読書 マルセル・モース 『贈与論』 ちくま学芸文庫

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”贈与論”
贈与論

第4章 結論
1 道徳的な結論
われわれの道徳や生活の大部分は、いつでも義務と自由とが入り混じった贈与の雰囲気そのものの中に留まっている。幸運にも今はまだ、すべてが売買という観点から評価されるわけではない。金銭面での価値しか持たない物も存在するが、物には金銭的価値に加えて感情的価値がある。われわれは商業上の道徳だけをもっているわけではないのである。いまだ過去の風俗を持ち続けている人々や階級が残っているし、われわれの殆どは一年のある時期もしくはある機会に過去の慣習に従う。
返礼なき贈与はそれを受け取った者を貶める。お返しするつもりのないのに受け取った場合はなおのことである。

喜捨はそれを受ける者の感情をいっそう害する。したがって、われわれの道徳は、裕福な「施し好き」による無自覚で無礼な慈善を無くそうと最大限の努力を払うのである。
「礼儀」として、招待にはお返しをしなければならない。ここに古い伝統的基盤の痕跡と古い貴族的なポトラッチの痕跡がみられる。また、人間の活動の根源的な契機、すなわち同性間の競争心、男性の持つ「生来の支配的傾向」が浮かび上がっているのがみてとれる。そこの表れているのは、一方では社会的基盤、他方では本能的基盤、そして心理的基盤である。われわれの社会生活のような特殊な生活においては、われわれのあいだで今も言われているように「借りをそのままにしておくことができない」。われわれは貰ったより多くを返さなければならないのである。「人におごること」は常に、より豪勢に、よりたくさん行われる。そうゆうわけで、われわれが幼い頃のロレーヌ地方では、普段は慎ましく切り詰めた生活を生活を送っている村の家族が、守護聖人の祝日、婚礼、聖餐式もしくは葬儀などに際し、接待のために破産することまであった。このようなときには「大富豪」ぶらなければならない。われわれの国民の一部はいつもこのように行動し、来客、祝祭、「心付け」に関しては、むやみに金を使うとさえ言えるかもしれない。
招待は行われなければならないし、招待には応じなければならない。このような慣習をわれわれは自由主義的な組合の中でさえも保持している。

誰かが欠席することはまさに凶兆で、妬みや「呪い」の前ぶれ、証であるとされたのである。村人すべてが儀式に参加するというような地方が、フランスにはまだ多く存在する。プロヴァンス地方では子供が生まれると、人々は卵その他の象徴的な贈り物を持参する。
売却された物は依然として霊魂を持っている。かつての所有者は売却した物の後を追い、物の方もかつての所有者のもとに戻ろうとする。

クランからクランへ全体的給付体系とわれわれが呼ぼうとするもの-つまり個人と集団が互いにすべてのものを交換する体系-は、われわれが確認し理解しうる限りにおいて、経済と法の最も古い体系を作っている。それは贈与=交換の道徳が浮かび上がったその背景を形作っているものである。さて、このような体系は、大小の差はあれ、われわれが望む社会のあり方とまさに同じタイプのものである。

つまり、利己を脱却し、自発的にそして義務的に贈り物をすること。これに間違いない。マオリ族の優れた格言もそれを述べている。
「貰ったのと同じだけ施しなさい。そうすれば万事うまくいく」。

2 経済社会学上および政治経済学上の結論
贈与=交換の経済全体は、いわゆる自然経済や功利主義的経済の枠組みからほど遠いことを、われわれな何度も繰り返してきた。

「未開」社会においても価値概念は機能している。このことについて述べるなら、そこでは膨大な剰余が蓄積されるのである。それらは大抵、相対的に巨額な奢侈を伴う全くの浪費に充てられるが、金儲け主義な面はみられない。富のしるしや一種の貨幣も存在し、これらも交換される。しかしこの豊かな経済全体はなおも宗教的要素に満ちている。すなわち、貨幣はまだ呪術的力を持ち、クランや個人と結びついている。各種の経済的活動、例えば市のようなものには儀礼と神話が浸透している。各種の活動は儀式的、義務的そして実効的性格を持ち続けている。つまり儀礼と法で満たされている。

貨幣の使用はその他の省察のヒントとなるだろう。
トロブリアンドのヴァイグアすなわち腕輪と首飾りは、アメリカ北西部の銅製品やイロコイ族のワムパンとまったく同じように、富そのものであると同時に富のしるしであり、交換や支払いの手段であり、人に与えるか、さもなくば破壊しなければならない物である。ただし、ヴァイグアはそれを用いる者に結びついた担保であり、この担保はその者を拘束する。しかし他方では、ヴァイグアは貨幣のしるしでもあるのだから、さらなるヴァイグアを所有するために他に与えてしまった方が得である。それらは商品やサービスになり、再び貨幣へと形を変えるからである。全く、トリブリアンドやチムシアンの首長は、流動資本を立て直すのに適切な時に貨幣を手放す資本家のやり方を実施していると言えるだろう。利益追求と無私無欲は、こうした富の循環形態と、その後に続く富のしるしのアルカイックな循環形態を等しく説明している。
富すべての破壊でさえ、そこに見出されると思われるような、利益への完全な無関心に応じて行われるものではない。こうした度量の大きな行為ですらも利己主義を免れていないのである。単に贅沢で、殆どいつも誇張されており、大抵な場合に全くの破壊が行われるような消費の形態は、これらの制度に不経済極まりない出費ち稚拙な浪費をいう表情を与えている。

しかしこのような贈与や凄まじい消費、さらに度を外れた富の浪費や破壊は、特にポトラッチの諸社会において、利益追求と全く無関係な契機によって行われるのではない。首長とその部下のあいだ、部下とさらにその追従者のあいだで、こうした贈与によって階層性が作られるのである。与えることが示すのは、それを行う者が優越しており、より上位でより高い権威者であるとことである。つまり、受け取って何のお返しもしないこと、もしくは受け取ったよりも多くのお返しをしないことが示すのは、従属することであり、被保護者や召使いになることであり、地位が低くなること、より下の方に落ちることなのである。

最高位になること、最も立派になること、一番幸運に恵まれること、誰よりも強くなること、最も豊かになること。問われているのはそうなるための方法である。貰ってきたものを後に部下や親族に再分配することで、首長は彼のマナを堅固なものにする。首飾りには腕輪を、訪問には歓待を返すなどして、彼は首長間での地位を保つ。このような場合、富はあらゆる観点からみて有用物であり、それと同時に権威の手段である。果たしてわれわれの場合、これと異なっているだろうか。われわれにおいても、富とは何よりもまず他者を支配する手段なのではないだろうか。

贈与や無私無欲の観念と対置してきたその他の観念、そなわち、利益の観念、有用の個人的追求の観念である。

蓄財が行われるのは、消費するため、「親切を施す」ため、もしくは「隷属者」を獲得するためである。他方、交換の対象は特に贅沢品、装飾品、衣服、あるいは直ちに消費されるもの、饗宴に限られる。貰った以上のものが返されるが、それは最初の贈与者もしくは交換者を屈服させるためであり、単に「引き伸ばされた遂行」による損失を埋め合わせるためではない。利益もあるが、それはわれわれを動かすものと利益と似ているが同じではない。

人を労働に向かわせる一番の方法は、自分たちのためと同時に他人のために誠実に果たした労働によって生涯、公正に賃金が支払われると確信させることだと人々は気づいている。自分たちは生産した以上のもの、もしくは労働時間以上のものを交換している。そして、時間であったり命であったり自分自身の何らかを与えていると生産者=交換者は改めて感じている。常に意識していたのであるが、今度は明確に意識しているのである。したがって、生産者=交換者はこの贈与が適度に報われることを望むのである。この報いを行わない場合、怠惰と生産性の低下を招くことになる。

3 一般社会学上および道徳社会学上の結論
諸社会は、社会やその従属集団や成員が、それだけ互いに関係を安定させ、与え、受け取り、お返しすることができたかに応じて発展した。交換するためには、まず槍から手を離さなければならない。そうして初めて、クランとクランのあいだだけでなく、部族と部族、民族と民族、そしてとりわけ個人と個人のあいだにおいてでも、財と人の交換に成功したのである。その後になってようやく、人々は互いに利益を生み出し、共に満足し、武器に頼らなくてもそれらを守ることができるようになった。こうして、クランや部族や民族は虐殺し合うことなく対抗し、互いに犠牲になることなく与え合うことができたのである。これこそが彼らの知恵と連帯の永遠の秘密の一つである。
これの他に別の道徳、経済、社会的実践は存在しない。

