読書 『歴史と現在』 明治学院大学 国際学部付属研究所 公開セミナー(4)

明治学院大学 国際学部付属研究所 公開セミナー(4)
『歴史と現在』 河出書房新社 を読む

”歴史と現在”
歴史と現在

「演歌と夜汽車」 八代亜紀 x 原 武史

キャンペーンと鉄道
30日のうち28日は地方まわりですから、両手にトランクを抱えて、譜面を詰め、全国を移動し続けたんです。手はマメだらけで、毎晩夜行に乗って違う町へ行くわけです。あるとき、朝早い時間に、在来線-場所は忘れてしまったのですが、-に乗ったのですが、とにかく疲れていて、紐靴を履いていたのですが、「ああ、座席に足を乗せて眠ったら気持ちいいだろうなあ」と思っていたらそのまま寝ちゃったんです。そしてふっと気づいたら車内は超ラッシュ状態なんです。吊革に掴まってぎゅうぎゅう詰めになっていた。でも、私が足を投げ出して乗っているそのボックスだけ、誰も座っていなかったんです。私はすごく恥ずかしくて、ぱっと足を下ろして、一所懸命バッグを手元に寄せて小さくなりました。ただ、今だからわかるのが、おそらくそのときの周囲のみなさんは、泥のように眠っている、手をマメだらけにしてトランクを横に置いて眠っている若い女の子を、起こせといわなかったということです。暗黙のうちに「寝かせといてあげようよ」という雰囲気になってくれた、みなさんの気持ちですね。人間は、一所懸命やる若者に対して、ものすごく優しいということを学びました。

会場からの質問に答えて
「私は、大学生やキャンパスなどにすごく憧れているんです。その年代の私は、とにかく八代亜紀として過ごしていて、八代亜紀という責任があった。売れていようと売れていまいと、八代亜紀でなくてはならいけない。もちろん遅刻してはいけないし、反発も簡単にできない。だからこそ、そういう責任を持つようになる前の大学時代は、すごく貴重な4年間だと思います。特に、自分を知るチャンスですし、自分を知って、信じていくことが大事な時期です。いろいろな自分の姿を思い浮かべて、そのなかでも特にどれを信じられるかを描いてごらん。そして、それに向かっていけばいい。」

「文学と東京」 宮部みゆき x 原 武史

鉄道の存在が小説に与えるもの
英語版もいくつか出ているんですけれども、英語版の『火車』が出たときに、『ヘラルド・トリビューン』紙の記者の方がインタビューにきて下さったのですが、「私は東京と言っても非常に限られた場所にしか住んでいないので、私の書く東京は、ある種の偏った東京で、TOKYOではないかもしれない」と申し上げたんです。「ダウンタウンで、ブロンクスみたいなところ」と言ったら、「あなたがどこに住んでいて、どこに血脈があるかということにかかわらず、私たち英語圏の人間も、今の日本で何が起きているのかが知りたい。だから、日本の日常を生きている人たちが出てきて、事件に巻き込まれたり、あるいは事件を解決したりしていくような作品を読みたい。」と言われたんです。それに対して私が、「もっとスケールの大きい国際謀略ものとか、大国間の駆け引きなどが描かれている小説が日本にもたくさんありますから、そうゆうものもぜひ紹介してください」と言ったら、「それは国産で足りているのです。ただ、JAPAN NOWが欲しいんだ」とおっしゃるんですね。これはすごく意外なことでした。たとえば、「サラリーマンが会社帰りに居酒屋で一杯やる」といった描写を、アメリカの人たちが読みたいと思うとは思わなかったので。「生活人であるという点では、少なくともある程度の先進国ではみな同じハートを持っているけれども、ライフが違う。そのライフを見たいんだ」

「メディアと社会」 佐藤 卓己 x 伊東秀爾

メディアとは何か
1980年代になるまでメディアという言葉は広告業界のジャーゴン(業界内だけで通用する隠語)としては使われていたものの、一般の人たちが使う言葉ではありませんでした。ですから当時は新聞でメディアという言葉を使うときには、「報道などの媒体」「情報伝達媒体」といったように、カギ括弧つきで説明されていました。80年代後半になってバブル期に入るなかで初めて、メディアという言葉が日常用語として使われるようになりました。

私たちのテレビにまつわる思い込みと歴史的事実には大きなギャップがあるんです。一般の歴史書には「1953年に日本でテレビ放送が始まり、力道山のプロレスを見るために、街頭テレビに日本人は殺到した」と書いてあります。さらに1956年には、大宅壮一がテレビについて「一億総白痴化」、つまり、下品なテレビ番組を観ることで日本人が馬鹿になると言ったこともよく知られています。
しかし歴史的事実について見直してみると、街頭テレビで初めてテレビを見た人よりも小学校の教室でテレビに出会った人のほうが多いはずです。また、大宅壮一が1956年の日本テレビ系の『なんでもやりまショウ』を批判した当時、このテレビ番組を観られた地域は首都圏だけです。大宅壮一が批判した低俗番組は首都圏の「贅沢品」であって、とても一億人が観ていたわけではありません。

