、その内容を体験しているように感じるのと同様に、写真でも、現実との縁を切ることが可能なのです。何回も見ることができるもの、時間が経っても、たんなる記録以上の価値を持つものが、こうして、つくれるのです。

誰でも写真は読める
発明されてから120年以上たって、写真を記号として使いこなすことが、やっと始まったばかりです。まだ、小学生の作文ていどの内容しか書くことはできませんし、それも教科書どおりで、春は花が咲いてきれいです、といったものですが、それでも、素材を見せるのでなく、素材の処理の手際を見せることが始まっています。
したがって、私たちが写真を見る場合にも、新しい見方が要求されます。写真はいわば、見るものから、読むものへと変わりつつあります。何枚かの写真が並べられ、それらが語っている物語が問題となりつつある今日、一枚一枚の写真の技を鑑賞することは、能において能面だけを鑑賞するのと同様、まったく別な立場からものを見ることになってしまったのです。美術品としての能面と、演劇の一つである能というものの見かたが、はっきりわかれたのです。この段階になれば、もう写真のよしあしがわからないなどと、心配する必要はありません。誰でもが能面の彫刻としての芸術性を云々する必要はないのです。映画を見に行った時のように、また手紙を読むような気持ちで、写真をみればよいのです。

Ⅲ 二つの実例
1.組写真の基礎的技術
写真は写しただけで完成したものではありません。とくに、コミュニケーションの手段として写真を使う場合、写しただけの写真は、未完成品です。説明のつけかた一つで、写真は逆にも読める。何枚かの写真を組んでレイアウトすれば、強調したり、省略したりできる。いわゆる写真編集の段階で、撮影時の意図とはかかわりなく、話をつくり、印象を変えることができるからです。
その観点から写真を見た時、どんなことが技術的に可能であるか。

キャプションが読みかたをきめる
写真をどう読むか。そのいとぐちをつけるのがキャプション(写真説明)です。したがって、同じ写真も説明のつけかたで、いろいろに読めます。好意的、否定的な立場に立って説明をつけることができ、どちらの立場の説明も嘘ではありません。

並べられる写真で違う意味を生む
2枚並べると、写真は1枚のときと、違う意味をもってきます。共通の要素が強調され、違いは目立たなくなります。したがって、同じ写真でも、となりに並べる写真によって、まったく違った役割を果たします。写真の並べかたで、どんな印象に変わるか。並べる人に意志によって同じ写真がどんなに違う働きをするか。同じ写真のとなりに、一方では好意的な、他は否定的な印象を与える写真を選び、キャプションも、その意図を強調します。

レイアウトが話をつくる
まったく同じ写真を使っても、写真の大小、並べる順序によって、異なった話にすることが可能です。好意的な方は、キャプションは、すべて明るい面を強調し、情緒的なものを大きく扱います。一方、見方によってはプリミティブに見えるものは、なるべく小さくして目立たないようにします。
一方、否定的な方は、情緒的な写真は小さく、ドライな写真を大きくします。写真の切り方にも留意して、強調するよう、余分な空間を小さくします。

 

 

 

読書 中沢 新一 『古代から来た未来人 折口信夫』 ちくまプリマー新書

中沢新一 著 『古代から来た未来人 折口信夫』 を読む

”古代から来た未来人 折口信夫”
古代から来た未来人 折口信夫

第一章 「古代人」の心を知る

姿を変化する「タマ」
折口信夫の考え方では、「神」という考えは、超越的な存在について日本人がつくってきた概念のうちでも比較的新しい層に属する考え方で、もっと古い原初的な表現は「タマ」と呼ばれる霊力にかかわっていた。
「タマ」は「神」とちがって、増えたり減ったりする。「神」のような特定の性格づけも機能も持たない。明確な名前も持たないし、変幻自在でいっときなにかのかたちであらわれたかと思うと、すぐに別のかたちをしたものに変身していってしまう。「神々」はしばしば体系のなかに組織されて、国家のために役立つ存在になる。ところが「タマ」のほうは、なかなか体系につかまってしまうことがない。「タマ」はしばしば威力のある動物と結びつく。しかし「神」はそれよりもずっと人間化の度合いが強い。太陽の霊力をあらわしていた「タマ」的な存在が、アマテラスという女神になっていくと、自然との濃密な結びつきは希薄になって、いつのまにか政治権力と結びついてしまう。ところが、どんどんすがたを変えていったり、一定の居場所を持たなかったり、半分自然のなかに身をひたしている「タマ」は、人間化の度合いがずっと低いのである。
日本人が超越的なものや力について考えてきた歴史を考えてみると、「神」という考えは表面の層に属していて、その層の奥には「タマ」という考えがひそんでいる。漢字を使ってその「タマ」を「霊力」と表すとすれば、「神」よりも原初的な、おおもとの存在として「精霊」が浮かび上がってくる。この「精霊」は、「古代人」の思考法である「類化性能(アナロジー)」との相性がとてもいい。体系のなかでの名前や場所を持っている「神」は、宗教的なものごとに「別化性能」が働くときに生まれてくる考え方である。ところが、流動する液体のような「精霊」には、合理的な思考を生む「別化性能」はうまく働かない。別のものとくっついて新しい存在をつくりだしたり、ものごとの境界に潜り込んでいける「精霊」をとらえるには、芸術をもうみだすことのできた「類化性能」しか、有効には機能しないからである。

精霊ふゆる「ふゆ」
折口信夫は日本列島における「古代人」の、宗教性ゆたかな暮らしを、つぎのようなサイクルとして描き出した。「古代人」は月の満ち欠けと太陽の位置に、とても敏感に反応していた。月の満ち欠けは、一月ごとの周期的変化を作り出す。これにたいして太陽は昼と夜の長さを変化させながら、一年を単位とする大きな周期を描いていく。春分と秋分には昼と夜が同じ長さになる。冬至には昼の長さが一年でもっとも短くなり、夏至にはもっとも長くなる。多くの祭りが、昼と夜の長さがもっともアンバランスになる冬至と夏至に集中しておこなわれる。
この冬至と夏至をはさんで、「古代人」は精霊(スピリット)をこの世にお迎えする祭りをおこなう。夏至をはさんだ夏のお祭り期間には、死霊のかたちをとった精霊の群れが、生きている者たちの世界を訪問してくる。死霊には、まともな死に方をして、しかも子孫たちから敬われつづけている先祖の霊もいれば、横死をとげたり幼い子供のうちに亡くなってしまった者たちの浮かばれない霊もいる。そういう多彩な死霊たちが大挙して戻ってくるのを、「古代人」は心をこめてお迎えしようとしたのである。
その夏の時期の精霊来訪の祭りは、のちのち仏教化されて、お盆の行事となったけれど、そこには「古代人」の思考の原型がはっきり残っている。お盆の行事としておこなわれる「盆踊り」を見てみよう。盆踊りの古いかたちを見てみると、村の人々が村の外からなにか目に見えない霊を迎え入れ、渦を巻きこむようにして踊り始める。生きている者と精霊がいっしょになって、円陣をつくってグルグルと村の広場で夜を徹して踊るのである。精霊とともにすごした幾夜かがすぎると、人々は円を解いて、そのまま村はずれまで列をなして行進していく。そして村はずれの川や埋葬地の近くで、精霊を切り離す儀式をおこなうのである。この期間、立派な祖霊もすこし危険なところのある亡霊も、大切な訪問客として、ていねいにもてなされる。夏の精霊の祭りでは、客人である霊はまったく人間の訪問客のもてなしと同じ考えで、迎え入れられるのだ。