諸民族、諸階級、諸家族、諸個人は豊かになることはできるだろう。しかし幸福になれるのは、円卓の騎士団のように共通の富の周りに座ることができた場合のみに可能である。善や幸福を遠くまで探しに行っても無駄である。それが存在するのは、平和状態、公共のためと個人のためとに交互にリズムよく行われる労働、蓄積され再分配される富、教育によって身につく互いの尊敬と寛大さの中なのである。

道徳的な結論、より正確に言えば、-古い用語を再び用いるなら-「礼儀正しさ」、また今言われているような「公民精神」という結論をいかにして導きうるのかさえも明らかになる。
これらの意識的な舵取りは最高度の技法、つまり、ソクラテス的な意味での「政治」なのである。

 

読書 原 武史 『滝山コミューン一九七四』 講談社文庫

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"滝山コミューン1974"
滝山コミューン1974

1 序
私が小学6年生になった1974年、七小を舞台に、全共闘世代の教員と滝山団地に住む児童、そして七小の改革に立ち上がったその母親たちを主な主人公とする、一つの地域共同体が形成された。たしかにごく一時的な現象ではあったけれども、「政治の季節」は、舞台を都心や周辺部の山荘から郊外の団地への移しながら、72年以降もなお続いていたと見ることもできるのである。
私はここで、国家権力からの自立と、児童を主権者とする民主的な学園の確率を目指した地域共同体を、いささかの思い入れを込めて「滝山コミューン」と呼ぶことにする。
倫理学者の古茂田 宏は、戦後教育の三つの潮流について触れた「文化と文化の衝突」(『講座学校第3巻 変容する社会と学校』、柏書房、1996年所収)と題する論文で、戦後第一段階に当たる1970年頃までの学校教育に対するまなざしに見られた「美しい物語」につき、次のように述べている。
国家主義的な滅私奉公を要求する非合理な道徳教育の押し付けではなく、一人一人の子供たちを賢く幸せにするための科学教育を・・・・といったスローガンの中には、子供の自然な発達段階に応じた(押しつけでない)真理の教授と民主的社会の形成とが予定調和するという美しい夢が託されていた。
「日の丸・君が代・特設道徳」といった上からの押し付けに対して子供を守るスタンスから抵抗した民主教師たちの中には、自ら教育行為そのものが別な形での権威主義-客観的知の権威主義(中西新太郎)-をはらむことになるなどという自覚はなかったし、またそういう自覚が促される歴史段階でもなかった。
教育とは人類の自己形成の営みであり、学校はこれを共同的に具現する場所などだという美しい物語が一定のリアリティをもって維持されたのである。

古茂田によれば、1970年頃を境に見られる第二段階になると、戦後民主主義教育のオプティミズムが維持できなくなり、校内暴力、イジメ、登校拒否などの事態が次々に起こって学校的秩序が解体していく。
「滝山コミューン」とは、「美しい物語」がまだリアリティをもっていた時代の最後に現れたものちいってよかった。実際に当時、文部省大臣官房統計課が毎年発表していた『学校基本調査報告書』によれば、「学校ぎらい」を理由とする全国の小学生の長期欠席者数(50日以上の欠席者数)、つまり登校拒否児童の数は、奇しくも「滝山コミューン」が確立された74年に最も少なくなっている。
いまでこそ、学校が本質的に権力性をもつというのは教育学で自明の前提となっているが、当時はそうではなかった。七小の教師たちは、「自らの教育行為そのものが別な形での権威主義をはらむことになるなどという自覚」はつゆほどもなく、コミューンの理想を信じ、その建設に向かっていったのである。

3 「水道方式」 と 「学級集団づくり」

全国生活指導研究協議会、略して全生研は59年、日教組教研第八次大阪集会で生まれた民間教育研究団体である。「日教組の自主教研の中から誕生した民間教育研究団体であるという点に、他の民間教育研究団体と異なる特色をもつ」という。

そこには一見、憲法や教育基本法に保障された「個性の尊重」が「内外の反動的諸勢力」によって脅かされているという、典型的な護憲派リベラルの主張が読み取れる。
だが、全生研で強調されたのは、集団主義教育であった。「大衆社会状況の中で子どもたちの中で生まれている個人主義、自由主義意識を集団主義的なものへ変革する」という文面からは、世界が東西の二大陣営に対立していた時代にあって、まだ理想の輝きを失っていなかった社会主義からの影響が濃厚にうかがえる。「個人」や「自由」は、「集団」の前に否定されるのである。

このような集団主義教育は、旧ソ連の教育学者、A・S・マカレンコ(1888~1939)の著作によるところが大きかった。
全国組織に並行して、地方の支部もつくられていった。63年には、全生研の教育包方針をまとめた『学級集団づくり入門』が明治図書出版から刊行され、71年には第2版が刊行された。

全生研によれば、集団とは「物理的な ちから としての存在」である。「集団はひとつのちからになりきらなければ、社会的諸関係をきりひいていき、変更していくことは不可能である。
まして、非民主的な力に対抗していくためには、集団はみずからを民主的なちからに高めるほかはないのである。」集団は、「民主的集団」、つまり「民主集中制を組織原則とし、単一の目的に向かって統一的に行動する自治的集団」にならなければならない。そのためには、目的自覚的な教師の指導が不可欠であるが、「集団を民主的なものにするのはあくまでも集団自身であり、子どもたちである」。児童は教師から「正しい指導」を受ければ、必ず集団の担い手としての自覚をもち、自ら集団を変えていくとされるのである。
「学級集団づくり」には、「よりあい的段階」「前期的段階」「後期的段階」という三つの発展段階がある。「学級集団はこのような三つの発展段階をたどりながら、その合目的的な発展の法則性を展開していくのである」。ただし実際には、「後期的段階」の実現は「まだかなりむずかしい」とされる。

全生研の唱える「学校集団づくり」は、最終的にその学級が所属する小学校の児童全体を、ひいてはその小学校が位置する地域住民全体を「民主的集団」に変革するところまで射程に入っていたのである。
「滝山コミューン」の思想的母胎がここにあった。
しかも滝山団地にはコミュニティセンターがなく、自治会も割れたいたのに対して、七小は1街区から3街区まですべての児童が通学していたから、小学校こそコミュニティの中核としての役割を果たしていた。七小が「滝山コミューン」の舞台となる条件はそろっていたのである。
さらに目を外に転じれば、全生研が影響を受けた旧ソ連の集団主義教育は、団地を中心とするソビエト社会の中で発展したものであった。

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現役おばちゃん教師

読書 今尾 恵介 『地図で読む戦争の時代 描かれた日本描かれなかった日本』 白水社

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”地図で読む戦争の時代”
地図で読む戦争の時代

はじめに
地形図を作り始めたのは、どの国でもたいてい陸軍である。もちろん海図は海軍が作った。陸であれ海であれ、国を守るためには正確な地図が必要であることは当然である。しかし一方で、他国を侵略するにも、先立つものは地図であった。たとえば日本の地形図の作成は昭和十二年に日中戦争あたりから目に見えて「外地」の地図作りの比重が激増し、「内地」の修正作業はまったく滞ってしまった。中国内陸部からインド、東南アジアから南太平洋まで、兵站線の拡大の前触れのように、測量戦線も拡大していったのである。

戦時体制下では、安全保障上重要な地図の取り扱いは厳重を極めた。「軍事極秘」の記載のある地形図は軍港都市・呉にほど近い要塞地帯のもので、軍や政府関係のごく限られた人しか目にする機会はなかったはずである。このような地域の地形図はもちろん一般人が入手することは不可能で、カタログである地形図一覧図でもその部分だけ空白になっていた。裏面には識別番号が捺印されているこんな地形図を戦争中に他人に譲り渡すことなど考えられないが、60年以上の歳月を経て、おそらく関係者の遺族が古書市場に流通させたのだろう。それをたまたま私が入手した。

