ラーメン 麺元素 池田町

”麺元素”
麺元素

天神橋筋のひとつ東側の通りのラーメン屋「麺元素」 でお昼。
奥に長い店内で、カウンター席とテーブルが2つ。
日曜日なので、どの店もいっぱい。

 

 

”中々”
”中々”

鶏と魚のスープの中間という中々(なかなか)を選ぶ。

 

 

 

 

”メニュー”
メニュー

メニューには、いろいろあったが、リピート率NO.1の中々にした。

  • 魚元素 塩
  • 魚元素 濃厚しょう油
  • 中々
  • 鶏元素しょう油

 

 

”天神橋筋商店街”
天神橋筋商店街

天神橋筋商店街の天満駅あたりは、天神祭りの提燈が掲げられて、祭り気分を演出。

 

 

 

 

”大間のまぐろ”
大間のまぐろ

駅前の回転すし屋では、「大間のまぐろ」の解体のイベントのためのまぐろ(55kg)が店先においてあった。

 

読書 森 茂暁 『建武政権 後醍醐天皇の時代』 講談社学術文庫

森 茂暁 著 『建武政権 後醍醐天皇の時代』 を読む。

”建武政権”
建武政権

第一章 鎌倉後期の公武交渉
得宗専制の末期症状
約150年間続いた鎌倉幕府の政治過程は、ふつう将軍独裁・執権政治・得宗専制の三段階をもって理解されている。このうち時間的に見て最も長い得宗専制は北条時頼のころに萌芽し、蒙古来襲を乗り切った子時宗の時期にいたって飛躍的な深化をみせ、その子貞時のとき最高潮に達したといわれている。
北条氏の家督を中心に一門、被官といった一部の者たちによって運営された得宗専制の強化は、当然のことながら一般御家人の間に根強い反発・抵抗を増幅させていった。貞時は幕府支配の基礎たる御家人制の疲弊に気付き、金融業者の犠牲のうえに永仁5年(1297)の徳政令を発布し、その再編に最大限の努力を傾けたが、ときすでに遅く、かえって経済界を混乱させるのみであった。
応長元年(1311)の貞時の病死は得宗の支配下に鬱積されたさまざまの矛盾をいっせいに表面化させた。確かな主導者を欠如した幕府内部の権力闘争、寺社統制の失策に伴う宗教界の敵対、悪党の跳梁、いづれも幕府の存立を根底から揺すぶった。逆に後醍醐天皇の側から見れば、倒幕のためのこよなき条件が整うことを意味したのである。

第二章 後醍醐天皇前期親政
1 倒幕運動の展開
後宇多院政の廃止
後宇多上皇が院中に院を聴いたのは二期十年にわたる。
後二条天皇の践祚とともに開始された第一次後宇多院政は、「乾元・嘉元の間(1302~06)、政理乱れず」といわれたように善政の誉れ高かった。その院政が晩節ととのわなくなったきっかけは、まず後宇多上皇の皇后 a遊義門院姈子(後深草皇女)が徳治2年(1307)7月、38歳で没したことである。このとき上皇は出家、大覚寺に入り、法諱を金剛性と称した。皇后の逝去に加えて翌年8月には将来を嘱望した後二条天皇が24歳の若さで早世したのである。たび重なる悲運に遭遇した法皇は政務への意欲を急速に喪失していった。同閏8月3日にはついに所領を第二子中務卿 尊治親王(のちの後醍醐天皇)に譲与してしまう。
尊治親王はこの年の9月19日に立太子、まさに政治舞台への第一歩を踏み出すわけであるが、、同親王登場の背後には父後宇多法皇の意図が大きく働いていた。
こうして世をはかなむ法皇は真言密教へのめり込んでゆく。徳治3年1月、東寺に幸し、前大僧正善助を大阿闍梨として秘密灌頂を受けた法皇は、同2月、西院御影堂において「六箇御願」を立て、東寺を平安初期の姿に復興する事業に、信仰心に裏打ちされた治天下としての全精力を傾けることになる。
法皇には嫡孫をもって皇統を継がしめるという意図があったため、すでに東宮には邦良親王が据えられていた。法皇にとって後醍醐天皇の即位は、邦良親王の成長を待つ間の暫定措置にすぎなかった。(当時の「一代の主」の言葉はそれを象徴する)。しかしこの法皇の宿願は、その崩御と共ともにほぼ反古となる。