冬至をはさんだ一、二か月は、その昔は霜月と呼ばれて、やはり精霊を迎える祭りがおこなわれた。しかし冬の期間におこなわれるこの祭りでは、夏の精霊迎えの祭りとはちがった考えが支配的だった、というのが折口信夫の考えである。この期間、精霊の増殖と霊力の蓄えがおこなわれるのである。折口信夫の考えでは、「冬(ふゆ)」ということばは、古代の日本語に直接つながっている。「ふゆ」は「ふえる」「ふやす」をあらわす古代語の生き残りなのである。
冬の期間に「古代人」は、狭い室のような場所にお籠りして、霊をふやすための儀礼をおこなっていた、だからその季節の名称は「ふゆ」なのである。人々がお籠りをしている場所に、さまざまなかたちをした精霊がつぎつぎに出現してくる。このとき、精霊は「鬼」のすがたをとることが多かった。

第二章 「まれびと」の発見

「あの世=生命の根源」への憧れ
「まれびと」の二つ目の意味は、「あの世」からの来訪者ということに関わっている。人間の知覚も思想も想像も及ばない、徹底的に異質な領域が「ある」ことを、「古代人」は知っていた。つまり、世界は生きている人間のつくっている「この世」だけでできているのではなく、すでに死者となった者やこれから生まれてくる生命の住処である「あの世」または「他界」もまた、世界を構成する重要な半分であることを、「古代人」たちは信じて疑わなかったのである。
この他界と現実の世界をつなぐ通路が発見されなければならない。目にも見えず、思考がとらえることもできない「あの世」から、なにか不思議な通路を通って「この世」に出現してくるものが、うまく表現されたとき、人は不幸な感覚から解放される。「この世」に生きている時間などはほんのわずかにすぎないけれど、それでも「この世」を包み込んでいる「あの世」があり、あらゆる生命が死ぬとそこに戻っていき、またいつかは新しい生命となって戻ってくることもあると知ることができれば、わたしたちはいつも満ち足りて落ち着いた人生を送ることができる。「あの世」と「この世」をつなぐ通路こそ、折口信夫の発見(再発見)した「まれびと」なのであった。

第三章 芸能史という宝物庫

「翁」という能のもっとも重要な演目は謎に満ちている。「翁」という演目は能がまだ「猿楽」と呼ばれていた頃から、もっとも秘密性の高いものだと考えられてきた。しかしなぜ「翁」のように単純きわまりない構成の芸が、それほどまでに神秘とされていたのか、折口信夫はその芸態が「あの世」からの精霊出現のさまを様式化してしめしたもでのあるからだ、と考えた。
「この世」の現実とはまったく違う構造をした「あの世」の時空との間に、つかの間の通路を開いて、そこからなにものかが出現し、また去っていき、通路は再び閉ざされる。その瞬間の出来事を表現したものが「翁」である。「古代人」は自分たちが健やかに生きていけるためには、ときどきこのような通路が開かれ、そこを伝って霊力が「この世」に流れ込んでこなければならないと、考えていた。「翁」という演目は、そういう古代的な儀礼のかたちをそっくり保存しているのである。
芸人はそのような精霊を演じているわけだから、とうぜん一瞬開かれた通路から流れ込んでくる「あの世」からの息吹に、触れていることになる。「あの世」には恐るべき力がみなぎっている。現実の世界ではかろうじて抑えられていた力が、死によって解放されると、その力は「あの世」に戻っていく。芸能者は、このように死と生命とに直に触れながら、ふたつの領域を行ったり来たりできる存在なのである。
芸能者は死者たちの息吹に直に触れている。それと同時に、芸能者は若々しく荒々しいみなぎりあふれるばかりの生命力にも素手で触れている。彼らの芸は、生と死が一体であることを表現しようとしている。別の言い方をすれば、芸能者自身が死霊であり荒々しい生命でもあるという矛盾をしょいこんでいる。だから、彼らはふつうの人たちとは違う、聖なる徴を負っている人々として、共同体の「外」からやってくる、「まれびと」としての性質を持つことになったのだ。
そのような「芸能者の原像」を「鬼」があざやかに表現している。「鬼」は共同体の「外」からやってきて、死の息吹を生者の世界に吹きかけ、そこに病や不幸をもたらすこともある。しかし、荒々しい霊力を全身から放ちながら出現してくる「鬼」の存在を間近に感じるとき、共同体の「中」で生きている人々は、自分たちの世界に若々しい力が吹き込まれ、病気や消耗から立ち直って、再び健康な霊力にみたされ、生命のよみがえりを得ることができたようにも感ずるのである。ふだんは「鬼」を恐れて近づけないでおこうとしている人々が、お祭りの興奮の中ではむしろ競って「鬼」に近づき、その荒々しい息吹に触れようとしている。このとき折口信夫は「古代人」のおこなった「野生の思考」の末裔である芸能者の運命を思った。

読書 赤坂 真理 『モテたい理由 男の受難・女の業』 講談社現代新書 

赤坂真理 著 『モテたい理由 男の受難・女の業』 を読む

第6章 男たちの受難

”もてたい理由”
もてたい理由

2006年春から秋にかけて「男」をめぐって面白い世論の流れの顛末を私は目にしていた。ワイドショー的な、というのが正しいだろうが、ワイドショーというものは、「世間の目」の表現にほかならない。その表現は脊髄反射的かつ無責任で、だからこそ「世間」を見るにはいいメディアであると私は思う。
そのころまでに、潜在的に日本社会にあったのは、「とても若い男子スターの不在」だった。
男子受難の時代だ。

そんな中で、それなりの人気者になりつつあったのがボクシングの亀田兄弟だった。が、それが亀田長兄当時19歳の判定疑惑を発端として一気に、バッシングの対象となる。
それまで面白がられていたすべてが、非難の対象となったのだった。

一人の少年が、白いシャツをまとい浄化剤として男子を「買い支える」ように現れた。世間は彼一色。甲子園の「ハンカチ王子」こと早稲田実業の斎藤佑樹投手、高校三年生。
斎藤佑樹は、ひとつには亀田一家の口直しであり、もうひとつは飽きられた韓流スター、ヨン様ことペ・ヨンジュンの後釜だった。
とにかく日本人は、久々に、年若い爽やかな男子スターを見てスカッとしたのだ。
そんな熱闘甲子園の感動の余韻さめやらぬ9月、ある朝。
秋篠宮家の第3子の男の子が生まれ、驚いたことに、すべてが丸く収まってしまった。
「女系天皇」ないし「女性女系」天皇の是非の議論も、皇室典範見直しの議論も、すごいことに、こわいことに、すべてに収まってしまった。
男が男であるだけであんなに祝福された瞬間は、近年まれというより、ない。
亀田兄弟のイメージが2006年一時期ダーティーになったあと、浄化剤として「甲子園のハンカチ王子」が男子株を買い支え、そのあと天皇家に男子が誕生して国を挙げての大団円、みたいなことが不思議と一連の流れにされていた。

要約すると ヤンキー -> 王子 -> 親王 となる。

年が若返るのと反比例して、男子の地位、ノーブルさ、無垢さ、そして期待が、上がっていき、ついには、「男子であれば無条件によい!」にまでなるのは面白い。それはそのまま、この国の人間が、どれほどに「男が評価されること」に潜在的に飢えていたかを示すようでもある。