本書のテーマは、2つある。

  1. 地図で戦争の時代を読む
  2. 戦争の時代の地図を読む

前者は日本の近代化以降にたどってきた軌跡、すなわち他国を侵略して植民地を経営し、また空襲を受け、連合軍によって占領された時代を、地図を通して観察することである。戦前には植民地化された土地にしばしば日本風の地名が付けられたが、当然ながらその土地を測量したのは日本政府の機関であり、もちろん日本語の凡例のついた地形図上の印刷された。やがて戦争も日本の旗色が悪くなり、本土がたびたび空襲される事態を迎えるが、敗戦を迎えたこの国の地形図作成スタッフに、黒々と描かれていた密集市街地 を白く疎らな、焼け残った建物だけを表示した閑散たる絵柄に変貌させた。内心の無念はいかばかりだったろう。連合軍はその空き地の上に有無を言わさず自ら の施設を作る。

後者のテーマは、戦争の時代にどのように地図が情報統制され、作成者の意図でいかに歪められたか、地図そのものを観察するものである。公開するにふさわしくない場所は図上で広大な空白とし、さらに時代が進むと軍事施設を住宅地と偽って表現するなど虚構が描かれた。敵の目を欺くためとして、結果的に多くの国民の目を欺いたのである。それどころか、その偽りを見抜く術を知らなければ、後世に生きる現代人でさえ引き続き欺き続ける厄介な存在になった。

地図を通して、「戦争の時代」を俯瞰してみると、実にいろいろなものが見えてくる。

焼け跡に出現した飛行場

市街地->焼け跡->公園
「水の都」だった大阪は大幅な変貌を余儀なくされた。西横堀川の西側がいわゆる西船場であるが、現在ここには9.7ヘクタールに及ぶ広い靭公園がある。
この場所はかつて雑喉場(ざこば)と呼ばれ、一帯には江戸初期から塩干魚や鰹節、それに干鰯を扱う問屋が軒を連ねていた。干鰯とは文字通り干して固めたイワシであるが、食品ではなく肥料である。これを畑に入れると綿が良く育ち、全国に知られた河内木綿は北前船で全国に運ばれた。時代を経ると九十九里浜も干鰯の産地となった。九十九里浜名物の地引網も、元は紀州の漁師が伝えたのだという。いずれにせよ、イワシは「繊維工業の原料」だったのである。
その靭一帯は昭和20年(1945)の米軍機の空襲で灰燼に帰してしまったが、広大な焼け跡を連合軍が接収し、小型軍用機を発着させるための飛行場を造成した。しかし占領が終わった昭和27年(1952)6月に接収は解除となり、公園として生まれ変わることとなった。

靭公園には、次のように記された石碑がある。

「この公園の整地は飛行場あとを昭和二十七年度から昭和三○年度の失業対策事業により行われたたものである。 大阪市」

 

読書 島本 慈子 『住宅喪失』 ちくま新書

島本 慈子 著 『住宅喪失』 を読む。

”住宅喪失”
住宅喪失

はじめに
私が前に住まいの問題を取材したのは、6年前(1998年)のことになる。それは阪神・淡路大震災によって「家が壊れて住宅ローンが残った」という人たちを追跡取材したルポで『倒壊-大震災で住宅ローンはどうなったか』として出版された。私がその取材を通じて感じたことは、戦後一貫して展開されてきた持ち家政策のゆがみである。個人が住宅ローンを組んで家を買うことは、それぞれの家族の幸せということを超えて、国家の重要な景気浮揚策として位置づけられ、そのことが個人に過大な重荷を背負わせていた。その矛盾を一瞬にしてあぶりだしたのが、阪神・淡路大震災だった。
それから私は労働問題に取り組み、『子会社は叫ぶ』『ルポ解雇』と続けて本を書いた。その取材を通して目の当たりにしたものは、日本の長期雇用が崩壊していくなまなましい実態である。
住宅と、労働と・・・・。この二つの異なる取材を通して、私は大きな疑問を抱くことになった。返済が長期にわたる住宅ローンは、長期にわたって安定した雇用が前提である。その長期雇用が破壊されるということは、つまり、日本の政治は「持ち家政策を捨てた」ということなのだろうか?
この疑問をとくために本書の取材をはじめ、そして私は、わずか6年で国の針路が極端に変わっているという事実に驚愕することになった。
あえて簡単にいおう。98年当時の日本は、「みんなが家を買うことで、国の景気をよくしましょう」という政策をとっていた。現在の日本は、雇用の流動化を進め、国民の間に貧富の差を拡大し、「家を買える人にはどんどん買ってもらい、買えない人には”家賃を払う存在”として経済に貢献してもらいましょう」という政策をとっている。
かつての持ち家政策が良かったとは言わない。しかし、少なくともそこに「弱者切り捨て」の発想はなかった。けれどいまは、恥じることなく公然と、弱いものを利用するだけ利用して強いものがさらに強くなるという「弱肉強食」の論理が語られる。
ただ、かつてもいまも共通していることはあり、それは何につけても経済が優先という思想である。国民の居住権は、この国の住宅政策において真摯に検討されたことがない。
労働においても住宅においても、日本の政策はアメリカうぃお手本とし、アメリカを追いかけている。
そのアメリカでは、1980年代にホームレスが急増し、人々に大きな衝撃を与えた。しかしその後、ホームレスは減ることなく高止まりの様相を見せ、最初はショックを受けた人々もいつしか慣れてしまい、90年代には「同情疲れ」といった空気が流れはじめたという。
日本も10年遅れでそうなるのではないかと、私は危惧している。

第1章 「人が住まいをうしなうとき」

人が住まいを失う理由
大阪弁護士会・木村達也弁護士はいう。「住宅ローンの破綻の理由は、確実に給与の減額、リストラです。残業代も含めた給与でローンを組んだけれど、サービス残業が増えて残業代が出ない。また、ボーナス時の支払いを見込んでいたのに、ボーナスが出ない。あるいは、リストラ解雇で失業してしまったというケース。自己破産にいたる人たちの借金は、住宅ローンだけではありません。みんな無理をしてでも家のローンだけは払う。家のローンを支払うために、クレジットやサラ金から借金して多重債務に陥る、というケースがほとんどです」

ローン破綻に陥ってマイホームを失う。失った人たちはどこへ行くのか?
木村達也弁護士は驚くべき事実を指摘する。
「家を手放すと賃貸へ移ることになるんですが、賃貸に入居するには権利金とか保証金とかがいるでしょう。50万とかへたすれば80万とか必要になったりする。その資金がない。ですから頭金が要らないような、あるいは少なくてすむような賃貸へ身を移す。
難しいのは資金面だけでなく、現実の問題として、破産者が賃貸住宅に入居することは厳しい、難しいです。家主はきちんと家賃を払ってもらいたいですから、破産した人は住まわせたくない。ですから仲介の不動産業者にチェックをいれさせる。破産すると氏名・住所が官報に載りますよね。名簿業者がそれをピックアップして名簿を作り、不動産業者に売っているのではないかと思います。つまり、家主にとっての不良顧客名簿が出回っているのではないか。」

第3章 住宅ローンの新たな戦略

人がマイホームを求める理由
マイホームを求める。その思いは高額所得者より庶民にとって切実なものがある。
どうしてマイホームがほしいのか。
私がかつて取材した20代の女性は、家を買った理由を「私にとって持ち家は精神的な保険でした」と言った。そして「保険」の意味をこう説明してくれた。「30年後の家賃がどれだけ高騰しているか、考えたら恐ろしいじゃないですか。私たちの世代は年金なんかほとんどもらえないっていうし、食べていけないで死んでいくのかっていうことが、すごくこわかった。でも、持ち家があれば追い出される心配はない。家賃も要らなくて、必要なのは食べていく経費だけ。それなら、わずかな年金でもやっていけるかなって」
貯金が数億円あるなら誰も老後の心配なんかしない。高額所得者でないから、居住の安定を切実に求める。また、最近は、雇用の流動化が進んでいるからこそ、せめて「誰からも出て行けと言われないマイホーム」を持ちたいという願いもあるだろう。

第4章 マンションを追われて

ローンが終われば借家人
民主党・井上和雄議員「400万戸マンションがある。そして10年後には、築30年以上を経過したマンションは約100万戸。そこでちょっと数十年昔に戻って、昭和40年代、30歳くらいのサラリーマンが、価格的には年収の5倍以上、そしてほとんどの方が30年から35年の住宅金融公庫のローンを組んで購入していると思うのです。そして、ローンの支払いにずっと追われながら、やっとローンを支払うことができた。
ところが建て替えなきゃいかぬ。またお金がかかる、ローンを組んで借金する。そうしたら、もう年金の中から死ぬまで返済を続けていかなきゃいけない。人生設計、もう一回、一からやり直し。これは、私はもう、人生の悲劇としかいえないと思うのです。」
さらに「人生設計をもう一回やり直しなんて無理だ」という人も出てくる。その人たちは、自分のマンションがなくなったら、どこへ住むのか?
それにしても「ローンが終われば借家人」の運命が待っているとは・・・・。