室町院領
天皇家の経済は一に皇室領によって支えられた。皇室領荘園は全国に六、七百か所におよんだといれている。そのなかで代表的な大規模荘園群が長講堂領、八条院領、七条院領、室町院領などである。
持明院・大覚寺両統が熾烈な分裂劇を演じた理由の一つに両統の荘園支配に立脚した経済力の均衡性が指摘されている。持明院統は文永4年(1267)に宣陽門院(後白河皇女覲子)から後嵯峨院を経て、180か所におよぶといわれる長講堂領を伝領し、いっぽう大覚寺統は弘安6年(1283)、安嘉門院(後高倉皇女邦子)より百数十か所におよぶといわれる八条院領を手中に入れていたのである。この二つの荘園群はおのおの経済的意味での大黒柱であった。

室町院領といわれる荘園群は、承久の乱後これを獲得した後高倉院から、まず皇女式乾門院利子へ移譲され、さらに利子はこれを宝治元年(1247)、猶子にむかえた中書王宗尊に伝えようとしていた。
式乾門院は、建長3年(1251)に没するが、その2年前の建長元年、処分状をしたためておいた。それによって、件の荘園群は一期ののちは、宗尊に譲るという条件付きで姪の室町院に伝えられることとなった。この宗尊とは後嵯峨院の皇子で、鎌倉幕府の執権北条時頼の要請によって、建長4年(1251)、11歳ではじめての皇族将軍として東下した、かの宗尊親王のことである。
将軍宗尊はやがて得宗北条時宗との間に摩擦をひきおこし、文永3年(1266)7月、将軍の地位を子惟康王(3歳)に譲り、15年間におよぶ鎌倉生活を終え帰京することになる。問題の荘園群は予定通り宗尊に移譲されるかにみえた。ところが、当の宗尊は文永11年(1274)、33歳で没したのである。このため、せっかくの式乾門院の遺志は実現されぬまま消滅した。一期分としてこれを預かった室町院も正安2年(1300)5月、73歳で没したが、彼女がこの荘園群に対する措置をまったくとらなかったことが、紛争の種をまくことになった。のちに争奪の対象となるこの荘園群を室町院領という。
正安3年1月、後二条天皇の践祚に伴い、父後宇多上皇の院政が開始される。室町院領はごく自然のなりゆきとして宗尊の娘瑞子(土御門姫君)に帰した。ところが翌年、瑞子は准三后に列せられ、永嘉門院という院号をたまわり、後宇多上皇の猶子となる。この措置は女院の伝領する室町院領を目当てにした策略だと考えられている。むろん、持明院側は強硬に異議を申し立てた。そして結局、幕府の調停によって正安4年8月、室町院領は両統に折半された。このとき大覚寺統は二十余カ国にわたる53荘郷を獲得した。
室町院領をめぐる大覚寺側の攻撃は、文保の和談をたてに花園天皇を退位させて登場する後醍醐天皇の治世となって以降、再燃する。
両統の争いは持明院側から関東に愁訴された。このとき幕府が正安4年の折半決定を支持したため、天皇自身これ以上の介入を断念せざるを得なかった。

無礼講
正中の謀議は無礼講(あるいは破仏講)と称された乱痴気パーティーのなかで準備された。

およそ近日或る人云く、(日野)資朝、俊基等結衆会合し乱遊す。或いは衣冠を着せず、ほとんど裸形にして、飲茶の会これあり。これ達士の風を学ぶか。(中略)この衆数輩あり。世にこれを無礼講の衆と称すと云々。(花園天皇宸記)

正中の変
元亨4年(正中元)9月23日の北野祭を期したクーデター計画の概要は次のようである。北野祭では例年喧嘩がつきもので、その鎮定には六波羅探題の武士が出動する。このすきをとらえて北方探題 北条範貞を誅殺する。南都の衆徒は交通の要衝、宇治と勢多を固める。これら一連の指揮は資朝・俊基が行い、近国武士を多く味方に引き入れる。
しかし、この企ては一味同心したはずの土岐頼員の密告によって水泡に帰してしまう。頼員は同族の多治見国長を通して、資朝の奉じた後醍醐天皇の綸旨に接したのであったが、ことが成就しそうになく、関東の恩にも背くわけにはいかないので、妻の父である六波羅奉行人斎藤俊行にいっさいをばらしてしまったのである。
後醍醐天皇はこの事件との係累を否定した。事前には「関東執政しかるべからず、また運すでに衰ふるに似たり。朝威はなはだ盛んなり。あに敵すべけんや。よって誅さるべし」と語気強く倒幕意志をあらわにしていた天皇が、一転して「主上すこぶる迷惑し給う」と態度を変えたのである。

