おでん 寺田屋 大阪駅前第1ビル B2F

2人で梅田の第一ビル地下2Fのおでん屋に行く。
とまとラーメンとうちごはんの選択で、とまとラーメン(第3ビル)へ行くはずが、おでん屋を思い出して、立ち寄る。

”看板”
看板

 

気になっていた「おでん」の寺田屋の看板。

 

 

 

”おでん寺田屋”
おでん寺田屋

 

奥が深いお店。表の席が空いたので入ってみたら、奥の席を案内された。
烏龍茶が無料サービス。

 

 

 

”どてやき”
どてやき

 

「どてやき」を最初に注文。
甘い味付けで、おいしい。

 

 

 

”おでん1皿目”
おでん1皿目

 

だいこん、ソーセージ、がんもどき、じゃこ天

 

 

 

”おでん2皿目”
おでん2皿目

 

たけのこ、ねぎま、たまねぎ

 

 

 

”おでん3皿目”
おでん3皿目

 

はんぺん、鰯のつみれ、厚揚げ、さといも

 

 

 

おねんのメニュー

読書 今尾 恵介 『地図で読む戦争の時代 描かれた日本描かれなかった日本』 白水社

今尾 恵介 『地図で読む戦争の時代 描かれた日本描かれなかった日本』 を読む

”地図で読む戦争の時代”
地図で読む戦争の時代

はじめに
地形図を作り始めたのは、どの国でもたいてい陸軍である。もちろん海図は海軍が作った。陸であれ海であれ、国を守るためには正確な地図が必要であることは当然である。しかし一方で、他国を侵略するにも、先立つものは地図であった。たとえば日本の地形図の作成は昭和十二年に日中戦争あたりから目に見えて「外地」の地図作りの比重が激増し、「内地」の修正作業はまったく滞ってしまった。中国内陸部からインド、東南アジアから南太平洋まで、兵站線の拡大の前触れのように、測量戦線も拡大していったのである。

戦時体制下では、安全保障上重要な地図の取り扱いは厳重を極めた。「軍事極秘」の記載のある地形図は軍港都市・呉にほど近い要塞地帯のもので、軍や政府関係のごく限られた人しか目にする機会はなかったはずである。このような地域の地形図はもちろん一般人が入手することは不可能で、カタログである地形図一覧図でもその部分だけ空白になっていた。裏面には識別番号が捺印されているこんな地形図を戦争中に他人に譲り渡すことなど考えられないが、60年以上の歳月を経て、おそらく関係者の遺族が古書市場に流通させたのだろう。それをたまたま私が入手した。

本書のテーマは、2つある。

  1. 地図で戦争の時代を読む
  2. 戦争の時代の地図を読む

前者は日本の近代化以降にたどってきた軌跡、すなわち他国を侵略して植民地を経営し、また空襲を受け、連合軍によって占領された時代を、地図を通して観察することである。戦前には植民地化された土地にしばしば日本風の地名が付けられたが、当然ながらその土地を測量したのは日本政府の機関であり、もちろん日本語の凡例のついた地形図上の印刷された。やがて戦争も日本の旗色が悪くなり、本土がたびたび空襲される事態を迎えるが、敗戦を迎えたこの国の地形図作成スタッフに、黒々と描かれていた密集市街地 を白く疎らな、焼け残った建物だけを表示した閑散たる絵柄に変貌させた。内心の無念はいかばかりだったろう。連合軍はその空き地の上に有無を言わさず自ら の施設を作る。

後者のテーマは、戦争の時代にどのように地図が情報統制され、作成者の意図でいかに歪められたか、地図そのものを観察するものである。公開するにふさわしくない場所は図上で広大な空白とし、さらに時代が進むと軍事施設を住宅地と偽って表現するなど虚構が描かれた。敵の目を欺くためとして、結果的に多くの国民の目を欺いたのである。それどころか、その偽りを見抜く術を知らなければ、後世に生きる現代人でさえ引き続き欺き続ける厄介な存在になった。

地図を通して、「戦争の時代」を俯瞰してみると、実にいろいろなものが見えてくる。

焼け跡に出現した飛行場

市街地->焼け跡->公園
「水の都」だった大阪は大幅な変貌を余儀なくされた。西横堀川の西側がいわゆる西船場であるが、現在ここには9.7ヘクタールに及ぶ広い靭公園がある。
この場所はかつて雑喉場(ざこば)と呼ばれ、一帯には江戸初期から塩干魚や鰹節、それに干鰯を扱う問屋が軒を連ねていた。干鰯とは文字通り干して固めたイワシであるが、食品ではなく肥料である。これを畑に入れると綿が良く育ち、全国に知られた河内木綿は北前船で全国に運ばれた。時代を経ると九十九里浜も干鰯の産地となった。九十九里浜名物の地引網も、元は紀州の漁師が伝えたのだという。いずれにせよ、イワシは「繊維工業の原料」だったのである。
その靭一帯は昭和20年(1945)の米軍機の空襲で灰燼に帰してしまったが、広大な焼け跡を連合軍が接収し、小型軍用機を発着させるための飛行場を造成した。しかし占領が終わった昭和27年(1952)6月に接収は解除となり、公園として生まれ変わることとなった。