泣き叫んでも追い出すことができる
マンションの建て替え要件は五分の四の多数決だけとし、多数決をとるための前提条件はいらない。この区分所有法の改正は、2002年12月4日、国会の多数決で成立する。

こうして大震災の被災マンションで起きた裁判は、全国津々浦々のマンションへと波及していくことになった。

居住利益から経済利益へ
最高裁が出した決定の文書は簡素なものだった。事件の内容には一切踏み込んでおらず、ただ「上告する理由には当たらない」として、上告を門前払いにしている。

補修派住民の代理人の湖海信成弁護士は語る。
「最高裁がここまで引っ張った(2年9か月)のは、区分所有法の改正をにらんでいたと、それしか考えられないですね。一審も二審も不十分ですから、まともに判断しようとすると大変な時間がかかる。かといって早くしようとすると、一審二審をそのまま受けることになり、それにはやはり疑問もある。る。法律が多数決だけでいいと変われば、それは一審二審の判決と同じことだから、もういいのではないか、と。法律自体が変わったのだから、市民の代表である国会がそう決めたということは、市民が決めたということだから、国会の結論を最高裁が追認した、と。そういうことだろうと思います。
マンションというものは、経済的な側面を重視するのか、そこに住むという立場で見るのか、それによって判断が変わると思います。経済的に見れば多数の意思が支配するでしょうが、生活の場として考えるなら少数者も守ってあげないといけない。
また、以前の建て替えは、第62条で同一の使用目的のために建て替えると定められていたのですが、今回の改正でその制限も消えました。極端なことをいうと居住用マンションを商業ビルに建て替えることもできる。経済的な側面が重視されることになった表れでしょう。そういうことで本当にいいのかなと、僕は疑問に感じていますけれど」

六甲グランドパレス高羽の原告団のなかには高名な法学者がいた。民法学者の西原道雄さん(神戸大学名誉教授)である。
西原さんは裁判所へ提出した意見書をもとに、「過分の費用が争点だったこと」を丁寧に説明してくださった。
西原さんは意見書にこう書いている。
「建て替えは、全員一致の大原則に対する重大な例外であるから、復旧費用の過分性等の客観的要件を慎重に検討すべきことはいうまでもないが、同時に、多数 者の決定による少数者排除が不当な権利侵害をもたらさないように配慮する必要が大きい。特に、居住利益の保護は無視されるえきではない。建設資金等を負担 できないために建て替えに参加できない少数者の中に、高齢者や経済的弱者が多いことは、すでに各方面からしばしば指摘されている通りである。これら『弱 者』が現に居住している住居から事実上追い出され、従来と同程度の居住を確保できないような結果になる場合には、全員一致原則を破っての多数決による建物 の解体・建て替えは絶対に許されない。」

 

読書 名取洋之助 『写真の読み方』 岩波新書

名取 洋之助 著 『写真の読み方』を読む。

”写真の読みかた”
写真の読みかた

Ⅰ 写真の読みかた
個人の芸術から集団の芸術へ
写真は何枚かを使うことによって、一枚の写真としての弱点を克服し、物語ることができます。現実の流れから切ってしまうことができます。現実の束縛から逃れることができます。それが、新しく写真が獲得した方法であり、場なのです。小説を読み時に、映画を見る時に、その内容を体験しているように感じるのと同様に、写真でも、現実との縁を切ることが可能なのです。何回も見ることができるもの、時間が経っても、たんなる記録以上の価値を持つものが、こうして、つくれるのです。

誰でも写真は読める
発明されてから120年以上たって、写真を記号として使いこなすことが、やっと始まったばかりです。まだ、小学生の作文ていどの内容しか書くことはできませんし、それも教科書どおりで、春は花が咲いてきれいです、といったものですが、それでも、素材を見せるのでなく、素材の処理の手際を見せることが始まっています。
したがって、私たちが写真を見る場合にも、新しい見方が要求されます。写真はいわば、見るものから、読むものへと変わりつつあります。何枚かの写真が並べられ、それらが語っている物語が問題となりつつある今日、一枚一枚の写真の技を鑑賞することは、能において能面だけを鑑賞するのと同様、まったく別な立場からものを見ることになってしまったのです。美術品としての能面と、演劇の一つである能というものの見かたが、はっきりわかれたのです。この段階になれば、もう写真のよしあしがわからないなどと、心配する必要はありません。誰でもが能面の彫刻としての芸術性を云々する必要はないのです。映画を見に行った時のように、また手紙を読むような気持ちで、写真をみればよいのです。

Ⅲ 二つの実例
1.組写真の基礎的技術
写真は写しただけで完成したものではありません。とくに、コミュニケーションの手段として写真を使う場合、写しただけの写真は、未完成品です。説明のつけかた一つで、写真は逆にも読める。何枚かの写真を組んでレイアウトすれば、強調したり、省略したりできる。いわゆる写真編集の段階で、撮影時の意図とはかかわりなく、話をつくり、印象を変えることができるからです。
その観点から写真を見た時、どんなことが技術的に可能であるか。

キャプションが読みかたをきめる
写真をどう読むか。そのいとぐちをつけるのがキャプション(写真説明)です。したがって、同じ写真も説明のつけかたで、いろいろに読めます。好意的、否定的な立場に立って説明をつけることができ、どちらの立場の説明も嘘ではありません。

並べられる写真で違う意味を生む
2枚並べると、写真は1枚のときと、違う意味をもってきます。共通の要素が強調され、違いは目立たなくなります。したがって、同じ写真でも、となりに並べる写真によって、まったく違った役割を果たします。写真の並べかたで、どんな印象に変わるか。並べる人に意志によって同じ写真がどんなに違う働きをするか。同じ写真のとなりに、一方では好意的な、他は否定的な印象を与える写真を選び、キャプションも、その意図を強調します。

レイアウトが話をつくる
まったく同じ写真を使っても、写真の大小、並べる順序によって、異なった話にすることが可能です。好意的な方は、キャプションは、すべて明るい面を強調し、情緒的なものを大きく扱います。一方、見方によってはプリミティブに見えるものは、なるべく小さくして目立たないようにします。
一方、否定的な方は、情緒的な写真は小さく、ドライな写真を大きくします。写真の切り方にも留意して、強調するよう、余分な空間を小さくします。

 

 

 

読書 中沢 新一 『古代から来た未来人 折口信夫』 ちくまプリマー新書

中沢新一 著 『古代から来た未来人 折口信夫』 を読む

”古代から来た未来人 折口信夫”
古代から来た未来人 折口信夫

第一章 「古代人」の心を知る

姿を変化する「タマ」
折口信夫の考え方では、「神」という考えは、超越的な存在について日本人がつくってきた概念のうちでも比較的新しい層に属する考え方で、もっと古い原初的な表現は「タマ」と呼ばれる霊力にかかわっていた。
「タマ」は「神」とちがって、増えたり減ったりする。「神」のような特定の性格づけも機能も持たない。明確な名前も持たないし、変幻自在でいっときなにかのかたちであらわれたかと思うと、すぐに別のかたちをしたものに変身していってしまう。「神々」はしばしば体系のなかに組織されて、国家のために役立つ存在になる。ところが「タマ」のほうは、なかなか体系につかまってしまうことがない。「タマ」はしばしば威力のある動物と結びつく。しかし「神」はそれよりもずっと人間化の度合いが強い。太陽の霊力をあらわしていた「タマ」的な存在が、アマテラスという女神になっていくと、自然との濃密な結びつきは希薄になって、いつのまにか政治権力と結びついてしまう。ところが、どんどんすがたを変えていったり、一定の居場所を持たなかったり、半分自然のなかに身をひたしている「タマ」は、人間化の度合いがずっと低いのである。
日本人が超越的なものや力について考えてきた歴史を考えてみると、「神」という考えは表面の層に属していて、その層の奥には「タマ」という考えがひそんでいる。漢字を使ってその「タマ」を「霊力」と表すとすれば、「神」よりも原初的な、おおもとの存在として「精霊」が浮かび上がってくる。この「精霊」は、「古代人」の思考法である「類化性能(アナロジー)」との相性がとてもいい。体系のなかでの名前や場所を持っている「神」は、宗教的なものごとに「別化性能」が働くときに生まれてくる考え方である。ところが、流動する液体のような「精霊」には、合理的な思考を生む「別化性能」はうまく働かない。別のものとくっついて新しい存在をつくりだしたり、ものごとの境界に潜り込んでいける「精霊」をとらえるには、芸術をもうみだすことのできた「類化性能」しか、有効には機能しないからである。