洛中の支配
荘園制の体制的発展が「王侯の宿営地」としての古代都市京都を政治・商業の中心都市=中世都市へと転換させたのは平安時代の後期院政期とみなされている。商品流通・貨幣経済の中心的地位を獲得し、公家をはじめ寺社権門を集住させた京都を王土思想をもとに掌握することは、後醍醐親政にとって喫緊の大問題であったと言える。
後醍醐天皇は親政開始と同時に、きわめて厳しい専制的姿勢でこの課題(洛中の土地を人の支配)に着手した。元亨2年(1322)に発せられた神人公事停止令・洛中酒鑪役賦課令は親政全般を貫く基本法令として注目される。
前者は洛中を中心に集住する寺社権門に属して、幅広い商業活動をおこなってきた神人の本所に対する諸公事を免除するというもの、後者はこれまた諸自社の神人として交易にたずさわっていた洛中の酒屋を、内廷経済の基盤として再編しようとしたものである。
この二法令の眼目は洛中神人に対する寺社権門の本所支配権を断ち切り、彼らを天皇の供御人として編成することにあった。
以上の神人に焦点をあてた施策が「人」に対する支配とみれば、いまいっぽうの「土地」に対するそれは地口銭の賦課に求められる。
地口銭とは朝廷・幕府などの公権力が、洛中の商工業者に対し地口、つまり道路に面した部分の長さに準拠して尺別に賦課した臨時課税である。この課税は商業都市としての洛中の特質にもとずくものである。

第三章 建武政権の成立と展開
2 新政の諸相

新政の理念
元弘3年6月5日、二条富小路内裏に還幸した後醍醐天皇は「自立登極」し、重祚の礼におよばなかった。2年前皇居から脱出した天皇にとって以降の幽囚の日々はあくまでも遷幸にすぎなかったのである。偽朝たる光厳朝下の任官・叙位は停廃されねばならず、もとのメンバーが次々と復官した。
帰京後、天皇がみせた政務に対する意欲にはすさまじいものがある。『梅松論』にみえる「古の興廃を改て、今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」という一文は新政の基本理念を端的に表現している。新しい政治が「延喜・天暦のむかしに立帰」ったと描かれるのもいわれなきことではない。後醍醐天皇の新政府の真面目は、徹底的な天皇親政のしくみを採用したことにある。このため院政はしかれず、摂関・太政大臣もおかれなかった。
後醍醐天皇は政務を担当するにあたり、まず記録所、ついで恩賞方・雑訴決断所などの官衙を開設し、親政体制を支える機構をととのえる。
天皇に課された最大の難問は、公武両社会をいかに統一的に支配するかであった。官制の特質も究極的にはここに帰着する。

信州そば 御岳さん 綱敷神社 

”綱敷神社横”
綱敷神社前

気になっていた おそば屋さん で晩ごはん。
阪急東通り商店街を抜けて、すぐ北の綱敷神社前の「そば処 御岳さん」

 

 

 

”信州そば 御岳さん”
信州そば 御岳さん

昔ながらの蕎麦屋さんという店構え。
中は、結構広くて、4人テーブルや2人テーブルとカウンター席がある。

お客さんも途切れずに入ってくる。常連さんが多い店のよう。

 

 

”冷したぬき”
冷したぬき

東京にいた頃、夏場よく食べていた
「冷したぬき」を注文した。

きゅうりとタコの酢の物もついてきた。蕎麦湯も二合とっくりサイズで十分。これで、500円でとても利用しやすい値段。

今度、一緒に行こう。

 

 

ごっつあん 中崎町

淡路の松岡医院に薬をもらいに行ったので、いつもより時間が遅くなりました。お薬は28日分出ましたが、血液検査で数値がよくなっているかを調べることになりました。

洗濯後、乾燥が終わるまでの間に喫茶店のモーニングでなく、 お昼ごはんです。

”ごっつあん”
ごっつあん

店の外構えはあまりきれいではありません。
お店の人がサッカーファンらしく、試合中継をテレビで流しています。店内は、Jリーグでいっぱい。おばちゃんが2人で切り盛りしています。
近所で働いている人たちがお昼に食べにくる店です。

 

 

”豚しゃぶ定食+五穀米”
豚しゃぶ定食+五穀米

豚しゃぶ定食(650円)を頼む。
ご飯は、五穀米 と 白ごはんを選べます。

しゃぶしゃぶは、豚肉の湯通しにボイルキャベツ+ボイルもやしを和えたような料理。
ゆでたものが皿に盛って出てきた感じ、ポン酢出汁で食べる。

五穀米ごはんに なすと小エビの煮物(これは、大好き) ときゅうりの漬物、お味噌汁がつく。

先客2名が頼んでいたので頼んだけれど、さっぱり味で、健康食のよう。

しゃぶしゃぶ NEW KOBE 西梅田

大東からJR東西線で北新地まで戻ってきた。

"newKOBE"
new KOBE

西梅田でランチにする。
しゃぶしゃぶをおいしそうに食べている人が目に入る。

しゃぶしゃぶ new KOBE に入る。

 

