読書 阿部 謹也 『世間とは何か』 講談社現代新書

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”世間とは何か”
世間とは何か

序章 「世間」とは何か

世間の掟
世間には厳しい掟がある。それは特に葬祭への参加に示される。その背後には世間を構成する二つの原理がある。

一つは、長幼の序であり、もう一つは贈与・互酬の原理である。
贈与・互酬とは、対等な関係においては貰った物に対してはほぼ相当な物を贈り返すという原理である。

世間には会員名簿などはない。したがって誰が自分の世間に入っているかは必ずしもはっきりしないが、おおよその関係で解るのである。

世間を騒がせたことに謝罪する
「世間」の構造に関連して注目すべきことがある。
世間は社会ではなく、自分が加わっている比較的小さな人間関係の環なのである。自分は無罪であるが、自分が疑われたというだけで、自分が一員である環としての自分の世間の人々に迷惑がかかることを恐れて謝罪するのである。日本人は自分の名誉より世間の名誉の方を大切にしているのである。

世間がなくなってしまったら
日本人は長い間世間を基準として生きてきた。世間の内部では競争はできるだけ排除されている。したがってあまり有能とはいえない人でも、その世間の掟を守っている限りそこから排除されることはない。

私達は個人と個人の付き合いに慣れていない。日本の個人はすべて世間の中に位置を持っているから、初対面の人の場合では、いったいどういう世間に属しているかが問題になる。(出身地、出身校、会社、地位)
世間が違いすぎると親しくなる可能性は低いのである。

欧米人は日本人のことを権威主義的という。権威主義とは、自分以外の権威に依存して生きていることをいうのである。何らかの意見を聞かれたときに、自分の意見をきちんということが大切であるが、他の人の意見を聞きながら自分の意見をそれに合わせたりすることをも権威主義的と呼ばれるのである。

坊ちゃんと赤シャツ
世間の中での個人の位置はどのようなものなのかという問いが浮かぶ。
私達は明治以来長い間個性的に生きたいと望みながら、十分な形で個性がのばすことができなかった。そのことは、この百年の間ロングセラーとして読み続けられている夏目漱石の「坊ちゃん」を見ればすぐに解ることである。

「坊ちゃん」はイギリスでヨーロッパにおける個人の位置を見てしまった漱石が、わが国における個人の問題を学校という世間の中で描き出そうとした作品である。

赤シャツは、あるとき坊ちゃんにいう。「あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。所が学校と云うものは中々情実のあるもので、さう書生流に淡白には行かないですからね。」

坊ちゃんはそれに対して「今日只今に至る迄是でいいと固く信じて居る。考えて見ると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励して居る様に思ふ。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じて居るらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊ちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく方法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世の為にも当人の為にもなるだろう。」と考えている。

「坊ちゃん」は学校という世間を対象化しようとした作品であり、読者は坊ちゃんに肩入れしながら読んでいるが、その実皆自分が赤シャツの仲間であることを薄々感じ取っているのである。しかし世間に対する無力感のために、せめて作品の中で坊ちゃんが活躍するのを見て喝采を叫んで居るにすぎないのである。

非言語系の知
私達は学校教育の中で西欧の社会という言葉を学び、その言葉で文章を綴り、学問を論じてきた。しかし、文章の中で扱わないことを会話と行動においては常に意識してきた。
いわば世間は、「非言語系の知」の集積であって、いままで顕在化する必要がなかった。
明治10年(1877)にsocietyの訳語として「社会」という言葉が作られた。そして同17年頃にindividualの訳語として「個人」という言葉が定着した。それ以前にはわが国には「社会」「個人」という言葉がなく、現在のような意味の「社会」「個人」という概念もなかった。
それまでは、「世の中」「世」「世間」という言葉があり、時には現在の「社会」に近い意味で用いられることもあった。
欧米の社会という言葉は本来個人が作る社会を意味しており、個人が前提であった。欧米の意味で個人が生まれていないのに社会という言葉が通用するようになってから、少なくとも文章のうえではあたかも欧米流の社会があるかのような幻想が生まれたのである。
しかし、学者や新聞人を別にすれば、一般の人々は「社会」という言葉をあまり使わず、日常会話の世界では相変わらず「世間」という言葉を使い続けたのである。

日本の個人は、世間向きの顔や発言と自分の内面の想いを区別してふるまい、そのような関係の中で個人の外面と内面の双方が形成されているのである。いわば個人は、世間との関係の中で生まれているのである。世間は人間関係の世界である限りでかなり曖昧なものであり、その曖昧なものとの関係の中で自己を形成せざるをえない日本の個人は、欧米人からみると、曖昧な存在としてみえるのである。ここに絶対的な神との関係の中で自己を形成することからはじまったヨーロッパの個人との違いがある。

 

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