足利 健亮 著『地図から読む歴史』を読む。
第2章 平安京計画と四神の配置

鴨川
鴨川は少なくとも途中まで直線的に流れる「人工河川」です。
なぜ、鴨川は平安京の東京極に接して流れていないのか。
鴨川には堤防があり、京極との間には、田畑のみならず悲田院、藤原氏の崇親院、法成寺、法興院などが次第に進出することになる土地利用空間でした。東から鴨川、東堀川、西堀川、木嶋大路と御室川の四つが等間隔(α=588丈:約1750m)に配され、その中央に平安京が設けられたため、鴨川と東京極間に空地が生じたのである。
東西10里=1800丈の計画
問題は、鴨川・木嶋(このしま)大路間を3等分するαとは何かということです。3つの588丈を集計すると1764丈(=588x3)です。
1764(丈)=1800(丈)-18(丈)x2
まず初めに東西1800丈の範囲が設定されたとします。そこから、1800丈の100分の1の18丈ずつの幅の鴨川と木嶋大路・御室川帯がとられました。残る1764丈を3等分する線に2本の堀川を開いたと説明できます。
当時、1里は、180丈でした。1800丈とは10里にほかならなかったのです。なお、1丈は約3mで、18丈は、54mほどです。鴨川の幅は今60m内外ですから、18丈という計画寸法に無理がありません。
都市計画に乗った四神配置
和銅3年(710)に平城京がスタートしますが、その2年前の2月、「平城の地は四禽図に叶い、三山鎮をなす」所なので都を建てようとしている旨の詔が発せられます。都の地は、北に玄武(山)、南に朱雀(池沼)、東に青龍(川)、西に白虎(大道)があって、その外側に東・北・西と、山がめぐる地勢であることを理想とする考えが明示されています。四禽図に叶う、つまり四神相応と同じ意味です。この観念は、南に開いた豊かな土地にほかなりません。
こうした考え方の都作りが平安京に及んだ時には、四神も都市計画の中に完全に組み込まれてしまったようです。
まず、青龍は、問題なく鴨川です。対する西の神「白虎」は、鴨川と対称的な位置にある木嶋大路です。玄武が船岡山であることは確かといえます。玄武とは、亀と蛇がからみ合っている想像上の動物で、色は黒です。形も色も船岡山がピッタリです。船岡山頂が平安京正中線に乗り、かつ船岡山頂-北京極間が、大内裏南北距離(一条と二条の間)と等しいという都市計画上の「位置」も大変注目されます。最後に朱雀ですが、これはしばしば伏見の南に拡がっていた大池=巨椋池とされてきました。ところが、有名な東寺の南5km余りの所に「横大路朱雀」という小字があるのです。しかもその小字は、平安京正中線に乗り、羅城門からちょうど10里(5400m)というびっくりするような位置にあたります。京都市街南部の一番低い所で、人工池があったと想定してなにも不都合のない点です。私は、こここそ都市計画に乗せて作られた「朱雀」と見るのです。
第4章 古代の大道は直線であった
昭和40年代の後半、ほぼそのころに、わが国の古代幹線道路も、平野を通過する区間では、アッピア街道やフラミニア街道で代表される古代ローマの諸街道と同じように、測量に基づく直線の大道として建設されたのだという考えが芽生えます。
古代の主要道路には、原則として30里ごとに「駅家(うまや)」が設けられていました。古代の1里は、約530mですから、30里は約16kmになります。駅家は単に「駅」とも書かれますが、公務を帯びた人の通行や公用の情報伝達のために使う「駅馬(えきま)」が常備され、その世話をする「駅子(えきし)」が住み、駅長もいました。それゆえ、古代の主要道路は「駅路(やまやじ、えきろ)」とも呼ばれます。
第5章 条里-地を測り地を掌握するシステム
単位としての一町の大きさ
わが国の平野の景観、農村の景観を奈良時代から現代まで規定してきたといっても過言ではない「条里」という土地区画・土地制度を取り上げます。
一つ正方形は、の条里という制度の基本区画で、一辺の長さが一町、面積が一町歩でした。
一町に長さは60歩(ぶ)=60間ですから、一町歩は、3600歩になります。「歩」という単位は、3.3平方mを1坪という場合の坪のことですが、条里の制度では一町歩の正方形を坪と表現します。3.3平方mの単位面積と、その一辺の長さ=一間(約1.8m)は、共に「歩」と呼びます。
さて、長さ一町とは、約1.8mx60で約108~109mですから、面積一町は、約1.2ha弱となり、2万5000分の1図上では約4mm四方の正方形になるわけです。
