読書 網野 善彦 『中世日本に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』 歴史新書 洋泉社 

網野 善彦 著『中世日本に何が起きたか 都市と宗教と「資本主義」』 を読む。

Ⅰ 境界
境界に生きる人びと 聖別から賎視へ

境界的な行為としての交易
物と物の交換、贈与互酬が繰り返されると、通常の状況では人と人との間は緊密に結びついていく。特に古代人にとって自分自身とその持ち物とがきわめて強く結びついている。だから物を交換することによって自分自身の一部を相手に渡し、相手自身の一部を自分にもらうことになるので、むしろ切り離しがたいきずなが、両者の間にできてしまうわけです。それでは交易が成り立ちえないことになります。とすれば、交易という形で、物自体の交換が行われるためには、やはり、ひとつの手続きが必要になる。その手続きが行われる場所が市庭(いちば)です。
市の立つ場所にはさまざまな特徴があります。たとえば大樹が立っている場所に市が立つ。また虹が立つとそこに市をたてなければならないという、日本だけでなく広く他の民族にも見出される習慣があります。そのほか河原、中洲、浜、坂、山の根など、特徴的な場所に市が立ちます。このような市の立つ場所はまさしく自然と人間社会との境界、神仏の世界と俗界の境で、神の支配下にあり、聖なるものに結びついた場であり、そこに入ったものは、人間でも物でも俗界の縁から切れて、聖会に属することになる。いわば一旦は神のものになるという特異な性格を持った場なのだ、勝俣さんは指摘しています。
私流にいえばこれは「無縁の場」ということになりますが、市庭はそういう場だから、はじめてあとぐされなく物を物として相互に交換することができまる。逆に言えば商品の交換は、そういう場所でなければできなかったことになります。いわば物を一旦神のものとして交換するわけですから、これは神を喜ばせる行為であったとも、勝俣さんは指摘をしておられます。
市という空間は、そのように特異な、境界的な空間であり、そこで行われる交易という行為そのものも、境界的な行為ということになります。交易は神仏との関わりにおいてはじめて行い得るわけですから、この交易を業とする人、市や道で活動する商工民、遍歴する商人、職人はやはり境界的な人びととして、神仏に関わりを持たざるをえなくなってくることになります。

「資本主義」の源流
かつて私が、「無縁」と表現したことについて、中沢新一さんが、これは「資本主義」ではないかといったことがありますが、そういわれれば、商業、金融、技術、そして貨幣も「無縁」ということになるので、確かにこれはやがて資本主義として発展していく諸活動、諸要素であります。
商工業者や金融業者は、貨幣流通の発展、活発化に伴って、その活動は著しく発展していきます。おのずと鎌倉後期ごろから新しく神人、供御人になろうとする人びとが急増してくるので、王朝はそれを懸命に統制しようとして、たびたび新制を出すのですが、それだけでなくて、仏教の方でも、禅僧・律僧をはじめ、上人、聖などといわれる人びとの活動も、単に宗教的な活動だけでなく、金融、商業、交通、技術、芸能にまで及ぶ広い範囲に及んで非常に活発になり、これがまた、鎌倉後期の大問題になってくる。いわば、神人、供御人の枠をやぶる動きが鎌倉後期から澎湃とおこってくるのです。非人に関わる「悪党」の動きもその一つにほかなりません。
その中で王朝側も、鎌倉幕府も、これを禁圧するだけでなく、新しい方式で統御しようと試みはじめます。
王朝側では、亀山、伏見、後宇多など、それぞれに努力していますが、最も積極的かつ大胆にこの動きを組織しようとしたのは後醍醐天皇であったと私は思います。後醍醐はすべての神人、つまり商工業者や金融業者などの職能民を天皇の直轄下に置こうとしました。全神人の供御人化を意図していたと思われます。これに対抗して鎌倉幕府も西国の神人交名を、きちんと注進させ、自らそれを掌握しようとしはじめているのです。
ところが、その方式がなかなか成功しないうちに、まさしく境界的な人びとである悪党・海賊・職能民や非人をふくむこれらの人びとの爆発的な動きの中で、まず鎌倉幕府が後醍醐によって倒され、その後醍醐も建武新政府も2、3年後に崩壊し、南北朝の動乱が60年にわたって続くということになっておくわけです。

神仏の権威の低落
この動乱は、やはり社会に決定的な転換をもたらしたと考えております。この動乱を境にして、天皇は権力をほとんど失い、その権威も大きく低落することは間違いありません。それとともに中世前期までの神仏の権威、南都北嶺や大きな神社の権威も、この動乱を境にその低落は著しいものになってくる。その実力の低下はおおい難いものがあるといってよいと思います。後醍醐天皇が実行しようとして延暦寺、興福寺等の抵抗で実施できなかった京都の酒屋に対する全面的課税を、南北朝の動乱後、足利義満は断行してこれを貫徹し得ています。

芸能民の中でも、一部は世阿弥のように寺社や幕府と関係を保ちながら、広く公衆を対象とした芸を磨き、社会的な地位を保った能役者のような場合もありましたが、なんといっても商工業者・金融業者のように富の力によって社会的地位を確保できた人びとと違って、呪術的な宗教民、芸能民、とくに遊女・傀儡(くぐつ)さらに非人のように、聖俗の境にいるとみられていた人びとの場合、この転換が賎視の方向に向かって大きな転換になっていったことも事実といわざるを得ません。かつての「聖別」がここで賎視の方向に向かっての差別になっていったことは間違いない。

 

 

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