「フローなメディア」をいかに研究するか
テレビ研究は、史料収集という点で、メディア史研究のなかでも特に難しい面があります。

メディアは通常、フロー-流れ去って保存されない-メディアと、ストック-蓄積され頬保存される-のメディアとのふたつに分けられます。映画は当然ストックされるメディアで、名画座のようなところで繰り返し上映するのでフィルムは原則的に保存されます。しかし、テレビは、アーカイブがあるとは言っても、過去のものがほとんど残っていません。フィルム時代の60年代までよりもビデオ時代の70年代が特にそうです。というのもビデオで撮っても、放送が終われば、その上から被せて同じカセットを何度も使っていたからなのです。だから、皮肉なことですが、黄金時代の番組は、テレビ局にはほとんど保存されていません。テレビというのは、もともと保存や蓄積するということを考えていなかった「フローな媒体」だと言えます。
活字の世界でいえば、書籍が「ストックされるメディア」で、新聞や雑誌が「フローなメディア」でしょう。ストックされる本は、文化財的なものと評価されますが、それに対する新聞・雑誌などは、フローなメディアですから、消耗品として評価は低い。古本は売れますが、古新聞・古雑誌は通常ゴミです。同じことが映画とテレビの関係にも言えて、映画とテレビのどちらが高級かというと、まず映画でしょう。
「趣味はなんですか」と聞かれて「映画です」と答えるのは「読書です」と同じくらい恥ずかしくないでしょう。でも「趣味はテレビです」は「東スポです」「週刊大衆です」と答えるのと同じくらい恥ずかしい。

国会図書館ですら、『キング』は歯抜け状態で、まともなコレクションになっていない。大衆雑誌なんて集める必要がないと思われていたのでしょう。
おそらく50年後に皇室の研究をしようとしたら、『女性自身』は非常に重要な史料になるでしょうか、大学図書館で『女性自身』のバックナンバーをしっかり集めているところは東大以外にないでしょう。あるいは、昭和時代における女性の性意識を研究しようとしたら『微笑』などがとても役立つはずですが、果たして大学図書館でそれをストックしているところはあるでしょうか。あるいは、たとえばやくざの研究をするために『アサヒ芸能』を見たいといったときに、大学図書館の相互利用は絶望的ですね。

「文明の転換と資本主義」 中沢新一 x 高橋源一郎

人類の「普遍的能力」とグローバル資本主義の目指す「普遍」
人間の知的能力が、十数万年のあいだ、ほとんど変わらず同一の普遍構造を持っていることがわかったきます。どこの民族であろうが、どの言語を喋っていようが、どんなに違う言葉を喋っていようが、知的能力は同じです。そしてそこには普遍的な心の能力というものが潜んでいて、それが各母語や文化に展開するちう仕組みです。つまり、人間はある意味で普遍的な存在ということになるわけです。それが地域ごとに多様な文化、文明を作り出している。この普遍性と多様性がセットになっているのが人間であるという点が、最も重要な認識じゃないかと考えています。人類学では、レヴィ=ストロースが同様の認識をし、人類の文化は、普遍的構造の多様化として現れてくるが、それを生み出すおおもとは普遍的なものだと言いました。
いっぽう、現代の世界は、単一の文化、単一の社会システムに人類を作り替えようとしています。なぜなら、商品や労働力を迅速に流通うさせるためには、各言語や文化、パーソナリティの違いが大きな障壁になるからです。しかしこれが、人類の普遍に向かっていることを意味するかというと、そうではありません。今、地球上で均質化、単一化に展開しているものは、アングロ・サクソンのローカルな文化形態でしかありませんから、普遍ではない。
普遍的な能力は、私たちの脳のなかに宿っています。そして、それが多様性をそなえた文化であり言語となって展開してくるものであり、人類の普遍能力の豊かさを実証しているものです。けれども、もしもこれを人類が均質な文化であるとか、均質な経済システムであるとか、均質な生活様式、意見、世論、こういうものによって均質化したとき、私たちのなかで、普遍的な能力の展開は死んでしまうでしょう。
現代において最も重要な問題というのは、人間の世界が大きく二極分解しつつあるということだと思います。アングロ・サクソン型の資本主義を世界中に広め、労働力を自由に流動化させ、商品の自由化を推し進めていき、地球上を単一のシステムに変えようとしている。これがグローバル資本主義と呼ばれているものです。それは地域で育ってきた多様性を持った文化が最も邪魔になりますから、日本で言えば日本語や日本的なシステムに当たるものを破壊していく動きが展開されるつつあります。

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