終章 戦争とアメリカと私

敗戦を見ないことにした日本の戦後
戦争を経験した日本人たちが(たぶん沖縄の人は少しちがうだろう)、あんなに憎んでいたアメリカをころっと愛してしまった。
親や年長者たちは、それが説明できなくて、誰にも説明できない感情のくせに誰の中にもあって、そして沈黙したのではないか。すべての人が。いっせいに。どんな近しい人にもそのことだけは話さなかった。私の両親も、戦争中や戦後の話を互いにしたとは思えない。さわらないようにしている部分が心の中にあった。たぶん、恥じるように。
親たちには何か、隠していることがある。何か重いものを背負っている。涙のかたまりみたいなものを呑みこんでいる。
ある傷は「それ自体」の真実に向き合わない限り癒えないということだ。他のことで成功したところでダメなのだ。
これは日本の戦後の「成功」すべてに当てはまる。敗戦を見ないことにしたからこそ復興に驚異的な力を出せた。けれどそれで本当に心が救われたのか、本当に意味で幸せになれたのか。なれたのだったら、どうして今頃、幸せってなんだろうとか、人生の意味は何かとか考えるのか。
それらに答えるものは、何もなかったということではないのか。

私の親や祖父母は、大きな喪失について固く心を閉ざした。それを見えないように、他人や子世代に見せないように、ふるまった。

歴史に語られない部分があるなんてまるで日本史だった。中心に手つかずにおかれる場所があるなんて、私の心はまるで東京だった。
そして、他のことでがんばれば敗戦をなかったことにできるんじゃないかと思って実際にがんばりじっさいに成果をあげたところが、日本の戦後史そのものだった。

私は、戦争を内化して語らない親を見て育った。そして「植民地宗主国」で適応に失敗してしまい、戦争と敗戦を内化してしまった。身体が成長するときに摂ったものが決定的に血肉になてしまい、それを取り除くことができない。
戦争は、日本の中で語られないままあまりに当然の存在になってしまい、透明になった。それゆえに外に出すことができない。他人と考えを共有することもできないし、違いを比べ考察することもできない。私たちにとっての「アメリカ」もまたしかり。
それは日本でごくふつうの状況になってしまっているが、人間にとってかなり異常で苦しいことだ。何百万人もの命が失われその屍の上に繁栄を築き、それが公然の秘密となっていることは。

歴史の思考停止
私は、戦争のことを考えることも禁止という、戦争禁止原理主義のなかで育った。その状況は、今でも変わっていると思えない。

戦争を「絶対ダメ」と封じ手にきめたからこそ、いろいろなところに、ごく普ふつうに戦争が漏れ出しているとしか思えないのだ。学校はいまだに軍隊を模してできている。根強い人気のあるセーラー服はもともと男の水兵の制服だし、「気を付け」「休め」「前へ倣へ」などは、隊をまとめる号令だろう。戦前戦中の教練から「ささげ銃」を抜いただけだ。
戦後、「戦争ダメ、絶対」と言った割には、軍隊を模したいろいろなことはひとつも反省されなかった。

植民地の証
人が耐えうる限度を大きく超えてぎりぎりまで飢えた日本人は、占領軍に意外なほどに「優しくされた」。そうすると、昨日までの敵を、一気に猛烈に愛してしまう。反動なのだ。そのとき、自分たちのしてきたことを否定しなければまだプライドを保てるが、あまりに大きな衝撃は、前の価値観との相殺でしか生き残れない。だから自国のしたことを総否定し、自己を否定した。
母国と私の親や祖父母世代に起きたのはこういうことだったのではないかと私は推察する。
自己の否定。生命にとってこれほどつらいことがあろうか。
語られるべきは、何が起きたかではなく、本質ななんだったかという問題だと思う。でなければ、本質的に同じことは繰り返される。「戦争」をやらないだけで、そのかわり他のすべてに戦争が漏れ出す。軍隊式教育を今でも血肉にしもこませながら、私たちはもうひとつの極にある、アメリカを愛した。いくらアメリカ車よりヨーロッパ車がかっこいいと思っていても、美食やブランドはヨーロッパに限ると思っていても、戦後の日本人が、ヨーロッパに学ぼうとすることはほとんどない。今でも、学ばなければと強迫的に思い詰めているのはアメリカの価値であり、アメリカが広報した「夢の感じ」である。経済の底が上がった分、それは大衆に浸透した。そうでなければ、「早期教育」がその実ただの「英会話」だったり、米国籍は将来有利になるかもしれないから米国で出産しようとしたりそれを援助するビジネスがあったり、両親のどちらも英語を話さないような家の子が「国際人になるために」インターナショナルスクールに入れられたりということがあるわけがない。
自国文化よりあっちの文化のほうがよいと、親が思って子供を入れた時点で、子供はあっちの文化内の「二級市民」確定、なのに。そのうえ英語教育はオーラル(口語)偏重主義を年々強めている。
「外国語教育がオーラル中心なのは植民地の証」と言ったのは、内田 樹だが、賛同する。読み書き中心ならば、すぐにネイティブの教師より立派な作文をしたりする子が現れる。それは宗主国には都合がよくないことだ。しかし、口語至上主義である限り、「それは発音がちがう」とか「そういう言い方はしないんだな」とネイティブスピーカーであるというだけの人間が、優位に立てる。しかし、その植民地主義を、日本人は自ら好んで取り入れている。言語だけ出来たって、単にふつうのこととしてネイティブスピーカー社会の下層に入れるだけだ。
なまじ発音がネイティブ何というのは、何かミスコミュニケーションをしたとき、それが言葉の技術的なことかもしれない、と考えてもらえないということである。
「あなたは日本語のアクセントをなくしてはだめよ。でないと、あなたの特徴がなくなる。アメリカ人はあなたが英語を話すのも当然に思ってしまうからね。」
未だに、これより有効な異文化アドバイスを私は知らない。

極端に物質崇拝の果てに
日本人は極端な精神論から極端な物質崇拝になった。究極の物質は肉体で、ならば、人は死んではいけないということになった。命は可能な限り引き伸ばさなければいけないと決められた。死んだら何もない。
一方、若い世代においては、老いることが死ぬより恐ろしい。
古来、共同体で死を扱ってきたのは信仰や宗教である。が、戦争を経験した後の日本人はそれらにアレルギーになった。宗教は戦争に利用されたから。
戦争について考えることと、死や神を思うこと。
このふたつを封じられると、人間はかなり、苦しくなる。人間を動かす要素の大きなものをふたつ、封じられているからだ。唯一使える大きな要素は、「経済」だった。
「お金に色はない」と言ったのは、最盛期のホリエモンだ。
マネーという、最終的には紙でも金属でもなく数字の羅列にできてしまうもの、それは人間を支え駆動する力としては、最も「色がない」。いやな他人の手垢がついていたら洗えばいいだけの話。「色がついた」ものを忌み嫌った戦後の日本人としては、この上なく便利な崇拝物だった。だからそれに夢中になった。物質以外のものを信じなくなった。
戦後の日本人は「色のついたもの」「戦争に色をつけられたもの」を、ことごとく嫌ったのだから。