靭公園には、次のように記された石碑がある。

「この公園の整地は飛行場あとを昭和二十七年度から昭和三○年度の失業対策事業により行われたたものである。 大阪市」

 

浪花そば 近鉄 河内小阪駅

 

”浪花そば”
浪花そば

司馬遼太郎記念館の帰りに 近鉄 小阪駅の北側の蕎麦屋「浪花そば」に入る。

大阪商業大学の学生がたくさん歩いている。

 

 

”ざるそば”
ざるそば

「ざるそば」(600円)を頼む。
田舎の蕎麦屋でこれといった特徴はない。
ネギが乾燥品でわさびも練りわさび。
そばの味はよくわからないが、駅そばとは違う。

 

読書 島本 慈子 『住宅喪失』 ちくま新書

島本 慈子 著 『住宅喪失』 を読む。

”住宅喪失”
住宅喪失

はじめに
私が前に住まいの問題を取材したのは、6年前(1998年)のことになる。それは阪神・淡路大震災によって「家が壊れて住宅ローンが残った」という人たちを追跡取材したルポで『倒壊-大震災で住宅ローンはどうなったか』として出版された。私がその取材を通じて感じたことは、戦後一貫して展開されてきた持ち家政策のゆがみである。個人が住宅ローンを組んで家を買うことは、それぞれの家族の幸せということを超えて、国家の重要な景気浮揚策として位置づけられ、そのことが個人に過大な重荷を背負わせていた。その矛盾を一瞬にしてあぶりだしたのが、阪神・淡路大震災だった。
それから私は労働問題に取り組み、『子会社は叫ぶ』『ルポ解雇』と続けて本を書いた。その取材を通して目の当たりにしたものは、日本の長期雇用が崩壊していくなまなましい実態である。
住宅と、労働と・・・・。この二つの異なる取材を通して、私は大きな疑問を抱くことになった。返済が長期にわたる住宅ローンは、長期にわたって安定した雇用が前提である。その長期雇用が破壊されるということは、つまり、日本の政治は「持ち家政策を捨てた」ということなのだろうか?
この疑問をとくために本書の取材をはじめ、そして私は、わずか6年で国の針路が極端に変わっているという事実に驚愕することになった。
あえて簡単にいおう。98年当時の日本は、「みんなが家を買うことで、国の景気をよくしましょう」という政策をとっていた。現在の日本は、雇用の流動化を進め、国民の間に貧富の差を拡大し、「家を買える人にはどんどん買ってもらい、買えない人には”家賃を払う存在”として経済に貢献してもらいましょう」という政策をとっている。
かつての持ち家政策が良かったとは言わない。しかし、少なくともそこに「弱者切り捨て」の発想はなかった。けれどいまは、恥じることなく公然と、弱いものを利用するだけ利用して強いものがさらに強くなるという「弱肉強食」の論理が語られる。
ただ、かつてもいまも共通していることはあり、それは何につけても経済が優先という思想である。国民の居住権は、この国の住宅政策において真摯に検討されたことがない。
労働においても住宅においても、日本の政策はアメリカうぃお手本とし、アメリカを追いかけている。
そのアメリカでは、1980年代にホームレスが急増し、人々に大きな衝撃を与えた。しかしその後、ホームレスは減ることなく高止まりの様相を見せ、最初はショックを受けた人々もいつしか慣れてしまい、90年代には「同情疲れ」といった空気が流れはじめたという。
日本も10年遅れでそうなるのではないかと、私は危惧している。

第1章 「人が住まいをうしなうとき」

人が住まいを失う理由
大阪弁護士会・木村達也弁護士はいう。「住宅ローンの破綻の理由は、確実に給与の減額、リストラです。残業代も含めた給与でローンを組んだけれど、サービス残業が増えて残業代が出ない。また、ボーナス時の支払いを見込んでいたのに、ボーナスが出ない。あるいは、リストラ解雇で失業してしまったというケース。自己破産にいたる人たちの借金は、住宅ローンだけではありません。みんな無理をしてでも家のローンだけは払う。家のローンを支払うために、クレジットやサラ金から借金して多重債務に陥る、というケースがほとんどです」