条里システムと奈良盆地条里
面積一町の正方形の土地=坪は、縦横6町からなる大きな単位の正方形区画に編成されました。これが、「里」です。里を構成する36個の坪には、「一ノ坪」から「三十六ノ坪」まで2種類のいづれかの並び順=坪並方式で番号が付けられました。「並行式坪並」と「千鳥式(または連続式)坪並」と呼びます。「並行式」というのは、1から6へ、7から12へ、13から18への坪番号の進行方向が同じであることから名づけられたものです。
里が一列に並んだものを条と呼び、条および里にはそれぞれ序数を付すのが原則であった。それ故このシステムを「条里制」というのです。条里制における土地の最小単位は、一町を10等分した「一段(たん:反とも書く)」で、その等分の仕方も2種類ありました。条里制は、古代に、国が土地の所在を「何条何里何坪にある」というふうに記録し管理する必要から生まれたのですが、荘園領主もこのシステムを便利に活用し、中世の後期まで確実に存続しました。
条・里・坪による土地所在表示システムは早くにすたれましたが、それらはしばしば地名となって現地に残りました。
第17章 都市内道路名称の意味を解く
筋とはどういう道か
私はいつも、道路の名称は「家族名(族名)」と「個人名(個名)」から成り立っているといっています。大路・小路・街道(海道)・通り・町通り・筋・辻子(図子)・突抜・縄手(畷)・坂・越え・横丁・路地などが族名です。銀座通りとか御堂筋という場合の銀座や御堂が「個名」にあたります。
大阪では、南北の道が筋で、東西の道が『町通り』と呼びます。つまり、東西道路はどこも、家々が間口を開いて櫛比する賑やかなメインストリート=町通りだったのです。これに対して南北の道は、家々の横壁か塀が延々と続く、通過専用の横丁というわけです。こういう道であることが、筋という族名が付けられたゆえんです。
東西の道路は、伏見町通り、道修町通り、平野町通りなどですが、この場合、「伏見町」が個名で「町通り」が族名と捉えなければ本当のことがわからなくなります。「筋」は、「町通り」と対をなす概念なのです。「筋」に橋の名がついている例がおおいのは、筋が塀か壁に面した通過機能しかもたない道で、沿道に個性がなく、一般に個名を付けようがなかったため、道を出外れた所の堀に架かっている橋の名を借りて個名にすることがはやったからと、解釈できます。
町の変遷
大阪にはたくさんの筋がありましたが、京都には筋はほとんどありません。町が都市内の単位区画を意味する言葉として用いられ始めるのは意外に新しく、延暦三年(784)建都の長岡京からでした。都の条坊制の一つの坊を4x4=16の小区画に分けたその1単位は、平城京では、坪と呼ばれていましたが、平安京で町と呼ばれました。その大きさは、一辺40丈=120mの正方形で、大路・小路によって四面を画されていました。
京都における町の変遷は、事務職の一般役人や宮廷工房に勤める職人などは、一町を「四行八門」に割った小区画(または、さらに細分した区画)を与えられていた。32分の1町といっても30m x 15m=450平方mですから相当な広さです。
町は、四面が土塀で囲まれ、各面に一つ開かれた門を経て勤め先に往復する暮らしだったと考えられます。ところが、早くも9世紀から役所の縮小傾向が見え、本来官の工房で行われるはずの生産活動や生産物の交換が、職人の集住する町で行われるようになってきた。この傾向が、町の周りの土塀を壊し、家々が競って四辺の街路に直接面して商売を始めようとする流れを生み出した。家々が四面の街路にばらばらに顔を向けることになった状態は、まお一つの町としての形を保っている段階で「四面町」と呼びます。しかし、やがて各面の家々は、それぞれ別の町として独立し、正方形の一町が4つの町からなるものに変わっていきます。これが、「四丁町」です。次に四丁町のそれぞれが街路を挟む向かいどうしで町を形成することになります。それが「両側町」の姿です。京都では、両側町であることが普通のあり方となったのです。それは、あらゆる道が「町通り」になっていったということで、それ故、京都には「筋」がほとんどできなかったのです。
昨日は、いろいろ調べてくれて有難うございます。
午後以降にチャレンジです。
さまざまなジャンルの本を読んでますねえー。
頭の中、ごちゃごちゃにならないのが不思議です。
写真もアルバム代わりになってとてもいい感じですね!
さあ、方面案内看板検証です!