お金も本来、手段である、しかし、戦後日本では、目的になった。神ほどの崇拝物になったのだった。

読書 佐藤 優 『神学部とは何か -非キリスト教徒にとっての神学入門-』 新教出版社

佐藤 優 著 『神学部とは何か -非キリスト教徒にとっての神学入門-』 を読む

”神学部とは何か”
神学部とは何か

神学とは何か

神学がいかに「虚学」(見えない事柄を対象とする知的営為について、私が名づけた言葉)であるかよいうことを、次の2点から神学の性質を説明する。

  1. 「神学では論理的整合性が低い側が勝利する」ということ。
  2. 「神学論争は積み重ねられない」

神学の場合、過去の例から見ると、むしろ論理的整合性が高い方が負ける傾向が強い。そして議論に負けた側は異端という烙印を押されて、運が良い場合でも排除され、運が悪ければ皆殺しにされる。
勝った方は、自分たちにやましいところがあるので後ろめたい気持ちになり、「理論的にはこっちの方が弱かったのではないか。あれで勝ってしまってよかったのか」という気持ちになる。負けた方は、「政治的に弱いし人数はすくないけれども、自分たちの方が絶対正しかったという確信を持つ」。
神学論争には無茶苦茶な話がたくさんある。

官僚の世界もまた神学のあり方と似ていて、神学論争は官僚仕事をやる上で非常に役に立つ。官僚はまず最初に結論を決め、そしてあとはそこに向けた議論を組み立てていく。官僚の間で使われている業界用語に省庁間の合議(あいぎ)というものがある。これは役所の中の権限争いである。結局のところこの結論は、お互いの役所で最初から決まっているのだ。そのすでに決定している結論に向けて、どうやって理屈をきちんとつけていくのか、という性質だ。これはまさに神学論争(ディベート)と同じ構造である。ディベートは議論をして結論を出す試みではない。2つの反する結論があり、両者のそれに向けの討論過程が重要なのである。
この論争においては、真理を探究しているわけではない。これがディベートの本質だ。ディベートは決闘でありゲームである。従って、ディベートと、お互いに真摯に議論をしながら真理を求めていく論争は、全然違う。

学問はたいてい議論の積み重ねによって進歩する。しかし、神学論争の場合は積み重ねで議論がなされないことが多い。

キリスト教は、人々を依存させる「民衆のアヘン(カール・マルクス)」ではなく、自立させるための宗教なのだ。その基本的な考えは次の通りである。
人間は本来、神の似姿である。しかしこの世では、さまざまなものに依存し、囚われている。そこで神は、人間が本来の自由をとりもどすために、自らのひとり子を世に送った。しかもそのひとり子は、天上のすばらしい場所から、世の最も低い、悲惨な場所に送られた。その場所で、イエスと人格的なふれあいをもった人たちに何かが起きた。それが奇跡である。
ただ、イエスの教えは元来、譬のような文学的表現で伝えられていたけれども、いつしか教理という理論的な言語によって保存されるようになったので、われわれはイエスの信仰のリアリティを類比で捉えるしかないわけである。
伝統的なプロテスタント教会が、キリスト教系新宗教(原理主義系の教会や、モルモン教、統一教会など)に抱く違和感のの理由は、イエス・キリスト以外の救い主(モルモン教=ジョセフ・スミス、統一教会=文鮮明)が出てくることなのだ。これは、モーセの十戒の第一戒(「わたしのほかに、なにものも神としてはならない」)に反するということである。

カルヴァンと言えば、まずは予定説のことを思い浮かべるだろう。人間が救済されるか否かは、その人間の資質や功績に関係なく、あらかじめ神が予定しており、天上における神のノートに書かれているという思想である。
革命の思想を理解するためにも、カルヴァンは大きな意味を持ってくる。たとえば、ジュネーヴという都市国家には、プロテスタンティズム革命を世界に輸出する機能があった。その意味でレーニンのボルシェビズム(ロシア共産主義)もカルヴァン主義の亜流といっていい。

社会が弱体化し始めると、テロに対する期待感が生じる。そのような状況で、政治が国民の見解をまったく反映しておらず、経済の調子も悪いとなると、どの国でもテロリズムあるいはクーデターという回路によってものごとを解決しようという思想が生まれてくる。暴力によって体制を変えようとするテロリズムの動きが起きると、その次の瞬間、国家が暴力を行使し始める。国家の暴力を放置し続けると、国家は次第に暴走し始め、暴力によって社会全体が覆われるよううな状況がくるわけである。

国家とともに危険なのが貨幣である。貨幣は、商品と交換するための便宜から出てきた特殊な商品である。ところが、商品はつねに貨幣に交換できるというわけではないが、貨幣はつねに商品と交換できる。そうすると、「欲望が何でも実現できる」ということになる。貨幣は、商品交換を行う人間どうしの関係から生まれたにもかかわらず、何にでも交換できるたいへんな力をもった物神性を帯びるわけだ。
国家と貨幣は、われわれが一番きをつけてつきあわないといけないものである。なぜならば、それがあたかも神のように絶大な力があるように見えてしまうからである。われわれキリスト教徒は、神以外を神とすることはできない。それこそが偶像崇拝であり、モーセの第一戒に背くからである。

 

読書 『「知」の十字路』 明治学院大学 国際付属研究所 公開セミナー(3)

”知の十字路”
知の十字路

明治学院大学 国際学部付属研究所 公開セミナー(4)『「知」の十字路』河出書房新社 を読む

「歴史の尻尾を手繰り寄せる」 佐野眞一 x 原武史

近代の皇后の存在感
明治、大正、昭和、平成と四代の皇后を通してみると、非常に目を引くのは、貞明皇后(大正天皇の奥さん、昭和天皇の母親)、それから今の美智子皇后です。このふたりの存在感はやはり際立っている。

近代天皇制における天皇、皇后のあり方を平べったい言葉で言いますと、「夫婦共働き」ですよね。それが連綿と続いてきて、そのピークが現在だと思います。美智子さんは巨大な存在でしょう。明治から近代天皇制で重要人物を3人挙げろと言われたら、まず明治天皇、それから、悲劇やあの孤独感も含めて昭和天皇でしょう。そして3人目が、現天皇には申し訳ありませんけれども、美智子さんでしょうね。美智子さんは「神事をおろそかにしてはならない」という貞明皇后の教えを守っている訳ではないでしょうけれども、一心不乱に神事を行っている。以前、彼女の故郷の館林に美智子さんが表敬訪問にいらした際に会ったのですが、驚いたことに、彼女の眼差しが、ひとりひとりを的確に捉えているんです。少なくとも私は「見られたな」という意識を持ちました。ひとりひとりが「見られている」とい感じる眼差しです。それは単に眼差しの強さというつまらないことではなく、「ああ、この瞳の中に入っちゃったんだな」という意識を持ちました。よく知られているように、天皇・皇后は沖縄戦の終わった日、日本の敗戦、それから広島、長崎に原爆が投下された日の四日は、すべて休んでただ祈るわけですよね。それを率先しているのは、美智子皇后だと思います。
さて、平成論になると、次の天皇になる方のお妃問題に触れざるを得ない。そうするとやはり、近代天皇制は、そろそろ耐用年数が切れつつあるというのが私の認識です。近代天皇制は、最大の危機を迎えていると思います。
昭和天皇の次の代に結婚した美智子さんは、皇族ではなく庶民からでた方ですけれども、そういう非常にわかりやすく言えばシンデレラ・ストーリーのような形で、ちょうど日本が高度経済成長という波に乗っている時代に皇室にはいった。ところが、昭和天皇っていうのは良くも悪くもたいへん長生きをしてしまったため、現天皇の皇太子時代が非常に長かった。それは皇太子妃美智子さんの妃としての生活が長すぎたことで、矛盾がいっぺんに押し寄せてきているように感じるのです。