ローン破綻に陥ってマイホームを失う。失った人たちはどこへ行くのか?
木村達也弁護士は驚くべき事実を指摘する。
「家を手放すと賃貸へ移ることになるんですが、賃貸に入居するには権利金とか保証金とかがいるでしょう。50万とかへたすれば80万とか必要になったりする。その資金がない。ですから頭金が要らないような、あるいは少なくてすむような賃貸へ身を移す。
難しいのは資金面だけでなく、現実の問題として、破産者が賃貸住宅に入居することは厳しい、難しいです。家主はきちんと家賃を払ってもらいたいですから、破産した人は住まわせたくない。ですから仲介の不動産業者にチェックをいれさせる。破産すると氏名・住所が官報に載りますよね。名簿業者がそれをピックアップして名簿を作り、不動産業者に売っているのではないかと思います。つまり、家主にとっての不良顧客名簿が出回っているのではないか。」

第3章 住宅ローンの新たな戦略

人がマイホームを求める理由
マイホームを求める。その思いは高額所得者より庶民にとって切実なものがある。
どうしてマイホームがほしいのか。
私がかつて取材した20代の女性は、家を買った理由を「私にとって持ち家は精神的な保険でした」と言った。そして「保険」の意味をこう説明してくれた。「30年後の家賃がどれだけ高騰しているか、考えたら恐ろしいじゃないですか。私たちの世代は年金なんかほとんどもらえないっていうし、食べていけないで死んでいくのかっていうことが、すごくこわかった。でも、持ち家があれば追い出される心配はない。家賃も要らなくて、必要なのは食べていく経費だけ。それなら、わずかな年金でもやっていけるかなって」
貯金が数億円あるなら誰も老後の心配なんかしない。高額所得者でないから、居住の安定を切実に求める。また、最近は、雇用の流動化が進んでいるからこそ、せめて「誰からも出て行けと言われないマイホーム」を持ちたいという願いもあるだろう。

第4章 マンションを追われて

ローンが終われば借家人
民主党・井上和雄議員「400万戸マンションがある。そして10年後には、築30年以上を経過したマンションは約100万戸。そこでちょっと数十年昔に戻って、昭和40年代、30歳くらいのサラリーマンが、価格的には年収の5倍以上、そしてほとんどの方が30年から35年の住宅金融公庫のローンを組んで購入していると思うのです。そして、ローンの支払いにずっと追われながら、やっとローンを支払うことができた。
ところが建て替えなきゃいかぬ。またお金がかかる、ローンを組んで借金する。そうしたら、もう年金の中から死ぬまで返済を続けていかなきゃいけない。人生設計、もう一回、一からやり直し。これは、私はもう、人生の悲劇としかいえないと思うのです。」
さらに「人生設計をもう一回やり直しなんて無理だ」という人も出てくる。その人たちは、自分のマンションがなくなったら、どこへ住むのか?
それにしても「ローンが終われば借家人」の運命が待っているとは・・・・。

泣き叫んでも追い出すことができる
マンションの建て替え要件は五分の四の多数決だけとし、多数決をとるための前提条件はいらない。この区分所有法の改正は、2002年12月4日、国会の多数決で成立する。

こうして大震災の被災マンションで起きた裁判は、全国津々浦々のマンションへと波及していくことになった。

居住利益から経済利益へ
最高裁が出した決定の文書は簡素なものだった。事件の内容には一切踏み込んでおらず、ただ「上告する理由には当たらない」として、上告を門前払いにしている。

補修派住民の代理人の湖海信成弁護士は語る。
「最高裁がここまで引っ張った(2年9か月)のは、区分所有法の改正をにらんでいたと、それしか考えられないですね。一審も二審も不十分ですから、まともに判断しようとすると大変な時間がかかる。かといって早くしようとすると、一審二審をそのまま受けることになり、それにはやはり疑問もある。る。法律が多数決だけでいいと変われば、それは一審二審の判決と同じことだから、もういいのではないか、と。法律自体が変わったのだから、市民の代表である国会がそう決めたということは、市民が決めたということだから、国会の結論を最高裁が追認した、と。そういうことだろうと思います。
マンションというものは、経済的な側面を重視するのか、そこに住むという立場で見るのか、それによって判断が変わると思います。経済的に見れば多数の意思が支配するでしょうが、生活の場として考えるなら少数者も守ってあげないといけない。
また、以前の建て替えは、第62条で同一の使用目的のために建て替えると定められていたのですが、今回の改正でその制限も消えました。極端なことをいうと居住用マンションを商業ビルに建て替えることもできる。経済的な側面が重視されることになった表れでしょう。そういうことで本当にいいのかなと、僕は疑問に感じていますけれど」

