赤坂真理 著 『モテたい理由 男の受難・女の業』 を読む
第6章 男たちの受難

2006年春から秋にかけて「男」をめぐって面白い世論の流れの顛末を私は目にしていた。ワイドショー的な、というのが正しいだろうが、ワイドショーというものは、「世間の目」の表現にほかならない。その表現は脊髄反射的かつ無責任で、だからこそ「世間」を見るにはいいメディアであると私は思う。
そのころまでに、潜在的に日本社会にあったのは、「とても若い男子スターの不在」だった。
男子受難の時代だ。
そんな中で、それなりの人気者になりつつあったのがボクシングの亀田兄弟だった。が、それが亀田長兄当時19歳の判定疑惑を発端として一気に、バッシングの対象となる。
それまで面白がられていたすべてが、非難の対象となったのだった。
一人の少年が、白いシャツをまとい浄化剤として男子を「買い支える」ように現れた。世間は彼一色。甲子園の「ハンカチ王子」こと早稲田実業の斎藤佑樹投手、高校三年生。
斎藤佑樹は、ひとつには亀田一家の口直しであり、もうひとつは飽きられた韓流スター、ヨン様ことペ・ヨンジュンの後釜だった。
とにかく日本人は、久々に、年若い爽やかな男子スターを見てスカッとしたのだ。
そんな熱闘甲子園の感動の余韻さめやらぬ9月、ある朝。
秋篠宮家の第3子の男の子が生まれ、驚いたことに、すべてが丸く収まってしまった。
「女系天皇」ないし「女性女系」天皇の是非の議論も、皇室典範見直しの議論も、すごいことに、こわいことに、すべてに収まってしまった。
男が男であるだけであんなに祝福された瞬間は、近年まれというより、ない。
亀田兄弟のイメージが2006年一時期ダーティーになったあと、浄化剤として「甲子園のハンカチ王子」が男子株を買い支え、そのあと天皇家に男子が誕生して国を挙げての大団円、みたいなことが不思議と一連の流れにされていた。
要約すると ヤンキー -> 王子 -> 親王 となる。
年が若返るのと反比例して、男子の地位、ノーブルさ、無垢さ、そして期待が、上がっていき、ついには、「男子であれば無条件によい!」にまでなるのは面白い。それはそのまま、この国の人間が、どれほどに「男が評価されること」に潜在的に飢えていたかを示すようでもある。
終章 戦争とアメリカと私
敗戦を見ないことにした日本の戦後
戦争を経験した日本人たちが(たぶん沖縄の人は少しちがうだろう)、あんなに憎んでいたアメリカをころっと愛してしまった。
親や年長者たちは、それが説明できなくて、誰にも説明できない感情のくせに誰の中にもあって、そして沈黙したのではないか。すべての人が。いっせいに。どんな近しい人にもそのことだけは話さなかった。私の両親も、戦争中や戦後の話を互いにしたとは思えない。さわらないようにしている部分が心の中にあった。たぶん、恥じるように。
親たちには何か、隠していることがある。何か重いものを背負っている。涙のかたまりみたいなものを呑みこんでいる。
ある傷は「それ自体」の真実に向き合わない限り癒えないということだ。他のことで成功したところでダメなのだ。
これは日本の戦後の「成功」すべてに当てはまる。敗戦を見ないことにしたからこそ復興に驚異的な力を出せた。けれどそれで本当に心が救われたのか、本当に意味で幸せになれたのか。なれたのだったら、どうして今頃、幸せってなんだろうとか、人生の意味は何かとか考えるのか。
それらに答えるものは、何もなかったということではないのか。
私の親や祖父母は、大きな喪失について固く心を閉ざした。それを見えないように、他人や子世代に見せないように、ふるまった。
歴史に語られない部分があるなんてまるで日本史だった。中心に手つかずにおかれる場所があるなんて、私の心はまるで東京だった。
そして、他のことでがんばれば敗戦をなかったことにできるんじゃないかと思って実際にがんばりじっさいに成果をあげたところが、日本の戦後史そのものだった。
私は、戦争を内化して語らない親を見て育った。そして「植民地宗主国」で適応に失敗してしまい、戦争と敗戦を内化してしまった。身体が成長するときに摂ったものが決定的に血肉になてしまい、それを取り除くことができない。
戦争は、日本の中で語られないままあまりに当然の存在になってしまい、透明になった。それゆえに外に出すことができない。他人と考えを共有することもできないし、違いを比べ考察することもできない。私たちにとっての「アメリカ」もまたしかり。
それは日本でごくふつうの状況になってしまっているが、人間にとってかなり異常で苦しいことだ。何百万人もの命が失われその屍の上に繁栄を築き、それが公然の秘密となっていることは。
歴史の思考停止
私は、戦争のことを考えることも禁止という、戦争禁止原理主義のなかで育った。その状況は、今でも変わっていると思えない。