少なくとも日本人は、天皇制に代わる新しい制度を編み出すほど独創的な民族ではないと思っています。

美智子皇后は、危機的な状況になればなるほど、輝きを増していきます。それは今だけを見れば確かにいいことのように見えます。しかし、「次は、どうなるんだ」という見方がされるようになる。つまり、皇位の継承という点から長い目で見たときに、美智子さんの行動が皇室の危機を深化させていると思えてくる。

美智子さんというのは、もう出てこないであろうスーパースター、出来すぎの女性です。これは美智子さんの責任ではありません。

私は美智子さんのことを、ゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」という有名な絵を見るようだと感じてしまう。彼女は出来すぎますから、自分の息子まで食べている感じを受ける。これは天皇制にまつわる宿命です。凡庸では危機は乗り切れませんから困るわけです。

ただし、天皇制はというのは新しい時代になれば違う天皇制を編み出していかなければならない。昭和天皇は昭和天皇流の編みだし方を、現天皇と美智子さんは、祈りという形で行っている。では、次期天皇がライフワークとするものが無くなっている。象徴的にいえば、昭和天皇は稲の天皇だった。現天皇、皇后は、エコロジー、平べったい言葉で言えば「縁」というところに依っています。そういう大きな構想力の中のメタファーまで手をつけられると次のテーマ
がないと思ってしまう。本当に難しい局面にきています。

「なぜ学ばなければならないのか」 佐藤 優 x 原 武史

総合大学とはなにか
大学で学べる学問を簡単に挙げてみますと、文学、哲学、法学、政治学、工学、理学などがありますが、これらはすべて実学であり、現実のどこかに役立つものです。また、論理や作品の形で示すことができます。ヨーロッパでは、この実学だけしか学べべない大学は総合大学と言わず、Polytechnique(ポリテクニーク)やCollege(カッレジ)と言います。なぜなら、神学部がないからです。
ヨーロッパにおいて総合大学といわれる場合には必ず神学部があります。神学は、虚学です。数学の背景にも、哲学の前提にも、歴史学の前提にも神学はあるし、音楽や体育にも、それを基礎づける神学があるのです。神学とは表にある様々な学問の裏側についている学問と言えるでしょう。そして虚の物と実の物を合わせたものが総合知であり、それらを学べる大学を総合大学と呼ぶ考えなんです。

中世の大学は何年制だったと思いますか?大学に入学するのが。12歳から16歳くらいです。一般教養を11年間やった後、法学部と医学部と神学部に分かれます。修業期間がもっとも短いのが医学部で、専門課程がだいたい5,6年でした。法学部で8年から10年くらい。神学部は、約16年です。ですから、神学部出身者は、大学に27年間いるということになります。大学入試はなく、大学の先生の弟子になるんです。入学しての卒業率は、約5%です。95%が途中で退学してしまう。
この中世において、「博識に対抗する総合知」という考え方がありました。専門知識をいくら知っていても、今で言うところの「オタク」扱いしかされません。それに対して、知識の量はほどほどにしかなくても、その知識をどう扱えばほかの分野の知識と連動させることができ、人間が生きていく上で役にたつかを知っていることを、中世の人たちは総合知と言ったんです。

民族と国家
「民族ができる」ということは、一定の教育を受けた労働者を作ることと同じなんです。産業転換の構造に合った形で、どんな労働にも就ける人を作らねばならないという要請の中で、民族が作られていく。その民族の構成員はは、均質で平等です。そうなったときに、「敵のイメージ」が重要になってくる。
「チェコ人」ができるいときにはドイツ人が「敵のイメージ」です。「ポーランド人」ができるときはロシア人が。「アイルランド人」は、イギリス人が。「フランス人」は、イギリス人とドイツ人が。「ドイツ人」は、フランス人が。どうしてフランスとドイツはお互いに「敵のイメージ」になるのでしょう。それは、戦争を繰り返す中で、自分たちが負けたときにの記憶-「我々はこけにされた」「ひどい目に遭わされた」といった記憶を結びつけていって、「私たちをよくもひどいめに合わせたな」という負の連帯意識を持つようななるからです。民族はこうしてできあがっていく。

見えない「関係」を見抜く
今、中国では、負の連帯意識によって、中華帝国時代の「漢人」とは異なる「中国人」という近代的な民族が作られています。このとき、我々日本人が「敵のイメージ」にされてしまっているため、日本と中国は、国家という位相では、ぜったいに仲良くならないことを前提として、お互いに関係を組み立てないといけない。国民国家形成のプロセスにおいて、日本人は中国人を「敵のイメージ」にしませんでした。このような非対称性うぃわれわれの努力で崩すことはできません。
ところが、この「敵のイメージ」をつくる課程において、中国は、チベット、ウィグルとの間での民族問題という深刻な問題を抱えています。
民族自決権を行使して、チベットがが独立するという、ナショナリズムを煽れば中国自身にブーメランで返ってくる事柄です。

読書 塩野七生『海の都の物語』 中央公論社 

塩野七生 著 『海の都の物語』 を読む。

第二話 海へ

”海の都の物語”
海の都の物語

中世の地中海交易が扱った商品といえば、香料を中心とした奢侈品であると思っている人は多いであろう。たしかにこれらの品は、ヴェネツィア商人が商った、典型的な品ではあった。しかし、奢侈品は、絶対に必要な品ではない。そして商売というものは、買い手が絶対に必要とする品を売ることからはじまるものである。買い手に買いたい気持ちを起こさせるような品を売りつけるのは、その後にくる話だ。

海洋貿易時代になると、主要商品が奴隷と木材に代わる。いづれも、ヴェネツィア商人の得意先であるアフリカの回教徒たちが、ぜひとも欲しいと望む品
であった。
キリスト教によって、奴隷制度は完全に廃止されたわけではない。キリスト教徒を奴隷として売り買いすることは禁じられてはいたが、キリスト教徒からみて、異教徒や、また単に不信の徒とされた人々、つまり、いまだにキリスト教化されていない人々の場合は、認められていたのである。
カトリック教会がそれを正当化するためにあげた理由とは、肉体を束縛することは精神の救済に役立つ、というものであった。この理由によって奴隷として売り買いしてかまわない人々には、異教徒である回教徒はもちろんのこと、同じキリスト教徒でもカトリック教徒以外の人々まで含まれるわけで、ローマン・カトリックから異端とされていたギリシャ正教を信じるカトリック教徒も、この分類に入ることになるのである。しかし、最大の奴隷”資源”の産地は、いまだキリスト教化されていない地方であった。6世紀頃はアングロ・サクソン人が、9、10世紀には入ると東欧のスラブ民族が、奴隷市場で売られる主要な民族であった。

それにしても、中世の奴隷は、ヨーロッパからアフリカへ流れていたのである。

奴隷の買い手は、アフリカのサラセン人が主要な客であった。ハレムにも売られたが、回教徒の軍隊を補強するのに、その大部分が使われたのである。

奴隷と並ぶヴェネツィアの二大商品のもう一つは、木材であった。これまた上得意は、アフリカの回教徒である。地中海地方は、長い間の手入れの悪さのために、木材がひどく欠乏していた。一方、ヴェネツィアの背後には、多量の木材の供給地が控えている。ヴェネツィアが造船業の先進国になれたのは、近くに安くて質の良い木材の供給地を持っていたからだと言われるほどであった。