六甲グランドパレス高羽の原告団のなかには高名な法学者がいた。民法学者の西原道雄さん(神戸大学名誉教授)である。
西原さんは裁判所へ提出した意見書をもとに、「過分の費用が争点だったこと」を丁寧に説明してくださった。
西原さんは意見書にこう書いている。
「建て替えは、全員一致の大原則に対する重大な例外であるから、復旧費用の過分性等の客観的要件を慎重に検討すべきことはいうまでもないが、同時に、多数 者の決定による少数者排除が不当な権利侵害をもたらさないように配慮する必要が大きい。特に、居住利益の保護は無視されるえきではない。建設資金等を負担 できないために建て替えに参加できない少数者の中に、高齢者や経済的弱者が多いことは、すでに各方面からしばしば指摘されている通りである。これら『弱 者』が現に居住している住居から事実上追い出され、従来と同程度の居住を確保できないような結果になる場合には、全員一致原則を破っての多数決による建物 の解体・建て替えは絶対に許されない。」

 

読書 名取洋之助 『写真の読み方』 岩波新書

名取 洋之助 著 『写真の読み方』を読む。

”写真の読みかた”
写真の読みかた

Ⅰ 写真の読みかた
個人の芸術から集団の芸術へ
写真は何枚かを使うことによって、一枚の写真としての弱点を克服し、物語ることができます。現実の流れから切ってしまうことができます。現実の束縛から逃れることができます。それが、新しく写真が獲得した方法であり、場なのです。小説を読み時に、映画を見る時に、その内容を体験しているように感じるのと同様に、写真でも、現実との縁を切ることが可能なのです。何回も見ることができるもの、時間が経っても、たんなる記録以上の価値を持つものが、こうして、つくれるのです。

誰でも写真は読める
発明されてから120年以上たって、写真を記号として使いこなすことが、やっと始まったばかりです。まだ、小学生の作文ていどの内容しか書くことはできませんし、それも教科書どおりで、春は花が咲いてきれいです、といったものですが、それでも、素材を見せるのでなく、素材の処理の手際を見せることが始まっています。
したがって、私たちが写真を見る場合にも、新しい見方が要求されます。写真はいわば、見るものから、読むものへと変わりつつあります。何枚かの写真が並べられ、それらが語っている物語が問題となりつつある今日、一枚一枚の写真の技を鑑賞することは、能において能面だけを鑑賞するのと同様、まったく別な立場からものを見ることになってしまったのです。美術品としての能面と、演劇の一つである能というものの見かたが、はっきりわかれたのです。この段階になれば、もう写真のよしあしがわからないなどと、心配する必要はありません。誰でもが能面の彫刻としての芸術性を云々する必要はないのです。映画を見に行った時のように、また手紙を読むような気持ちで、写真をみればよいのです。

Ⅲ 二つの実例
1.組写真の基礎的技術
写真は写しただけで完成したものではありません。とくに、コミュニケーションの手段として写真を使う場合、写しただけの写真は、未完成品です。説明のつけかた一つで、写真は逆にも読める。何枚かの写真を組んでレイアウトすれば、強調したり、省略したりできる。いわゆる写真編集の段階で、撮影時の意図とはかかわりなく、話をつくり、印象を変えることができるからです。
その観点から写真を見た時、どんなことが技術的に可能であるか。

キャプションが読みかたをきめる
写真をどう読むか。そのいとぐちをつけるのがキャプション(写真説明)です。したがって、同じ写真も説明のつけかたで、いろいろに読めます。好意的、否定的な立場に立って説明をつけることができ、どちらの立場の説明も嘘ではありません。

並べられる写真で違う意味を生む
2枚並べると、写真は1枚のときと、違う意味をもってきます。共通の要素が強調され、違いは目立たなくなります。したがって、同じ写真でも、となりに並べる写真によって、まったく違った役割を果たします。写真の並べかたで、どんな印象に変わるか。並べる人に意志によって同じ写真がどんなに違う働きをするか。同じ写真のとなりに、一方では好意的な、他は否定的な印象を与える写真を選び、キャプションも、その意図を強調します。

レイアウトが話をつくる
まったく同じ写真を使っても、写真の大小、並べる順序によって、異なった話にすることが可能です。好意的な方は、キャプションは、すべて明るい面を強調し、情緒的なものを大きく扱います。一方、見方によってはプリミティブに見えるものは、なるべく小さくして目立たないようにします。
一方、否定的な方は、情緒的な写真は小さく、ドライな写真を大きくします。写真の切り方にも留意して、強調するよう、余分な空間を小さくします。

 

 

 

グリル らんぷ亭 天神橋4丁目

"らんぷ亭"
らんぷ亭

天神橋筋商店街に新しくできたレストラン。

ハンバーグやフライ物の定食がメニュー。
カウンター席とテーブル席がある。
梅田の大阪第4ビルの欧風亭とそっくりの作り。

 

”Aランチ”
Aランチ

ハンバーグ、エビフライ、ヒレカツのセットメニューのA定食。(880円)

ゆっくり、よく噛んで食べる。
ハンバーグは、お肉の味がしておいしい。
ご飯は、半分残しました。

天神橋筋(天満)に寄ったら、いきましょう。

 