精霊ふゆる「ふゆ」
折口信夫は日本列島における「古代人」の、宗教性ゆたかな暮らしを、つぎのようなサイクルとして描き出した。「古代人」は月の満ち欠けと太陽の位置に、とても敏感に反応していた。月の満ち欠けは、一月ごとの周期的変化を作り出す。これにたいして太陽は昼と夜の長さを変化させながら、一年を単位とする大きな周期を描いていく。春分と秋分には昼と夜が同じ長さになる。冬至には昼の長さが一年でもっとも短くなり、夏至にはもっとも長くなる。多くの祭りが、昼と夜の長さがもっともアンバランスになる冬至と夏至に集中しておこなわれる。
この冬至と夏至をはさんで、「古代人」は精霊(スピリット)をこの世にお迎えする祭りをおこなう。夏至をはさんだ夏のお祭り期間には、死霊のかたちをとった精霊の群れが、生きている者たちの世界を訪問してくる。死霊には、まともな死に方をして、しかも子孫たちから敬われつづけている先祖の霊もいれば、横死をとげたり幼い子供のうちに亡くなってしまった者たちの浮かばれない霊もいる。そういう多彩な死霊たちが大挙して戻ってくるのを、「古代人」は心をこめてお迎えしようとしたのである。
その夏の時期の精霊来訪の祭りは、のちのち仏教化されて、お盆の行事となったけれど、そこには「古代人」の思考の原型がはっきり残っている。お盆の行事としておこなわれる「盆踊り」を見てみよう。盆踊りの古いかたちを見てみると、村の人々が村の外からなにか目に見えない霊を迎え入れ、渦を巻きこむようにして踊り始める。生きている者と精霊がいっしょになって、円陣をつくってグルグルと村の広場で夜を徹して踊るのである。精霊とともにすごした幾夜かがすぎると、人々は円を解いて、そのまま村はずれまで列をなして行進していく。そして村はずれの川や埋葬地の近くで、精霊を切り離す儀式をおこなうのである。この期間、立派な祖霊もすこし危険なところのある亡霊も、大切な訪問客として、ていねいにもてなされる。夏の精霊の祭りでは、客人である霊はまったく人間の訪問客のもてなしと同じ考えで、迎え入れられるのだ。

冬至をはさんだ一、二か月は、その昔は霜月と呼ばれて、やはり精霊を迎える祭りがおこなわれた。しかし冬の期間におこなわれるこの祭りでは、夏の精霊迎えの祭りとはちがった考えが支配的だった、というのが折口信夫の考えである。この期間、精霊の増殖と霊力の蓄えがおこなわれるのである。折口信夫の考えでは、「冬(ふゆ)」ということばは、古代の日本語に直接つながっている。「ふゆ」は「ふえる」「ふやす」をあらわす古代語の生き残りなのである。
冬の期間に「古代人」は、狭い室のような場所にお籠りして、霊をふやすための儀礼をおこなっていた、だからその季節の名称は「ふゆ」なのである。人々がお籠りをしている場所に、さまざまなかたちをした精霊がつぎつぎに出現してくる。このとき、精霊は「鬼」のすがたをとることが多かった。

第二章 「まれびと」の発見

「あの世=生命の根源」への憧れ
「まれびと」の二つ目の意味は、「あの世」からの来訪者ということに関わっている。人間の知覚も思想も想像も及ばない、徹底的に異質な領域が「ある」ことを、「古代人」は知っていた。つまり、世界は生きている人間のつくっている「この世」だけでできているのではなく、すでに死者となった者やこれから生まれてくる生命の住処である「あの世」または「他界」もまた、世界を構成する重要な半分であることを、「古代人」たちは信じて疑わなかったのである。
この他界と現実の世界をつなぐ通路が発見されなければならない。目にも見えず、思考がとらえることもできない「あの世」から、なにか不思議な通路を通って「この世」に出現してくるものが、うまく表現されたとき、人は不幸な感覚から解放される。「この世」に生きている時間などはほんのわずかにすぎないけれど、それでも「この世」を包み込んでいる「あの世」があり、あらゆる生命が死ぬとそこに戻っていき、またいつかは新しい生命となって戻ってくることもあると知ることができれば、わたしたちはいつも満ち足りて落ち着いた人生を送ることができる。「あの世」と「この世」をつなぐ通路こそ、折口信夫の発見(再発見)した「まれびと」なのであった。

第三章 芸能史という宝物庫

「翁」という能のもっとも重要な演目は謎に満ちている。「翁」という演目は能がまだ「猿楽」と呼ばれていた頃から、もっとも秘密性の高いものだと考えられてきた。しかしなぜ「翁」のように単純きわまりない構成の芸が、それほどまでに神秘とされていたのか、折口信夫はその芸態が「あの世」からの精霊出現のさまを様式化してしめしたもでのあるからだ、と考えた。
「この世」の現実とはまったく違う構造をした「あの世」の時空との間に、つかの間の通路を開いて、そこからなにものかが出現し、また去っていき、通路は再び閉ざされる。その瞬間の出来事を表現したものが「翁」である。「古代人」は自分たちが健やかに生きていけるためには、ときどきこのような通路が開かれ、そこを伝って霊力が「この世」に流れ込んでこなければならないと、考えていた。「翁」という演目は、そういう古代的な儀礼のかたちをそっくり保存しているのである。
芸人はそのような精霊を演じているわけだから、とうぜん一瞬開かれた通路から流れ込んでくる「あの世」からの息吹に、触れていることになる。「あの世」には恐るべき力がみなぎっている。現実の世界ではかろうじて抑えられていた力が、死によって解放されると、その力は「あの世」に戻っていく。芸能者は、このように死と生命とに直に触れながら、ふたつの領域を行ったり来たりできる存在なのである。
芸能者は死者たちの息吹に直に触れている。それと同時に、芸能者は若々しく荒々しいみなぎりあふれるばかりの生命力にも素手で触れている。彼らの芸は、生と死が一体であることを表現しようとしている。別の言い方をすれば、芸能者自身が死霊であり荒々しい生命でもあるという矛盾をしょいこんでいる。だから、彼らはふつうの人たちとは違う、聖なる徴を負っている人々として、共同体の「外」からやってくる、「まれびと」としての性質を持つことになったのだ。
そのような「芸能者の原像」を「鬼」があざやかに表現している。「鬼」は共同体の「外」からやってきて、死の息吹を生者の世界に吹きかけ、そこに病や不幸をもたらすこともある。しかし、荒々しい霊力を全身から放ちながら出現してくる「鬼」の存在を間近に感じるとき、共同体の「中」で生きている人々は、自分たちの世界に若々しい力が吹き込まれ、病気や消耗から立ち直って、再び健康な霊力にみたされ、生命のよみがえりを得ることができたようにも感ずるのである。ふだんは「鬼」を恐れて近づけないでおこうとしている人々が、お祭りの興奮の中ではむしろ競って「鬼」に近づき、その荒々しい息吹に触れようとしている。このとき折口信夫は「古代人」のおこなった「野生の思考」の末裔である芸能者の運命を思った。

読書 赤坂 真理 『モテたい理由 男の受難・女の業』 講談社現代新書 

赤坂真理 著 『モテたい理由 男の受難・女の業』 を読む

第6章 男たちの受難

”もてたい理由”
もてたい理由

2006年春から秋にかけて「男」をめぐって面白い世論の流れの顛末を私は目にしていた。ワイドショー的な、というのが正しいだろうが、ワイドショーというものは、「世間の目」の表現にほかならない。その表現は脊髄反射的かつ無責任で、だからこそ「世間」を見るにはいいメディアであると私は思う。
そのころまでに、潜在的に日本社会にあったのは、「とても若い男子スターの不在」だった。
男子受難の時代だ。