北アフリカの回教徒に奴隷と木材を売り、金や銀で支払いを受けたヴェネツィア商人は、その”外貨”を持ってコンスタンティノープルへ行く。そして、そこで、必要不可欠な品ではないが西ヨーロッパ人が最も欲しがる、奢侈品を買い求めるのである。香料とか布地とか、金銀の細工品から宝石も。これらを積んでコンスタンティノープルを発ち、ヴェネツィアへ戻るのが、ヴェネツィア商人の主な交易路であった。商品を持ってヴェネツィアに着けば、ヨーロッパ各地から集まった商人たちが待っていて、荷をほどく間も惜しいように、またたくまに売れていくのである。

ヴェネツィア人は、彼らの力の基盤は船であることを熟知していた。いかなるヴェネツィア人も、老朽船でないかぎり、外国人に船を売ることは禁じられていたし、ヴェネツィア人が船を購入する時はヴェネツィア国内で造られた船を買わねばならないと、法律によって決められていた。
材料は売っても、完成品は売らなかったのである。

第四話

読書 『歴史と現在』 明治学院大学 国際学部付属研究所 公開セミナー(4)

明治学院大学 国際学部付属研究所 公開セミナー(4)
『歴史と現在』 河出書房新社 を読む

”歴史と現在”
歴史と現在

「演歌と夜汽車」 八代亜紀 x 原 武史

キャンペーンと鉄道
30日のうち28日は地方まわりですから、両手にトランクを抱えて、譜面を詰め、全国を移動し続けたんです。手はマメだらけで、毎晩夜行に乗って違う町へ行くわけです。あるとき、朝早い時間に、在来線-場所は忘れてしまったのですが、-に乗ったのですが、とにかく疲れていて、紐靴を履いていたのですが、「ああ、座席に足を乗せて眠ったら気持ちいいだろうなあ」と思っていたらそのまま寝ちゃったんです。そしてふっと気づいたら車内は超ラッシュ状態なんです。吊革に掴まってぎゅうぎゅう詰めになっていた。でも、私が足を投げ出して乗っているそのボックスだけ、誰も座っていなかったんです。私はすごく恥ずかしくて、ぱっと足を下ろして、一所懸命バッグを手元に寄せて小さくなりました。ただ、今だからわかるのが、おそらくそのときの周囲のみなさんは、泥のように眠っている、手をマメだらけにしてトランクを横に置いて眠っている若い女の子を、起こせといわなかったということです。暗黙のうちに「寝かせといてあげようよ」という雰囲気になってくれた、みなさんの気持ちですね。人間は、一所懸命やる若者に対して、ものすごく優しいということを学びました。

会場からの質問に答えて
「私は、大学生やキャンパスなどにすごく憧れているんです。その年代の私は、とにかく八代亜紀として過ごしていて、八代亜紀という責任があった。売れていようと売れていまいと、八代亜紀でなくてはならいけない。もちろん遅刻してはいけないし、反発も簡単にできない。だからこそ、そういう責任を持つようになる前の大学時代は、すごく貴重な4年間だと思います。特に、自分を知るチャンスですし、自分を知って、信じていくことが大事な時期です。いろいろな自分の姿を思い浮かべて、そのなかでも特にどれを信じられるかを描いてごらん。そして、それに向かっていけばいい。」

「文学と東京」 宮部みゆき x 原 武史

鉄道の存在が小説に与えるもの
英語版もいくつか出ているんですけれども、英語版の『火車』が出たときに、『ヘラルド・トリビューン』紙の記者の方がインタビューにきて下さったのですが、「私は東京と言っても非常に限られた場所にしか住んでいないので、私の書く東京は、ある種の偏った東京で、TOKYOではないかもしれない」と申し上げたんです。「ダウンタウンで、ブロンクスみたいなところ」と言ったら、「あなたがどこに住んでいて、どこに血脈があるかということにかかわらず、私たち英語圏の人間も、今の日本で何が起きているのかが知りたい。だから、日本の日常を生きている人たちが出てきて、事件に巻き込まれたり、あるいは事件を解決したりしていくような作品を読みたい。」と言われたんです。それに対して私が、「もっとスケールの大きい国際謀略ものとか、大国間の駆け引きなどが描かれている小説が日本にもたくさんありますから、そうゆうものもぜひ紹介してください」と言ったら、「それは国産で足りているのです。ただ、JAPAN NOWが欲しいんだ」とおっしゃるんですね。これはすごく意外なことでした。たとえば、「サラリーマンが会社帰りに居酒屋で一杯やる」といった描写を、アメリカの人たちが読みたいと思うとは思わなかったので。「生活人であるという点では、少なくともある程度の先進国ではみな同じハートを持っているけれども、ライフが違う。そのライフを見たいんだ」

「メディアと社会」 佐藤 卓己 x 伊東秀爾

メディアとは何か
1980年代になるまでメディアという言葉は広告業界のジャーゴン(業界内だけで通用する隠語)としては使われていたものの、一般の人たちが使う言葉ではありませんでした。ですから当時は新聞でメディアという言葉を使うときには、「報道などの媒体」「情報伝達媒体」といったように、カギ括弧つきで説明されていました。80年代後半になってバブル期に入るなかで初めて、メディアという言葉が日常用語として使われるようになりました。

私たちのテレビにまつわる思い込みと歴史的事実には大きなギャップがあるんです。一般の歴史書には「1953年に日本でテレビ放送が始まり、力道山のプロレスを見るために、街頭テレビに日本人は殺到した」と書いてあります。さらに1956年には、大宅壮一がテレビについて「一億総白痴化」、つまり、下品なテレビ番組を観ることで日本人が馬鹿になると言ったこともよく知られています。
しかし歴史的事実について見直してみると、街頭テレビで初めてテレビを見た人よりも小学校の教室でテレビに出会った人のほうが多いはずです。また、大宅壮一が1956年の日本テレビ系の『なんでもやりまショウ』を批判した当時、このテレビ番組を観られた地域は首都圏だけです。大宅壮一が批判した低俗番組は首都圏の「贅沢品」であって、とても一億人が観ていたわけではありません。

「フローなメディア」をいかに研究するか
テレビ研究は、史料収集という点で、メディア史研究のなかでも特に難しい面があります。

メディアは通常、フロー-流れ去って保存されない-メディアと、ストック-蓄積され頬保存される-のメディアとのふたつに分けられます。映画は当然ストックされるメディアで、名画座のようなところで繰り返し上映するのでフィルムは原則的に保存されます。しかし、テレビは、アーカイブがあるとは言っても、過去のものがほとんど残っていません。フィルム時代の60年代までよりもビデオ時代の70年代が特にそうです。というのもビデオで撮っても、放送が終われば、その上から被せて同じカセットを何度も使っていたからなのです。だから、皮肉なことですが、黄金時代の番組は、テレビ局にはほとんど保存されていません。テレビというのは、もともと保存や蓄積するということを考えていなかった「フローな媒体」だと言えます。
活字の世界でいえば、書籍が「ストックされるメディア」で、新聞や雑誌が「フローなメディア」でしょう。ストックされる本は、文化財的なものと評価されますが、それに対する新聞・雑誌などは、フローなメディアですから、消耗品として評価は低い。古本は売れますが、古新聞・古雑誌は通常ゴミです。同じことが映画とテレビの関係にも言えて、映画とテレビのどちらが高級かというと、まず映画でしょう。
「趣味はなんですか」と聞かれて「映画です」と答えるのは「読書です」と同じくらい恥ずかしくないでしょう。でも「趣味はテレビです」は「東スポです」「週刊大衆です」と答えるのと同じくらい恥ずかしい。

