佐藤 優 著 『神学部とは何か -非キリスト教徒にとっての神学入門-』 を読む

神学とは何か
神学がいかに「虚学」(見えない事柄を対象とする知的営為について、私が名づけた言葉)であるかよいうことを、次の2点から神学の性質を説明する。
- 「神学では論理的整合性が低い側が勝利する」ということ。
- 「神学論争は積み重ねられない」
神学の場合、過去の例から見ると、むしろ論理的整合性が高い方が負ける傾向が強い。そして議論に負けた側は異端という烙印を押されて、運が良い場合でも排除され、運が悪ければ皆殺しにされる。
勝った方は、自分たちにやましいところがあるので後ろめたい気持ちになり、「理論的にはこっちの方が弱かったのではないか。あれで勝ってしまってよかったのか」という気持ちになる。負けた方は、「政治的に弱いし人数はすくないけれども、自分たちの方が絶対正しかったという確信を持つ」。
神学論争には無茶苦茶な話がたくさんある。
官僚の世界もまた神学のあり方と似ていて、神学論争は官僚仕事をやる上で非常に役に立つ。官僚はまず最初に結論を決め、そしてあとはそこに向けた議論を組み立てていく。官僚の間で使われている業界用語に省庁間の合議(あいぎ)というものがある。これは役所の中の権限争いである。結局のところこの結論は、お互いの役所で最初から決まっているのだ。そのすでに決定している結論に向けて、どうやって理屈をきちんとつけていくのか、という性質だ。これはまさに神学論争(ディベート)と同じ構造である。ディベートは議論をして結論を出す試みではない。2つの反する結論があり、両者のそれに向けの討論過程が重要なのである。
この論争においては、真理を探究しているわけではない。これがディベートの本質だ。ディベートは決闘でありゲームである。従って、ディベートと、お互いに真摯に議論をしながら真理を求めていく論争は、全然違う。
学問はたいてい議論の積み重ねによって進歩する。しかし、神学論争の場合は積み重ねで議論がなされないことが多い。
キリスト教は、人々を依存させる「民衆のアヘン(カール・マルクス)」ではなく、自立させるための宗教なのだ。その基本的な考えは次の通りである。
人間は本来、神の似姿である。しかしこの世では、さまざまなものに依存し、囚われている。そこで神は、人間が本来の自由をとりもどすために、自らのひとり子を世に送った。しかもそのひとり子は、天上のすばらしい場所から、世の最も低い、悲惨な場所に送られた。その場所で、イエスと人格的なふれあいをもった人たちに何かが起きた。それが奇跡である。
ただ、イエスの教えは元来、譬のような文学的表現で伝えられていたけれども、いつしか教理という理論的な言語によって保存されるようになったので、われわれはイエスの信仰のリアリティを類比で捉えるしかないわけである。
伝統的なプロテスタント教会が、キリスト教系新宗教(原理主義系の教会や、モルモン教、統一教会など)に抱く違和感のの理由は、イエス・キリスト以外の救い主(モルモン教=ジョセフ・スミス、統一教会=文鮮明)が出てくることなのだ。これは、モーセの十戒の第一戒(「わたしのほかに、なにものも神としてはならない」)に反するということである。
カルヴァンと言えば、まずは予定説のことを思い浮かべるだろう。人間が救済されるか否かは、その人間の資質や功績に関係なく、あらかじめ神が予定しており、天上における神のノートに書かれているという思想である。
革命の思想を理解するためにも、カルヴァンは大きな意味を持ってくる。たとえば、ジュネーヴという都市国家には、プロテスタンティズム革命を世界に輸出する機能があった。その意味でレーニンのボルシェビズム(ロシア共産主義)もカルヴァン主義の亜流といっていい。
社会が弱体化し始めると、テロに対する期待感が生じる。そのような状況で、政治が国民の見解をまったく反映しておらず、経済の調子も悪いとなると、どの国でもテロリズムあるいはクーデターという回路によってものごとを解決しようという思想が生まれてくる。暴力によって体制を変えようとするテロリズムの動きが起きると、その次の瞬間、国家が暴力を行使し始める。国家の暴力を放置し続けると、国家は次第に暴走し始め、暴力によって社会全体が覆われるよううな状況がくるわけである。
国家とともに危険なのが貨幣である。貨幣は、商品と交換するための便宜から出てきた特殊な商品である。ところが、商品はつねに貨幣に交換できるというわけではないが、貨幣はつねに商品と交換できる。そうすると、「欲望が何でも実現できる」ということになる。貨幣は、商品交換を行う人間どうしの関係から生まれたにもかかわらず、何にでも交換できるたいへんな力をもった物神性を帯びるわけだ。
国家と貨幣は、われわれが一番きをつけてつきあわないといけないものである。なぜならば、それがあたかも神のように絶大な力があるように見えてしまうからである。われわれキリスト教徒は、神以外を神とすることはできない。それこそが偶像崇拝であり、モーセの第一戒に背くからである。
伝統的なプロテスタント教会が、キリスト教系新宗教に抱く違和感の理由は、イエス・キリスト以外の救い主(モルモン教=ジョセフ・スミス、統一教会=文鮮明)が出てくることなのだ。これは、モーセの十戒の第一戒(「わたしのほかに、なにものも神としてはならない」)に反するということである。←こういうことは知りませんでした。驚きです。