そんな中で、それなりの人気者になりつつあったのがボクシングの亀田兄弟だった。が、それが亀田長兄当時19歳の判定疑惑を発端として一気に、バッシングの対象となる。
それまで面白がられていたすべてが、非難の対象となったのだった。

一人の少年が、白いシャツをまとい浄化剤として男子を「買い支える」ように現れた。世間は彼一色。甲子園の「ハンカチ王子」こと早稲田実業の斎藤佑樹投手、高校三年生。
斎藤佑樹は、ひとつには亀田一家の口直しであり、もうひとつは飽きられた韓流スター、ヨン様ことペ・ヨンジュンの後釜だった。
とにかく日本人は、久々に、年若い爽やかな男子スターを見てスカッとしたのだ。
そんな熱闘甲子園の感動の余韻さめやらぬ9月、ある朝。
秋篠宮家の第3子の男の子が生まれ、驚いたことに、すべてが丸く収まってしまった。
「女系天皇」ないし「女性女系」天皇の是非の議論も、皇室典範見直しの議論も、すごいことに、こわいことに、すべてに収まってしまった。
男が男であるだけであんなに祝福された瞬間は、近年まれというより、ない。
亀田兄弟のイメージが2006年一時期ダーティーになったあと、浄化剤として「甲子園のハンカチ王子」が男子株を買い支え、そのあと天皇家に男子が誕生して国を挙げての大団円、みたいなことが不思議と一連の流れにされていた。

要約すると ヤンキー -> 王子 -> 親王 となる。

年が若返るのと反比例して、男子の地位、ノーブルさ、無垢さ、そして期待が、上がっていき、ついには、「男子であれば無条件によい!」にまでなるのは面白い。それはそのまま、この国の人間が、どれほどに「男が評価されること」に潜在的に飢えていたかを示すようでもある。

終章 戦争とアメリカと私

敗戦を見ないことにした日本の戦後
戦争を経験した日本人たちが(たぶん沖縄の人は少しちがうだろう)、あんなに憎んでいたアメリカをころっと愛してしまった。
親や年長者たちは、それが説明できなくて、誰にも説明できない感情のくせに誰の中にもあって、そして沈黙したのではないか。すべての人が。いっせいに。どんな近しい人にもそのことだけは話さなかった。私の両親も、戦争中や戦後の話を互いにしたとは思えない。さわらないようにしている部分が心の中にあった。たぶん、恥じるように。
親たちには何か、隠していることがある。何か重いものを背負っている。涙のかたまりみたいなものを呑みこんでいる。
ある傷は「それ自体」の真実に向き合わない限り癒えないということだ。他のことで成功したところでダメなのだ。
これは日本の戦後の「成功」すべてに当てはまる。敗戦を見ないことにしたからこそ復興に驚異的な力を出せた。けれどそれで本当に心が救われたのか、本当に意味で幸せになれたのか。なれたのだったら、どうして今頃、幸せってなんだろうとか、人生の意味は何かとか考えるのか。
それらに答えるものは、何もなかったということではないのか。

私の親や祖父母は、大きな喪失について固く心を閉ざした。それを見えないように、他人や子世代に見せないように、ふるまった。

歴史に語られない部分があるなんてまるで日本史だった。中心に手つかずにおかれる場所があるなんて、私の心はまるで東京だった。
そして、他のことでがんばれば敗戦をなかったことにできるんじゃないかと思って実際にがんばりじっさいに成果をあげたところが、日本の戦後史そのものだった。

私は、戦争を内化して語らない親を見て育った。そして「植民地宗主国」で適応に失敗してしまい、戦争と敗戦を内化してしまった。身体が成長するときに摂ったものが決定的に血肉になてしまい、それを取り除くことができない。
戦争は、日本の中で語られないままあまりに当然の存在になってしまい、透明になった。それゆえに外に出すことができない。他人と考えを共有することもできないし、違いを比べ考察することもできない。私たちにとっての「アメリカ」もまたしかり。
それは日本でごくふつうの状況になってしまっているが、人間にとってかなり異常で苦しいことだ。何百万人もの命が失われその屍の上に繁栄を築き、それが公然の秘密となっていることは。

歴史の思考停止
私は、戦争のことを考えることも禁止という、戦争禁止原理主義のなかで育った。その状況は、今でも変わっていると思えない。

戦争を「絶対ダメ」と封じ手にきめたからこそ、いろいろなところに、ごく普ふつうに戦争が漏れ出しているとしか思えないのだ。学校はいまだに軍隊を模してできている。根強い人気のあるセーラー服はもともと男の水兵の制服だし、「気を付け」「休め」「前へ倣へ」などは、隊をまとめる号令だろう。戦前戦中の教練から「ささげ銃」を抜いただけだ。
戦後、「戦争ダメ、絶対」と言った割には、軍隊を模したいろいろなことはひとつも反省されなかった。

植民地の証
人が耐えうる限度を大きく超えてぎりぎりまで飢えた日本人は、占領軍に意外なほどに「優しくされた」。そうすると、昨日までの敵を、一気に猛烈に愛してしまう。反動なのだ。そのとき、自分たちのしてきたことを否定しなければまだプライドを保てるが、あまりに大きな衝撃は、前の価値観との相殺でしか生き残れない。だから自国のしたことを総否定し、自己を否定した。
母国と私の親や祖父母世代に起きたのはこういうことだったのではないかと私は推察する。
自己の否定。生命にとってこれほどつらいことがあろうか。
語られるべきは、何が起きたかではなく、本質ななんだったかという問題だと思う。でなければ、本質的に同じことは繰り返される。「戦争」をやらないだけで、そのかわり他のすべてに戦争が漏れ出す。軍隊式教育を今でも血肉にしもこませながら、私たちはもうひとつの極にある、アメリカを愛した。いくらアメリカ車よりヨーロッパ車がかっこいいと思っていても、美食やブランドはヨーロッパに限ると思っていても、戦後の日本人が、ヨーロッパに学ぼうとすることはほとんどない。今でも、学ばなければと強迫的に思い詰めているのはアメリカの価値であり、アメリカが広報した「夢の感じ」である。経済の底が上がった分、それは大衆に浸透した。そうでなければ、「早期教育」がその実ただの「英会話」だったり、米国籍は将来有利になるかもしれないから米国で出産しようとしたりそれを援助するビジネスがあったり、両親のどちらも英語を話さないような家の子が「国際人になるために」インターナショナルスクールに入れられたりということがあるわけがない。
自国文化よりあっちの文化のほうがよいと、親が思って子供を入れた時点で、子供はあっちの文化内の「二級市民」確定、なのに。そのうえ英語教育はオーラル(口語)偏重主義を年々強めている。
「外国語教育がオーラル中心なのは植民地の証」と言ったのは、内田 樹だが、賛同する。読み書き中心ならば、すぐにネイティブの教師より立派な作文をしたりする子が現れる。それは宗主国には都合がよくないことだ。しかし、口語至上主義である限り、「それは発音がちがう」とか「そういう言い方はしないんだな」とネイティブスピーカーであるというだけの人間が、優位に立てる。しかし、その植民地主義を、日本人は自ら好んで取り入れている。言語だけ出来たって、単にふつうのこととしてネイティブスピーカー社会の下層に入れるだけだ。
なまじ発音がネイティブ何というのは、何かミスコミュニケーションをしたとき、それが言葉の技術的なことかもしれない、と考えてもらえないということである。
「あなたは日本語のアクセントをなくしてはだめよ。でないと、あなたの特徴がなくなる。アメリカ人はあなたが英語を話すのも当然に思ってしまうからね。」
未だに、これより有効な異文化アドバイスを私は知らない。

極端に物質崇拝の果てに
日本人は極端な精神論から極端な物質崇拝になった。究極の物質は肉体で、ならば、人は死んではいけないということになった。命は可能な限り引き伸ばさなければいけないと決められた。死んだら何もない。
一方、若い世代においては、老いることが死ぬより恐ろしい。
古来、共同体で死を扱ってきたのは信仰や宗教である。が、戦争を経験した後の日本人はそれらにアレルギーになった。宗教は戦争に利用されたから。
戦争について考えることと、死や神を思うこと。
このふたつを封じられると、人間はかなり、苦しくなる。人間を動かす要素の大きなものをふたつ、封じられているからだ。唯一使える大きな要素は、「経済」だった。
「お金に色はない」と言ったのは、最盛期のホリエモンだ。
マネーという、最終的には紙でも金属でもなく数字の羅列にできてしまうもの、それは人間を支え駆動する力としては、最も「色がない」。いやな他人の手垢がついていたら洗えばいいだけの話。「色がついた」ものを忌み嫌った戦後の日本人としては、この上なく便利な崇拝物だった。だからそれに夢中になった。物質以外のものを信じなくなった。
戦後の日本人は「色のついたもの」「戦争に色をつけられたもの」を、ことごとく嫌ったのだから。