国会図書館ですら、『キング』は歯抜け状態で、まともなコレクションになっていない。大衆雑誌なんて集める必要がないと思われていたのでしょう。
おそらく50年後に皇室の研究をしようとしたら、『女性自身』は非常に重要な史料になるでしょうか、大学図書館で『女性自身』のバックナンバーをしっかり集めているところは東大以外にないでしょう。あるいは、昭和時代における女性の性意識を研究しようとしたら『微笑』などがとても役立つはずですが、果たして大学図書館でそれをストックしているところはあるでしょうか。あるいは、たとえばやくざの研究をするために『アサヒ芸能』を見たいといったときに、大学図書館の相互利用は絶望的ですね。

「文明の転換と資本主義」 中沢新一 x 高橋源一郎

人類の「普遍的能力」とグローバル資本主義の目指す「普遍」
人間の知的能力が、十数万年のあいだ、ほとんど変わらず同一の普遍構造を持っていることがわかったきます。どこの民族であろうが、どの言語を喋っていようが、どんなに違う言葉を喋っていようが、知的能力は同じです。そしてそこには普遍的な心の能力というものが潜んでいて、それが各母語や文化に展開するちう仕組みです。つまり、人間はある意味で普遍的な存在ということになるわけです。それが地域ごとに多様な文化、文明を作り出している。この普遍性と多様性がセットになっているのが人間であるという点が、最も重要な認識じゃないかと考えています。人類学では、レヴィ=ストロースが同様の認識をし、人類の文化は、普遍的構造の多様化として現れてくるが、それを生み出すおおもとは普遍的なものだと言いました。
いっぽう、現代の世界は、単一の文化、単一の社会システムに人類を作り替えようとしています。なぜなら、商品や労働力を迅速に流通うさせるためには、各言語や文化、パーソナリティの違いが大きな障壁になるからです。しかしこれが、人類の普遍に向かっていることを意味するかというと、そうではありません。今、地球上で均質化、単一化に展開しているものは、アングロ・サクソンのローカルな文化形態でしかありませんから、普遍ではない。
普遍的な能力は、私たちの脳のなかに宿っています。そして、それが多様性をそなえた文化であり言語となって展開してくるものであり、人類の普遍能力の豊かさを実証しているものです。けれども、もしもこれを人類が均質な文化であるとか、均質な経済システムであるとか、均質な生活様式、意見、世論、こういうものによって均質化したとき、私たちのなかで、普遍的な能力の展開は死んでしまうでしょう。
現代において最も重要な問題というのは、人間の世界が大きく二極分解しつつあるということだと思います。アングロ・サクソン型の資本主義を世界中に広め、労働力を自由に流動化させ、商品の自由化を推し進めていき、地球上を単一のシステムに変えようとしている。これがグローバル資本主義と呼ばれているものです。それは地域で育ってきた多様性を持った文化が最も邪魔になりますから、日本で言えば日本語や日本的なシステムに当たるものを破壊していく動きが展開されるつつあります。

読書 『リスティング広告 プロの思考回路』 アスキーメディアワークス

『リスティング広告 プロの思考回路』 アスキーメディアワークス を読む (Blog)

"リスティング広告"
リスティング広告

第1章 どうやって効果を高めるのか?
リスティング広告で一番大事だと考えていること

  • 自社(広告主)を知る
  • 競合を知る
  • お客様を知る

「ランディングページのファーストビューに本当に言いたいことがかかれていない!」(自社を知る)
「そんなキーワードで出稿したって(同じキーワードで出稿している)他社に勝てるわけない!」(競合を知る)
「その広告文で本当にクリックされると思う?」(お客様を知る)

プロが必ず実践していること
(1)「ユーザは必ず自社(広告主)と競合他社を比較している」ことを念頭に置く
(2)「比較されたときに勝てる武器は何か」を理解している

リスティング広告は、ユーザが何かのニーズをキーワードで表現し、検索したときに表示されるので、自社(広告主)がよほど強い商品を展開していなければ必ず競合の商品やサービスと比較される。そのとき、他社と比較されても、なお自社(広告主)の商品やサービスがユーザに選ばれる「武器」がなければ、どんなに何度も上位に表示されても、本来の効果は発揮できない。「比較されたときに勝てる武器は何か」を理解することが非常に重要であり、「クリック率」や「広告スコア」、「コンバージョン」、「LPO」といった指標を小手先でいじるより、はるかに大きな成果が得られる最善の策になる。

リスティング広告は最も手間のかかる手段
リスティング広告は、最も獲得効果の高い手段である理由は、テレビ広告やバナー広告がニーズのないユーザにも自社の主張を表示していたのに対し、リスティング広告は何らかのニーズをキーワードの形で表しているユーザに対してのみ表示される。ニーズには興味・関心の段階の含まれるので必ずしもすべてが購入に結びつくわけではないが、テレビ広告やバナー広告より効率が高い。
まず、リスティング広告はキーワードで網を張るところから始まる。しかし、ひとつの商品に対してユーザが検索に使うキーワードは何十、何百種類(ミスタイプまで含めればもっと多い)ににもなる「検索キーワードの多様性」がある。「検索キーワードの種類はニーズを持つユーザの数だけある」と言っていい。しかも時代の流れ、人々のニーズの変化によってひとつの商品に対応するキーワードも変わっていくし、寿命の短い商品であれば、商品の方が変わってしまう。リスティング広告でも商品に対応する細かなニーズとキーワードの関係を細かく幅広く更新し続けないと販売につながらない。
また、リスティング広告は多くの場合、同じキーワードで網を張っている会社、つまり同様の商品やサービスを提供している競合他社と自社の広告が一緒に表示される。テレビなら競合同士が同じ番組のスポンサーになることはあり得ないし、バナー広告なら一つの表示枠に1社しか表示できない。ところがリスティング広告の場合、ほとんどの場合は競合他社の広告が同時に表示され、即時に比較対象になる。USP(Unique Selling Point = 独自の売り)がないと見向きもされないのがリスティング広告だが、同じような商品やサービスが表示されている中で、数十文字のテキストでUSPを見せるのは非常に難しい。だが、USPがなければ売れないのも事実だ。広告文を絶えず競合と比較して見直し、他者には出せないUSPを模索し続けるしかない。
さらに、リスティング広告は出稿してクリックされただけでは売り上げにならない。

どんなにうまくキーワードの網を張って、広告文で差別化しても、最終的には「正しい情報」に導かないと意味がない。

リスティング広告は、キーワード選び、USP、ランディングページのクリエイティブや在庫管理との連動などがかみ合って初めてうまくいく手法であり、手間のかかるリスティング広告の運用を補ってくれるのが自動入稿システムなのだ。

 

 