読書 中沢 新一 『古代から来た未来人 折口信夫』 ちくまプリマー新書

中沢新一 著 『古代から来た未来人 折口信夫』 を読む

”古代から来た未来人 折口信夫”
古代から来た未来人 折口信夫

第一章 「古代人」の心を知る

姿を変化する「タマ」
折口信夫の考え方では、「神」という考えは、超越的な存在について日本人がつくってきた概念のうちでも比較的新しい層に属する考え方で、もっと古い原初的な表現は「タマ」と呼ばれる霊力にかかわっていた。
「タマ」は「神」とちがって、増えたり減ったりする。「神」のような特定の性格づけも機能も持たない。明確な名前も持たないし、変幻自在でいっときなにかのかたちであらわれたかと思うと、すぐに別のかたちをしたものに変身していってしまう。「神々」はしばしば体系のなかに組織されて、国家のために役立つ存在になる。ところが「タマ」のほうは、なかなか体系につかまってしまうことがない。「タマ」はしばしば威力のある動物と結びつく。しかし「神」はそれよりもずっと人間化の度合いが強い。太陽の霊力をあらわしていた「タマ」的な存在が、アマテラスという女神になっていくと、自然との濃密な結びつきは希薄になって、いつのまにか政治権力と結びついてしまう。ところが、どんどんすがたを変えていったり、一定の居場所を持たなかったり、半分自然のなかに身をひたしている「タマ」は、人間化の度合いがずっと低いのである。
日本人が超越的なものや力について考えてきた歴史を考えてみると、「神」という考えは表面の層に属していて、その層の奥には「タマ」という考えがひそんでいる。漢字を使ってその「タマ」を「霊力」と表すとすれば、「神」よりも原初的な、おおもとの存在として「精霊」が浮かび上がってくる。この「精霊」は、「古代人」の思考法である「類化性能(アナロジー)」との相性がとてもいい。体系のなかでの名前や場所を持っている「神」は、宗教的なものごとに「別化性能」が働くときに生まれてくる考え方である。ところが、流動する液体のような「精霊」には、合理的な思考を生む「別化性能」はうまく働かない。別のものとくっついて新しい存在をつくりだしたり、ものごとの境界に潜り込んでいける「精霊」をとらえるには、芸術をもうみだすことのできた「類化性能」しか、有効には機能しないからである。

精霊ふゆる「ふゆ」
折口信夫は日本列島における「古代人」の、宗教性ゆたかな暮らしを、つぎのようなサイクルとして描き出した。「古代人」は月の満ち欠けと太陽の位置に、とても敏感に反応していた。月の満ち欠けは、一月ごとの周期的変化を作り出す。これにたいして太陽は昼と夜の長さを変化させながら、一年を単位とする大きな周期を描いていく。春分と秋分には昼と夜が同じ長さになる。冬至には昼の長さが一年でもっとも短くなり、夏至にはもっとも長くなる。多くの祭りが、昼と夜の長さがもっともアンバランスになる冬至と夏至に集中しておこなわれる。
この冬至と夏至をはさんで、「古代人」は精霊(スピリット)をこの世にお迎えする祭りをおこなう。夏至をはさんだ夏のお祭り期間には、死霊のかたちをとった精霊の群れが、生きている者たちの世界を訪問してくる。死霊には、まともな死に方をして、しかも子孫たちから敬われつづけている先祖の霊もいれば、横死をとげたり幼い子供のうちに亡くなってしまった者たちの浮かばれない霊もいる。そういう多彩な死霊たちが大挙して戻ってくるのを、「古代人」は心をこめてお迎えしようとしたのである。
その夏の時期の精霊来訪の祭りは、のちのち仏教化されて、お盆の行事となったけれど、そこには「古代人」の思考の原型がはっきり残っている。お盆の行事としておこなわれる「盆踊り」を見てみよう。盆踊りの古いかたちを見てみると、村の人々が村の外からなにか目に見えない霊を迎え入れ、渦を巻きこむようにして踊り始める。生きている者と精霊がいっしょになって、円陣をつくってグルグルと村の広場で夜を徹して踊るのである。精霊とともにすごした幾夜かがすぎると、人々は円を解いて、そのまま村はずれまで列をなして行進していく。そして村はずれの川や埋葬地の近くで、精霊を切り離す儀式をおこなうのである。この期間、立派な祖霊もすこし危険なところのある亡霊も、大切な訪問客として、ていねいにもてなされる。夏の精霊の祭りでは、客人である霊はまったく人間の訪問客のもてなしと同じ考えで、迎え入れられるのだ。