お金も本来、手段である、しかし、戦後日本では、目的になった。神ほどの崇拝物になったのだった。

読書 佐藤 優 『神学部とは何か -非キリスト教徒にとっての神学入門-』 新教出版社

佐藤 優 著 『神学部とは何か -非キリスト教徒にとっての神学入門-』 を読む

”神学部とは何か”
神学部とは何か

神学とは何か

神学がいかに「虚学」(見えない事柄を対象とする知的営為について、私が名づけた言葉)であるかよいうことを、次の2点から神学の性質を説明する。

  1. 「神学では論理的整合性が低い側が勝利する」ということ。
  2. 「神学論争は積み重ねられない」

神学の場合、過去の例から見ると、むしろ論理的整合性が高い方が負ける傾向が強い。そして議論に負けた側は異端という烙印を押されて、運が良い場合でも排除され、運が悪ければ皆殺しにされる。
勝った方は、自分たちにやましいところがあるので後ろめたい気持ちになり、「理論的にはこっちの方が弱かったのではないか。あれで勝ってしまってよかったのか」という気持ちになる。負けた方は、「政治的に弱いし人数はすくないけれども、自分たちの方が絶対正しかったという確信を持つ」。
神学論争には無茶苦茶な話がたくさんある。

官僚の世界もまた神学のあり方と似ていて、神学論争は官僚仕事をやる上で非常に役に立つ。官僚はまず最初に結論を決め、そしてあとはそこに向けた議論を組み立てていく。官僚の間で使われている業界用語に省庁間の合議(あいぎ)というものがある。これは役所の中の権限争いである。結局のところこの結論は、お互いの役所で最初から決まっているのだ。そのすでに決定している結論に向けて、どうやって理屈をきちんとつけていくのか、という性質だ。これはまさに神学論争(ディベート)と同じ構造である。ディベートは議論をして結論を出す試みではない。2つの反する結論があり、両者のそれに向けの討論過程が重要なのである。
この論争においては、真理を探究しているわけではない。これがディベートの本質だ。ディベートは決闘でありゲームである。従って、ディベートと、お互いに真摯に議論をしながら真理を求めていく論争は、全然違う。

学問はたいてい議論の積み重ねによって進歩する。しかし、神学論争の場合は積み重ねで議論がなされないことが多い。

キリスト教は、人々を依存させる「民衆のアヘン(カール・マルクス)」ではなく、自立させるための宗教なのだ。その基本的な考えは次の通りである。
人間は本来、神の似姿である。しかしこの世では、さまざまなものに依存し、囚われている。そこで神は、人間が本来の自由をとりもどすために、自らのひとり子を世に送った。しかもそのひとり子は、天上のすばらしい場所から、世の最も低い、悲惨な場所に送られた。その場所で、イエスと人格的なふれあいをもった人たちに何かが起きた。それが奇跡である。
ただ、イエスの教えは元来、譬のような文学的表現で伝えられていたけれども、いつしか教理という理論的な言語によって保存されるようになったので、われわれはイエスの信仰のリアリティを類比で捉えるしかないわけである。
伝統的なプロテスタント教会が、キリスト教系新宗教(原理主義系の教会や、モルモン教、統一教会など)に抱く違和感のの理由は、イエス・キリスト以外の救い主(モルモン教=ジョセフ・スミス、統一教会=文鮮明)が出てくることなのだ。これは、モーセの十戒の第一戒(「わたしのほかに、なにものも神としてはならない」)に反するということである。

カルヴァンと言えば、まずは予定説のことを思い浮かべるだろう。人間が救済されるか否かは、その人間の資質や功績に関係なく、あらかじめ神が予定しており、天上における神のノートに書かれているという思想である。
革命の思想を理解するためにも、カルヴァンは大きな意味を持ってくる。たとえば、ジュネーヴという都市国家には、プロテスタンティズム革命を世界に輸出する機能があった。その意味でレーニンのボルシェビズム(ロシア共産主義)もカルヴァン主義の亜流といっていい。

社会が弱体化し始めると、テロに対する期待感が生じる。そのような状況で、政治が国民の見解をまったく反映しておらず、経済の調子も悪いとなると、どの国でもテロリズムあるいはクーデターという回路によってものごとを解決しようという思想が生まれてくる。暴力によって体制を変えようとするテロリズムの動きが起きると、その次の瞬間、国家が暴力を行使し始める。国家の暴力を放置し続けると、国家は次第に暴走し始め、暴力によって社会全体が覆われるよううな状況がくるわけである。

国家とともに危険なのが貨幣である。貨幣は、商品と交換するための便宜から出てきた特殊な商品である。ところが、商品はつねに貨幣に交換できるというわけではないが、貨幣はつねに商品と交換できる。そうすると、「欲望が何でも実現できる」ということになる。貨幣は、商品交換を行う人間どうしの関係から生まれたにもかかわらず、何にでも交換できるたいへんな力をもった物神性を帯びるわけだ。
国家と貨幣は、われわれが一番きをつけてつきあわないといけないものである。なぜならば、それがあたかも神のように絶大な力があるように見えてしまうからである。われわれキリスト教徒は、神以外を神とすることはできない。それこそが偶像崇拝であり、モーセの第一戒に背くからである。

 

読書 『「知」の十字路』 明治学院大学 国際付属研究所 公開セミナー(3)

”知の十字路”
知の十字路

明治学院大学 国際学部付属研究所 公開セミナー(4)『「知」の十字路』河出書房新社 を読む

「歴史の尻尾を手繰り寄せる」 佐野眞一 x 原武史

近代の皇后の存在感
明治、大正、昭和、平成と四代の皇后を通してみると、非常に目を引くのは、貞明皇后(大正天皇の奥さん、昭和天皇の母親)、それから今の美智子皇后です。このふたりの存在感はやはり際立っている。

近代天皇制における天皇、皇后のあり方を平べったい言葉で言いますと、「夫婦共働き」ですよね。それが連綿と続いてきて、そのピークが現在だと思います。美智子さんは巨大な存在でしょう。明治から近代天皇制で重要人物を3人挙げろと言われたら、まず明治天皇、それから、悲劇やあの孤独感も含めて昭和天皇でしょう。そして3人目が、現天皇には申し訳ありませんけれども、美智子さんでしょうね。美智子さんは「神事をおろそかにしてはならない」という貞明皇后の教えを守っている訳ではないでしょうけれども、一心不乱に神事を行っている。以前、彼女の故郷の館林に美智子さんが表敬訪問にいらした際に会ったのですが、驚いたことに、彼女の眼差しが、ひとりひとりを的確に捉えているんです。少なくとも私は「見られたな」という意識を持ちました。ひとりひとりが「見られている」とい感じる眼差しです。それは単に眼差しの強さというつまらないことではなく、「ああ、この瞳の中に入っちゃったんだな」という意識を持ちました。よく知られているように、天皇・皇后は沖縄戦の終わった日、日本の敗戦、それから広島、長崎に原爆が投下された日の四日は、すべて休んでただ祈るわけですよね。それを率先しているのは、美智子皇后だと思います。
さて、平成論になると、次の天皇になる方のお妃問題に触れざるを得ない。そうするとやはり、近代天皇制は、そろそろ耐用年数が切れつつあるというのが私の認識です。近代天皇制は、最大の危機を迎えていると思います。
昭和天皇の次の代に結婚した美智子さんは、皇族ではなく庶民からでた方ですけれども、そういう非常にわかりやすく言えばシンデレラ・ストーリーのような形で、ちょうど日本が高度経済成長という波に乗っている時代に皇室にはいった。ところが、昭和天皇っていうのは良くも悪くもたいへん長生きをしてしまったため、現天皇の皇太子時代が非常に長かった。それは皇太子妃美智子さんの妃としての生活が長すぎたことで、矛盾がいっぺんに押し寄せてきているように感じるのです。