 

”しゃぶしゃぶランチ”
ランチ しゃぶしゃぶ

ランチの しゃぶしゃぶ。
ポン酢出汁にネギをいれて、あつあつを食べました。目の前でスライスしたお肉で、おいしかった。
16:00までランチをやっているので、機会があったら行きましょう。

 

坂井珈琲 天神橋店

南森町の近くの天神橋筋の喫茶店 坂井珈琲 でモーニング。
大東直行の日だが、前日の大雨でJR東西線が運休しており、8:30から運転再開のアナウンス。

”坂井珈琲”
坂井珈琲

新しくできた喫茶店に入ってみる。
モーニングセット 380円。

 

 

 

 

”店内”
店内

最初のお客でした。
奥に深いお店でたくさんのテーブルがあります。

 

 

 

”モーニング”
モーニング

モーニングセット(380円)
あっさり味のコーヒー。

 

 

イタリア食堂 スカルピーノ

中崎町のスパゲッティ屋さん「倶蘇蛇麗」に行こうしたけれど、臨時休業。
商店街を進んで、イタリヤ食堂で二人で晩ごはん。

”前菜”
前菜

前菜は、きのこのソテー。

 

 

 

 

”ピザ”
ピザ

バケットとどちらにしようかを迷った末、ピザにしました。ちょっと小さなサイズのピザだった。

 

 

 

”まぐろのカルパッチョ”
まぐろのカルパッチョ

まぐろのカルパッチョ。
サーモンでもいいのかも。

 

 

 

 

”スパゲッティ(あさり味)”
スパゲッティ(あさり味)

あさりとツナのスパゲッティ。塩味がきいておいしかった。

 

 

 

 

”スパゲッティ(トマト味)”
スパゲッティ(トマト味)

トマト味のスパゲッティ。マカロニと同じ、中が空いている麺にしてみた。

 

 

天一 伊勢丹大阪 地下2F

”天一”
伊勢丹大阪 地下2F 天一

台風4号が接近しているので、会社を早く退社する。

JR大阪のそばの伊勢丹の地下2Fで晩ご飯をカウンターで食べる。

 

 

 

”天丼と赤だし”
天丼と赤だし

天丼(840円)と赤だし(210円)。
えび2尾、いか、なす、ししとう の天ぷらが載っている。ご飯には甘いたれがかかっていて、おいしくいただきました。

ご馳走様でした。

 

読書 勝俣 鎮夫 『一揆』 岩波新書

勝俣 鎮夫 著 『一揆』 を読む

"一揆”
一揆

一 一揆とはなにか
1 一味同心
多分の儀
中世寺院の集会のありかたは、原始仏教の議決方法「多人語毘尼」に由来する多数決制においてもうかがえる。興福寺、東大寺、金剛峰寺、東寺などの中世を代表する諸寺院はもちろん、金剛寺、西大寺、法隆寺などの多くの寺院において、その集会の議決方法として多数決制がとられている。当時、多数決は「衆議評定の時は、多分に付きてその沙汰あるべし」とか「多分の衆議に随い評定すべし」などとあるように、「多分の儀」といわれた。評定集会のメンバーは各人が公正な意見を主体的にのべつくした後、多数決によって議決したのである。
そして、これらの評定集会の場合、多数決は、当時「合点」といわれた投票による表決方法でおこなわれている。

一味契約状
これらの集会の議決によって決定した事柄は、室町時代になると一揆契約状という表現もあわられるが、多くは一味契約状という起請文形式の文書によって残されている。そしてこの議決の末尾には「一同」「一味同心」「一味」「一揆」の結果として決定したことが明記され、その遵守すべき規範としての効力がうたわれている。
会議のメンバー全員が主体的に公平な意見を述べることを神に誓約して、そこでなされた議決が一味同心の議決であった。
このような性格をもつ一味同心の評議の議決方法は多数決を必然的にとらざるをえない。そして、このような一味同心のもとにおける多数の意見の一致は、道理すなわち正義でありると考えられたために、その決定が一味同心の決定とされたのである。