冬至をはさんだ一、二か月は、その昔は霜月と呼ばれて、やはり精霊を迎える祭りがおこなわれた。しかし冬の期間におこなわれるこの祭りでは、夏の精霊迎えの祭りとはちがった考えが支配的だった、というのが折口信夫の考えである。この期間、精霊の増殖と霊力の蓄えがおこなわれるのである。折口信夫の考えでは、「冬(ふゆ)」ということばは、古代の日本語に直接つながっている。「ふゆ」は「ふえる」「ふやす」をあらわす古代語の生き残りなのである。
冬の期間に「古代人」は、狭い室のような場所にお籠りして、霊をふやすための儀礼をおこなっていた、だからその季節の名称は「ふゆ」なのである。人々がお籠りをしている場所に、さまざまなかたちをした精霊がつぎつぎに出現してくる。このとき、精霊は「鬼」のすがたをとることが多かった。

第二章 「まれびと」の発見

「あの世=生命の根源」への憧れ
「まれびと」の二つ目の意味は、「あの世」からの来訪者ということに関わっている。人間の知覚も思想も想像も及ばない、徹底的に異質な領域が「ある」ことを、「古代人」は知っていた。つまり、世界は生きている人間のつくっている「この世」だけでできているのではなく、すでに死者となった者やこれから生まれてくる生命の住処である「あの世」または「他界」もまた、世界を構成する重要な半分であることを、「古代人」たちは信じて疑わなかったのである。
この他界と現実の世界をつなぐ通路が発見されなければならない。目にも見えず、思考がとらえることもできない「あの世」から、なにか不思議な通路を通って「この世」に出現してくるものが、うまく表現されたとき、人は不幸な感覚から解放される。「この世」に生きている時間などはほんのわずかにすぎないけれど、それでも「この世」を包み込んでいる「あの世」があり、あらゆる生命が死ぬとそこに戻っていき、またいつかは新しい生命となって戻ってくることもあると知ることができれば、わたしたちはいつも満ち足りて落ち着いた人生を送ることができる。「あの世」と「この世」をつなぐ通路こそ、折口信夫の発見(再発見)した「まれびと」なのであった。

第三章 芸能史という宝物庫

「翁」という能のもっとも重要な演目は謎に満ちている。「翁」という演目は能がまだ「猿楽」と呼ばれていた頃から、もっとも秘密性の高いものだと考えられてきた。しかしなぜ「翁」のように単純きわまりない構成の芸が、それほどまでに神秘とされていたのか、折口信夫はその芸態が「あの世」からの精霊出現のさまを様式化してしめしたもでのあるからだ、と考えた。
「この世」の現実とはまったく違う構造をした「あの世」の時空との間に、つかの間の通路を開いて、そこからなにものかが出現し、また去っていき、通路は再び閉ざされる。その瞬間の出来事を表現したものが「翁」である。「古代人」は自分たちが健やかに生きていけるためには、ときどきこのような通路が開かれ、そこを伝って霊力が「この世」に流れ込んでこなければならないと、考えていた。「翁」という演目は、そういう古代的な儀礼のかたちをそっくり保存しているのである。
芸人はそのような精霊を演じているわけだから、とうぜん一瞬開かれた通路から流れ込んでくる「あの世」からの息吹に、触れていることになる。「あの世」には恐るべき力がみなぎっている。現実の世界ではかろうじて抑えられていた力が、死によって解放されると、その力は「あの世」に戻っていく。芸能者は、このように死と生命とに直に触れながら、ふたつの領域を行ったり来たりできる存在なのである。
芸能者は死者たちの息吹に直に触れている。それと同時に、芸能者は若々しく荒々しいみなぎりあふれるばかりの生命力にも素手で触れている。彼らの芸は、生と死が一体であることを表現しようとしている。別の言い方をすれば、芸能者自身が死霊であり荒々しい生命でもあるという矛盾をしょいこんでいる。だから、彼らはふつうの人たちとは違う、聖なる徴を負っている人々として、共同体の「外」からやってくる、「まれびと」としての性質を持つことになったのだ。
そのような「芸能者の原像」を「鬼」があざやかに表現している。「鬼」は共同体の「外」からやってきて、死の息吹を生者の世界に吹きかけ、そこに病や不幸をもたらすこともある。しかし、荒々しい霊力を全身から放ちながら出現してくる「鬼」の存在を間近に感じるとき、共同体の「中」で生きている人々は、自分たちの世界に若々しい力が吹き込まれ、病気や消耗から立ち直って、再び健康な霊力にみたされ、生命のよみがえりを得ることができたようにも感ずるのである。ふだんは「鬼」を恐れて近づけないでおこうとしている人々が、お祭りの興奮の中ではむしろ競って「鬼」に近づき、その荒々しい息吹に触れようとしている。このとき折口信夫は「古代人」のおこなった「野生の思考」の末裔である芸能者の運命を思った。