読書 吉岡 忍 『日本人ごっこ』 文春文庫

吉岡 忍 著 『日本人ごっこ』 を読む。

”日本人ごっこ”
日本人ごっこ

台湾、朝鮮、中国を領有した日本はパールハーバー奇襲と同じ日、香港から東南アジア一帯にかけての侵攻を開始した。当時のタイ軍事政権と同盟を結んだ日本は、ラングーン側とタイ側の双方から兵力を進め、ビルマを支配した。
しかし、戦況はたちまち悪化した。アジア全体と太平洋に広がった占領地域のあちこちで抗日運動が広がり、他方ではアメリカ軍が反攻に転じた。日本本土は空襲で焼かれ、日本軍は玉砕し、潰走した。そして敗戦。日本人の姿は中国大陸からも、他のアジア地域からも消えていった。
その後、日本人がアジア各地に舞い戻ってくるのは、観光客としてではなかった。観光客より前に、アジア各地に姿を現したのは家電メーカーの社員たちだったはずである。
戦後日本の家電メーカーのなかで、外国にはじめて駐在員を派遣したのは松下電器だった。1957(昭和32)年のことだった。それ以前にも他のメーカーが、社員を短期的に出張させることはあったが、駐在員事務所を構えるような本格的な派遣は、同社がはじめてである。
そして、このとき松下電器が駐在員事務所を置いたのは、バンコクだった。タイは戦争中、他の国々のように日本軍に侵略されたわけではなかったので、反日や抗日の気運も少なかったし、戦乱による荒廃もほとんどなかった。日本のメーカーとしては行きやすかったし、市場としても有望と思われたのである。こうしてタイは、戦後の日本企業が世界に向けて製品輸出に乗り出す跳躍の場となった。

当時の日本では、電化の実際の中心はアイロンや扇風機や自転車用ランプ、それに真空管式からトランジスターに変わりつつあったラジオだった。敗戦による荒廃からの復興の時代、そして高度成長期に向かう助走の時代に、これらの製品は文字通り、飛ぶように売れた。大量生産によるコストの低減と価格の低下が、その売れ行きにさらに拍車をかけた。
そのころ、タイで売られていた扇風機やラジオの多くはアメリカやヨーロッパの製品だった。そこに、当時はまだ労賃も安く、大量生産によってますますコストも下がった日本の製品が入りはじめたのである。日本製品の価格は、欧米の製品にくらべて格段に安かった。
しかし、性能や品質やデザインも見劣りするものだった。
松下電器の駐在員の丸田は言う。
「だから私の仕事は、報告するための駐在員でしたよ。バンコクの店先でフィリップス(オランダ)とかテレフンケン(西ドイツ)とかRCA(アメリカ)などの欧米のメーカーの製品を見て、それをスケッチするんです。サンプルを買うお金もなかったですから。私の報告を見て、日本にいる技術者がイミテーションするんです。日本企業の海外進出なんて、最初はそんなふうにはじまったんですよ。」
バンコクからサケオ市などのカンボジア国境沿いの町を通過し、カンボジア国内を通ってサイゴンに入っていくトラックのルートを開拓した日立家電販売の藤田は、「家電製品で大事なのは、モノを売るだけはなく、そのあとの修理などのサービスなんです。戦争中の南ベトナムには延べにして5,60人、常時5,6人の技術者が行ってましたよ。彼らはあっちこっちの基地をまわって、仕事をしていたんです。」
「アメリカ兵たちは運よく戦死せずに、2年間の戦場生活を終えると、故郷に帰ったり、ヨーロッパにあるアメリカ軍基地に転任していった。彼らは南ベトナムで買ったテープレコーダーやオーディオ機器を持っていった。それが、日本のブランドを世界に広める大きなきっかけとなった。」
60年代に入って工業化政策を積極的に進めるようになったタイでは、製品輸入に対する関税を高めたり、輸入禁止品目をふやすなど、自国産業の保護育成をはかるとともに、外国企業に対して工場を誘致するようになった。
藤田は、「販売ルートを調べるために、タイ国内、くまなく歩きまいした。」そして、その過程で発見した大きなルートのひとつが、「スマッグル(密輸)だった。」メサイのように隣国と自由に往来できる国境の町は、タイのなかにいくつでもある。ビルマ、ラオス、カンボジア、それに南のほうにはマレーシアがある。それぞれの国境の町の業者と話をつければ、製品は外国にも流れていく。
これは、外国での現地生産に、当時、まったく不慣れだった日本の家電メーカーにとっては、大きな利点だった。

学生や若者たちにのあいだで、日本のファッションの人気が高いのはなぜだろう。
「私はそれは、文化の量の問題だと思っている。日本の文化情報はファッションだけでなく、車や電化製品や化粧品としても入ってくる。日系のデパートもある。タイでは、アメリカやヨーロッパの文化情報を圧倒している。そこにテレビや雑誌の広告が加わるんだ。日本はいま、ものすごい力で若者たちを引っぱっている。」
無数の「日本」に囲まれて、<ワタシはタイ人ですか?>とつぶやく歌の先を探っていけば、その社会がオリジナリティをどう築いていくのか、という問題にたどりつく。いや、そのことのむずかしさにたどりつくと言うべきかもしれない。
私が私である根拠を築こうとするものを無力感に追い込み、自信を失わせ、むなしさに囲い込む力としての「日本」が、ここにはある。

先進国や経済大国というものの力。それは経済や産業の分野にとどまらない巨大な力である。私が私である根拠を揺さぶり、ときには無力感さえ植えつけるその力は、人々を混乱に落としいれ、その社会全体に外側から変貌を迫っていく。
変わりつつあるタイの現在を、これは進歩への過程であり、繁栄への途上なのだとなかなか楽観できないのは、この問題に関わっている。これらは彼らの問題ではなく、先進国の中で働き、経済大国のなかで生きている私たちの問題である。

読書 岸良 裕司 『全体最適のプロジェクトマネジメント』 中経出版

読書 岸良 裕司 『全体最適のプロジェクトマネジメント』を読む。

”全体最適のプロジェクトマネジメント”
全体最適のプロジェクトマネジメント

1.プロジェクトはひとがおこなうもの(ひとのサガ:Human Behaviors)
プロジェクトとは今までやったことのないことをすること。
不確実性が高く、納期があり、人がおこなうものである。

 

 

「6つの問題行動」
プロジェクトには人にまつわる6つの問題行動が潜んでいる。
①サバよみ
②予算と時間をあるだけ使う
③一夜漬け
④過剰管理
⑤早く終わっても報告しない
⑥マルチタスク

2.マルチタスクをなくせ(選択と集中:Choke)
①プロジェクトの優先順位を組織全体の視点から検討する。
②「今はやらない」ことで、「集中する」ことが可能になる
③「今はやらない」と決めたプロジェクトでは万全の準備をする

3.目標を共有(すりあわせ:ODSC)
①目的:Objectives
目的について次の質問をまず繰り返す。
「目的はなんですか?」
「ほかにありませんか?」
ある程度、プロジェクトの目的が出てきたら、次の質問をする。
「財務、顧客、業務プロセス、成長と育成、経営理念、社会貢献の視点は入っていますか?」
(目的は自由に議論、言われたことをそのまま書く)

②成果物:Deliverables
成果物について、次の質問をまず繰り返す。
「成果物はなんですか」
「ほかにありませんか」
(目的と手段をはきちがえない)

③成功基準:Success Criteria
具体的に何を目的として、何を成果物としてつくるのかが共有されると、
それを具体的に測定できる言葉として成功基準を明確にしていく。
目的の項目を一つひとつ読み上げて、次のように質問していく。
「この成功基準はなんですか」
(ODSCは、経営幹部とすり合わせをする)

ODSCは、プロジェクトの大義名分
ODSCとは、プロジェクトが行われる理由づけとなるはっきりとした根拠、つまり大義名分を、目的、成果物、成功基準として明確に示すものである。