少なくとも日本人は、天皇制に代わる新しい制度を編み出すほど独創的な民族ではないと思っています。

美智子皇后は、危機的な状況になればなるほど、輝きを増していきます。それは今だけを見れば確かにいいことのように見えます。しかし、「次は、どうなるんだ」という見方がされるようになる。つまり、皇位の継承という点から長い目で見たときに、美智子さんの行動が皇室の危機を深化させていると思えてくる。

美智子さんというのは、もう出てこないであろうスーパースター、出来すぎの女性です。これは美智子さんの責任ではありません。

私は美智子さんのことを、ゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」という有名な絵を見るようだと感じてしまう。彼女は出来すぎますから、自分の息子まで食べている感じを受ける。これは天皇制にまつわる宿命です。凡庸では危機は乗り切れませんから困るわけです。

ただし、天皇制はというのは新しい時代になれば違う天皇制を編み出していかなければならない。昭和天皇は昭和天皇流の編みだし方を、現天皇と美智子さんは、祈りという形で行っている。では、次期天皇がライフワークとするものが無くなっている。象徴的にいえば、昭和天皇は稲の天皇だった。現天皇、皇后は、エコロジー、平べったい言葉で言えば「縁」というところに依っています。そういう大きな構想力の中のメタファーまで手をつけられると次のテーマ
がないと思ってしまう。本当に難しい局面にきています。

「なぜ学ばなければならないのか」 佐藤 優 x 原 武史

総合大学とはなにか
大学で学べる学問を簡単に挙げてみますと、文学、哲学、法学、政治学、工学、理学などがありますが、これらはすべて実学であり、現実のどこかに役立つものです。また、論理や作品の形で示すことができます。ヨーロッパでは、この実学だけしか学べべない大学は総合大学と言わず、Polytechnique(ポリテクニーク)やCollege(カッレジ)と言います。なぜなら、神学部がないからです。
ヨーロッパにおいて総合大学といわれる場合には必ず神学部があります。神学は、虚学です。数学の背景にも、哲学の前提にも、歴史学の前提にも神学はあるし、音楽や体育にも、それを基礎づける神学があるのです。神学とは表にある様々な学問の裏側についている学問と言えるでしょう。そして虚の物と実の物を合わせたものが総合知であり、それらを学べる大学を総合大学と呼ぶ考えなんです。

中世の大学は何年制だったと思いますか?大学に入学するのが。12歳から16歳くらいです。一般教養を11年間やった後、法学部と医学部と神学部に分かれます。修業期間がもっとも短いのが医学部で、専門課程がだいたい5,6年でした。法学部で8年から10年くらい。神学部は、約16年です。ですから、神学部出身者は、大学に27年間いるということになります。大学入試はなく、大学の先生の弟子になるんです。入学しての卒業率は、約5%です。95%が途中で退学してしまう。
この中世において、「博識に対抗する総合知」という考え方がありました。専門知識をいくら知っていても、今で言うところの「オタク」扱いしかされません。それに対して、知識の量はほどほどにしかなくても、その知識をどう扱えばほかの分野の知識と連動させることができ、人間が生きていく上で役にたつかを知っていることを、中世の人たちは総合知と言ったんです。

民族と国家
「民族ができる」ということは、一定の教育を受けた労働者を作ることと同じなんです。産業転換の構造に合った形で、どんな労働にも就ける人を作らねばならないという要請の中で、民族が作られていく。その民族の構成員はは、均質で平等です。そうなったときに、「敵のイメージ」が重要になってくる。
「チェコ人」ができるいときにはドイツ人が「敵のイメージ」です。「ポーランド人」ができるときはロシア人が。「アイルランド人」は、イギリス人が。「フランス人」は、イギリス人とドイツ人が。「ドイツ人」は、フランス人が。どうしてフランスとドイツはお互いに「敵のイメージ」になるのでしょう。それは、戦争を繰り返す中で、自分たちが負けたときにの記憶-「我々はこけにされた」「ひどい目に遭わされた」といった記憶を結びつけていって、「私たちをよくもひどいめに合わせたな」という負の連帯意識を持つようななるからです。民族はこうしてできあがっていく。

見えない「関係」を見抜く
今、中国では、負の連帯意識によって、中華帝国時代の「漢人」とは異なる「中国人」という近代的な民族が作られています。このとき、我々日本人が「敵のイメージ」にされてしまっているため、日本と中国は、国家という位相では、ぜったいに仲良くならないことを前提として、お互いに関係を組み立てないといけない。国民国家形成のプロセスにおいて、日本人は中国人を「敵のイメージ」にしませんでした。このような非対称性うぃわれわれの努力で崩すことはできません。
ところが、この「敵のイメージ」をつくる課程において、中国は、チベット、ウィグルとの間での民族問題という深刻な問題を抱えています。
民族自決権を行使して、チベットがが独立するという、ナショナリズムを煽れば中国自身にブーメランで返ってくる事柄です。

読書 塩野七生『海の都の物語』 中央公論社 

塩野七生 著 『海の都の物語』 を読む。

第二話 海へ

”海の都の物語”
海の都の物語

中世の地中海交易が扱った商品といえば、香料を中心とした奢侈品であると思っている人は多いであろう。たしかにこれらの品は、ヴェネツィア商人が商った、典型的な品ではあった。しかし、奢侈品は、絶対に必要な品ではない。そして商売というものは、買い手が絶対に必要とする品を売ることからはじまるものである。買い手に買いたい気持ちを起こさせるような品を売りつけるのは、その後にくる話だ。

海洋貿易時代になると、主要商品が奴隷と木材に代わる。いづれも、ヴェネツィア商人の得意先であるアフリカの回教徒たちが、ぜひとも欲しいと望む品
であった。
キリスト教によって、奴隷制度は完全に廃止されたわけではない。キリスト教徒を奴隷として売り買いすることは禁じられてはいたが、キリスト教徒からみて、異教徒や、また単に不信の徒とされた人々、つまり、いまだにキリスト教化されていない人々の場合は、認められていたのである。
カトリック教会がそれを正当化するためにあげた理由とは、肉体を束縛することは精神の救済に役立つ、というものであった。この理由によって奴隷として売り買いしてかまわない人々には、異教徒である回教徒はもちろんのこと、同じキリスト教徒でもカトリック教徒以外の人々まで含まれるわけで、ローマン・カトリックから異端とされていたギリシャ正教を信じるカトリック教徒も、この分類に入ることになるのである。しかし、最大の奴隷”資源”の産地は、いまだキリスト教化されていない地方であった。6世紀頃はアングロ・サクソン人が、9、10世紀には入ると東欧のスラブ民族が、奴隷市場で売られる主要な民族であった。

それにしても、中世の奴隷は、ヨーロッパからアフリカへ流れていたのである。

奴隷の買い手は、アフリカのサラセン人が主要な客であった。ハレムにも売られたが、回教徒の軍隊を補強するのに、その大部分が使われたのである。

奴隷と並ぶヴェネツィアの二大商品のもう一つは、木材であった。これまた上得意は、アフリカの回教徒である。地中海地方は、長い間の手入れの悪さのために、木材がひどく欠乏していた。一方、ヴェネツィアの背後には、多量の木材の供給地が控えている。ヴェネツィアが造船業の先進国になれたのは、近くに安くて質の良い木材の供給地を持っていたからだと言われるほどであった。

北アフリカの回教徒に奴隷と木材を売り、金や銀で支払いを受けたヴェネツィア商人は、その”外貨”を持ってコンスタンティノープルへ行く。そして、そこで、必要不可欠な品ではないが西ヨーロッパ人が最も欲しがる、奢侈品を買い求めるのである。香料とか布地とか、金銀の細工品から宝石も。これらを積んでコンスタンティノープルを発ち、ヴェネツィアへ戻るのが、ヴェネツィア商人の主な交易路であった。商品を持ってヴェネツィアに着けば、ヨーロッパ各地から集まった商人たちが待っていて、荷をほどく間も惜しいように、またたくまに売れていくのである。

ヴェネツィア人は、彼らの力の基盤は船であることを熟知していた。いかなるヴェネツィア人も、老朽船でないかぎり、外国人に船を売ることは禁じられていたし、ヴェネツィア人が船を購入する時はヴェネツィア国内で造られた船を買わねばならないと、法律によって決められていた。
材料は売っても、完成品は売らなかったのである。

第四話