読書 赤坂 真理 『モテたい理由 男の受難・女の業』 講談社現代新書 

赤坂真理 著 『モテたい理由 男の受難・女の業』 を読む

第6章 男たちの受難

”もてたい理由”
もてたい理由

2006年春から秋にかけて「男」をめぐって面白い世論の流れの顛末を私は目にしていた。ワイドショー的な、というのが正しいだろうが、ワイドショーというものは、「世間の目」の表現にほかならない。その表現は脊髄反射的かつ無責任で、だからこそ「世間」を見るにはいいメディアであると私は思う。
そのころまでに、潜在的に日本社会にあったのは、「とても若い男子スターの不在」だった。
男子受難の時代だ。

そんな中で、それなりの人気者になりつつあったのがボクシングの亀田兄弟だった。が、それが亀田長兄当時19歳の判定疑惑を発端として一気に、バッシングの対象となる。
それまで面白がられていたすべてが、非難の対象となったのだった。

一人の少年が、白いシャツをまとい浄化剤として男子を「買い支える」ように現れた。世間は彼一色。甲子園の「ハンカチ王子」こと早稲田実業の斎藤佑樹投手、高校三年生。
斎藤佑樹は、ひとつには亀田一家の口直しであり、もうひとつは飽きられた韓流スター、ヨン様ことペ・ヨンジュンの後釜だった。
とにかく日本人は、久々に、年若い爽やかな男子スターを見てスカッとしたのだ。
そんな熱闘甲子園の感動の余韻さめやらぬ9月、ある朝。
秋篠宮家の第3子の男の子が生まれ、驚いたことに、すべてが丸く収まってしまった。
「女系天皇」ないし「女性女系」天皇の是非の議論も、皇室典範見直しの議論も、すごいことに、こわいことに、すべてに収まってしまった。
男が男であるだけであんなに祝福された瞬間は、近年まれというより、ない。
亀田兄弟のイメージが2006年一時期ダーティーになったあと、浄化剤として「甲子園のハンカチ王子」が男子株を買い支え、そのあと天皇家に男子が誕生して国を挙げての大団円、みたいなことが不思議と一連の流れにされていた。

要約すると ヤンキー -> 王子 -> 親王 となる。

年が若返るのと反比例して、男子の地位、ノーブルさ、無垢さ、そして期待が、上がっていき、ついには、「男子であれば無条件によい!」にまでなるのは面白い。それはそのまま、この国の人間が、どれほどに「男が評価されること」に潜在的に飢えていたかを示すようでもある。

終章 戦争とアメリカと私

敗戦を見ないことにした日本の戦後
戦争を経験した日本人たちが(たぶん沖縄の人は少しちがうだろう)、あんなに憎んでいたアメリカをころっと愛してしまった。
親や年長者たちは、それが説明できなくて、誰にも説明できない感情のくせに誰の中にもあって、そして沈黙したのではないか。すべての人が。いっせいに。どんな近しい人にもそのことだけは話さなかった。私の両親も、戦争中や戦後の話を互いにしたとは思えない。さわらないようにしている部分が心の中にあった。たぶん、恥じるように。
親たちには何か、隠していることがある。何か重いものを背負っている。涙のかたまりみたいなものを呑みこんでいる。
ある傷は「それ自体」の真実に向き合わない限り癒えないということだ。他のことで成功したところでダメなのだ。
これは日本の戦後の「成功」すべてに当てはまる。敗戦を見ないことにしたからこそ復興に驚異的な力を出せた。けれどそれで本当に心が救われたのか、本当に意味で幸せになれたのか。なれたのだったら、どうして今頃、幸せってなんだろうとか、人生の意味は何かとか考えるのか。
それらに答えるものは、何もなかったということではないのか。

私の親や祖父母は、大きな喪失について固く心を閉ざした。それを見えないように、他人や子世代に見せないように、ふるまった。

歴史に語られない部分があるなんてまるで日本史だった。中心に手つかずにおかれる場所があるなんて、私の心はまるで東京だった。
そして、他のことでがんばれば敗戦をなかったことにできるんじゃないかと思って実際にがんばりじっさいに成果をあげたところが、日本の戦後史そのものだった。

私は、戦争を内化して語らない親を見て育った。そして「植民地宗主国」で適応に失敗してしまい、戦争と敗戦を内化してしまった。身体が成長するときに摂ったものが決定的に血肉になてしまい、それを取り除くことができない。
戦争は、日本の中で語られないままあまりに当然の存在になってしまい、透明になった。それゆえに外に出すことができない。他人と考えを共有することもできないし、違いを比べ考察することもできない。私たちにとっての「アメリカ」もまたしかり。
それは日本でごくふつうの状況になってしまっているが、人間にとってかなり異常で苦しいことだ。何百万人もの命が失われその屍の上に繁栄を築き、それが公然の秘密となっていることは。