戦争を「絶対ダメ」と封じ手にきめたからこそ、いろいろなところに、ごく普ふつうに戦争が漏れ出しているとしか思えないのだ。学校はいまだに軍隊を模してできている。根強い人気のあるセーラー服はもともと男の水兵の制服だし、「気を付け」「休め」「前へ倣へ」などは、隊をまとめる号令だろう。戦前戦中の教練から「ささげ銃」を抜いただけだ。
戦後、「戦争ダメ、絶対」と言った割には、軍隊を模したいろいろなことはひとつも反省されなかった。
植民地の証
人が耐えうる限度を大きく超えてぎりぎりまで飢えた日本人は、占領軍に意外なほどに「優しくされた」。そうすると、昨日までの敵を、一気に猛烈に愛してしまう。反動なのだ。そのとき、自分たちのしてきたことを否定しなければまだプライドを保てるが、あまりに大きな衝撃は、前の価値観との相殺でしか生き残れない。だから自国のしたことを総否定し、自己を否定した。
母国と私の親や祖父母世代に起きたのはこういうことだったのではないかと私は推察する。
自己の否定。生命にとってこれほどつらいことがあろうか。
語られるべきは、何が起きたかではなく、本質ななんだったかという問題だと思う。でなければ、本質的に同じことは繰り返される。「戦争」をやらないだけで、そのかわり他のすべてに戦争が漏れ出す。軍隊式教育を今でも血肉にしもこませながら、私たちはもうひとつの極にある、アメリカを愛した。いくらアメリカ車よりヨーロッパ車がかっこいいと思っていても、美食やブランドはヨーロッパに限ると思っていても、戦後の日本人が、ヨーロッパに学ぼうとすることはほとんどない。今でも、学ばなければと強迫的に思い詰めているのはアメリカの価値であり、アメリカが広報した「夢の感じ」である。経済の底が上がった分、それは大衆に浸透した。そうでなければ、「早期教育」がその実ただの「英会話」だったり、米国籍は将来有利になるかもしれないから米国で出産しようとしたりそれを援助するビジネスがあったり、両親のどちらも英語を話さないような家の子が「国際人になるために」インターナショナルスクールに入れられたりということがあるわけがない。
自国文化よりあっちの文化のほうがよいと、親が思って子供を入れた時点で、子供はあっちの文化内の「二級市民」確定、なのに。そのうえ英語教育はオーラル(口語)偏重主義を年々強めている。
「外国語教育がオーラル中心なのは植民地の証」と言ったのは、内田 樹だが、賛同する。読み書き中心ならば、すぐにネイティブの教師より立派な作文をしたりする子が現れる。それは宗主国には都合がよくないことだ。しかし、口語至上主義である限り、「それは発音がちがう」とか「そういう言い方はしないんだな」とネイティブスピーカーであるというだけの人間が、優位に立てる。しかし、その植民地主義を、日本人は自ら好んで取り入れている。言語だけ出来たって、単にふつうのこととしてネイティブスピーカー社会の下層に入れるだけだ。
なまじ発音がネイティブ何というのは、何かミスコミュニケーションをしたとき、それが言葉の技術的なことかもしれない、と考えてもらえないということである。
「あなたは日本語のアクセントをなくしてはだめよ。でないと、あなたの特徴がなくなる。アメリカ人はあなたが英語を話すのも当然に思ってしまうからね。」
未だに、これより有効な異文化アドバイスを私は知らない。
極端に物質崇拝の果てに
日本人は極端な精神論から極端な物質崇拝になった。究極の物質は肉体で、ならば、人は死んではいけないということになった。命は可能な限り引き伸ばさなければいけないと決められた。死んだら何もない。
一方、若い世代においては、老いることが死ぬより恐ろしい。
古来、共同体で死を扱ってきたのは信仰や宗教である。が、戦争を経験した後の日本人はそれらにアレルギーになった。宗教は戦争に利用されたから。
戦争について考えることと、死や神を思うこと。
このふたつを封じられると、人間はかなり、苦しくなる。人間を動かす要素の大きなものをふたつ、封じられているからだ。唯一使える大きな要素は、「経済」だった。
「お金に色はない」と言ったのは、最盛期のホリエモンだ。
マネーという、最終的には紙でも金属でもなく数字の羅列にできてしまうもの、それは人間を支え駆動する力としては、最も「色がない」。いやな他人の手垢がついていたら洗えばいいだけの話。「色がついた」ものを忌み嫌った戦後の日本人としては、この上なく便利な崇拝物だった。だからそれに夢中になった。物質以外のものを信じなくなった。
戦後の日本人は「色のついたもの」「戦争に色をつけられたもの」を、ことごとく嫌ったのだから。
お金も本来、手段である、しかし、戦後日本では、目的になった。神ほどの崇拝物になったのだった。