歴史の思考停止
私は、戦争のことを考えることも禁止という、戦争禁止原理主義のなかで育った。その状況は、今でも変わっていると思えない。

戦争を「絶対ダメ」と封じ手にきめたからこそ、いろいろなところに、ごく普ふつうに戦争が漏れ出しているとしか思えないのだ。学校はいまだに軍隊を模してできている。根強い人気のあるセーラー服はもともと男の水兵の制服だし、「気を付け」「休め」「前へ倣へ」などは、隊をまとめる号令だろう。戦前戦中の教練から「ささげ銃」を抜いただけだ。
戦後、「戦争ダメ、絶対」と言った割には、軍隊を模したいろいろなことはひとつも反省されなかった。

植民地の証
人が耐えうる限度を大きく超えてぎりぎりまで飢えた日本人は、占領軍に意外なほどに「優しくされた」。そうすると、昨日までの敵を、一気に猛烈に愛してしまう。反動なのだ。そのとき、自分たちのしてきたことを否定しなければまだプライドを保てるが、あまりに大きな衝撃は、前の価値観との相殺でしか生き残れない。だから自国のしたことを総否定し、自己を否定した。
母国と私の親や祖父母世代に起きたのはこういうことだったのではないかと私は推察する。
自己の否定。生命にとってこれほどつらいことがあろうか。
語られるべきは、何が起きたかではなく、本質ななんだったかという問題だと思う。でなければ、本質的に同じことは繰り返される。「戦争」をやらないだけで、そのかわり他のすべてに戦争が漏れ出す。軍隊式教育を今でも血肉にしもこませながら、私たちはもうひとつの極にある、アメリカを愛した。いくらアメリカ車よりヨーロッパ車がかっこいいと思っていても、美食やブランドはヨーロッパに限ると思っていても、戦後の日本人が、ヨーロッパに学ぼうとすることはほとんどない。今でも、学ばなければと強迫的に思い詰めているのはアメリカの価値であり、アメリカが広報した「夢の感じ」である。経済の底が上がった分、それは大衆に浸透した。そうでなければ、「早期教育」がその実ただの「英会話」だったり、米国籍は将来有利になるかもしれないから米国で出産しようとしたりそれを援助するビジネスがあったり、両親のどちらも英語を話さないような家の子が「国際人になるために」インターナショナルスクールに入れられたりということがあるわけがない。
自国文化よりあっちの文化のほうがよいと、親が思って子供を入れた時点で、子供はあっちの文化内の「二級市民」確定、なのに。そのうえ英語教育はオーラル(口語)偏重主義を年々強めている。
「外国語教育がオーラル中心なのは植民地の証」と言ったのは、内田 樹だが、賛同する。読み書き中心ならば、すぐにネイティブの教師より立派な作文をしたりする子が現れる。それは宗主国には都合がよくないことだ。しかし、口語至上主義である限り、「それは発音がちがう」とか「そういう言い方はしないんだな」とネイティブスピーカーであるというだけの人間が、優位に立てる。しかし、その植民地主義を、日本人は自ら好んで取り入れている。言語だけ出来たって、単にふつうのこととしてネイティブスピーカー社会の下層に入れるだけだ。
なまじ発音がネイティブ何というのは、何かミスコミュニケーションをしたとき、それが言葉の技術的なことかもしれない、と考えてもらえないということである。
「あなたは日本語のアクセントをなくしてはだめよ。でないと、あなたの特徴がなくなる。アメリカ人はあなたが英語を話すのも当然に思ってしまうからね。」
未だに、これより有効な異文化アドバイスを私は知らない。

極端に物質崇拝の果てに
日本人は極端な精神論から極端な物質崇拝になった。究極の物質は肉体で、ならば、人は死んではいけないということになった。命は可能な限り引き伸ばさなければいけないと決められた。死んだら何もない。
一方、若い世代においては、老いることが死ぬより恐ろしい。
古来、共同体で死を扱ってきたのは信仰や宗教である。が、戦争を経験した後の日本人はそれらにアレルギーになった。宗教は戦争に利用されたから。
戦争について考えることと、死や神を思うこと。
このふたつを封じられると、人間はかなり、苦しくなる。人間を動かす要素の大きなものをふたつ、封じられているからだ。唯一使える大きな要素は、「経済」だった。
「お金に色はない」と言ったのは、最盛期のホリエモンだ。
マネーという、最終的には紙でも金属でもなく数字の羅列にできてしまうもの、それは人間を支え駆動する力としては、最も「色がない」。いやな他人の手垢がついていたら洗えばいいだけの話。「色がついた」ものを忌み嫌った戦後の日本人としては、この上なく便利な崇拝物だった。だからそれに夢中になった。物質以外のものを信じなくなった。
戦後の日本人は「色のついたもの」「戦争に色をつけられたもの」を、ことごとく嫌ったのだから。

お金も本来、手段である、しかし、戦後日本では、目的になった。神ほどの崇拝物になったのだった。