神慮としての決定
意思決定に際し、なぜ一味同心の決定をつくることを至上目的にしようとしたのであろか。それは、彼らが一味同心、すなわち一揆の裁断は、正義であるとともに、特殊な力をもつと確信していたからにほかならない。また、これをつくる人びとのみならず、当時の人びとが一揆の裁断に、他の決定と異なる独自の効力を認めていたからである。そして、この特殊な「一味同心」「一揆」の決定が特殊な力をもつという意識の背景には、一揆の決定は「神慮」すなわち神の意志にもとづくという観念が大きく作用していたと思われる。

2 一味神水

神水を飲む
「一味」「一味同心」の状態は、どのようにしてつくられたのかというならば、それは「一味神水」という儀式を必要とした。この一味神水という行為は、それに参加する全員が神社の境内に集合し、一味同心すること、その誓約に背いた場合はいかなる神罰や仏罰をこうむってもかまわない旨を書きしるし、全員が署名したのち、その起請文を焼いて神水にまぜ、それを一同がまわし飲みするというものがこの時代のオーソドックスな方法であった。

よるべの水
この神水は、神に供えられた水などをさし、古くは「よるべ(寄辺、寄方)の水」ともいわれた。これは、神前におかれた器に入れた水で、この水には神霊が宿っていると考えられていた。
この神水を多数の人が神前でわかちあって飲むという行為には、そこに神と人、人と人の共食共飲の観念が存在した。わが国では、非常に古くからの祭りの際、直会(なおらい)といって、祭りの奉仕者が、神事終了後、神の供えられた酒や食物をおろしておこなう宴会が祭りの重要な行事の一つとして存在している。

共同飲食
共同飲食の観念を媒介とすれば、神水を飲むという行為は、文字どおり神と人、人と人の間を「一味同心」することであった。
神水を飲むというこの誓約方式は、たんに誓約を破ったものは神罰をこうむるというだけのものではなく、それを遵守して履行する人間は、その限りで神と一体化しているという意識が存在した。それゆえ、「一味神水」は、それぞれの人が、神と一体化したという意識に支えられた集団を作り出したのである。

金打(きんちょう)
誓約のさいにその誓約者が身の回りの金属器具を打ちならし、音声で誓約するもので、武士は刀、僧侶は鉦、女性は鏡を打ちならした。
金属器を打ちならす行為は、本来神を迎える、または呼び出す行為で、誓約をおこなうさい、神をその保証人として立ち会わせるために金属器がうちならされたと思われる。これは、金属器を打つ音によって神が出現するという呪術的信仰に基づいておこなわれた誓約方式であった。

三 変身と変相
1 百姓一揆の出立ち
一揆のユニホーム
百姓一揆のユニホームは、多くの場合蓑笠であった。江戸時代の百姓一揆はその初期には、村役人層を代表とした越訴型が多かったが、やがて広汎な一般農民層が参加する強訴や打ちこわしを主とする型へと展開する。この型は通常、個々の村落をこえた全藩規模の百姓が領民の意識で団結したもので、全藩一揆といわれる。さらに一八世紀後半になると、それぞれの支配領域をこえた広域の一揆もおこり、この時期の一揆は、商品流通の展開によって生み出された貧農および半プロレタリア層が主体となって、世直し的性格をおびるようになる。
このように、百姓一揆の参加者の姿は、蓑笠姿だけででなく、乞食姿や非人姿をとることが知られている。一揆に参加する際にこのような異形姿にその姿を変えて参加するということは、非日常的な「場」、異常な「場」として一揆に参加する人びとの精神のありかた、その集団意識構造と、より強く結びついている。

その人間の姿・形は、その人間の社会的存在としての身分、階層、職能などを表示していたのであり、前近代社会では、とくにこの関係は厳しい社会秩序として存在していた。
中世社会の成人式をすませた男子は、髻をゆい、烏帽子をかぶることによって、成年男子であることを表示した。この髪型がその存在を証明したのであり、髻を切られることは、最大の恥辱であって、髻を切ることが首を切ることと等価値と意識されていた。
女性は長い髪を持つのがその標識で、髪を短く切ることは、女性を女性でなくしてしまうことであった。

四 変革の思想
1 徳政一揆
一揆のスローガン
15世紀、近畿地方を中心に、各地に土一揆が蜂起したが、その一揆が要求したものは、ほとんど「徳政」であった。土一揆は、「徳政と号して」蜂起した。
中世社会の「徳政」の本質は「復活」にある。

借りの姿
わが国の古代社会の土地売買の「売る」の語の検討をされた菊地康明氏にようれば、所有権の完全な移転を意味するものではなく、請戻し・買戻しが、つねに前提とされていた。また、中世社会における土地売買形態は、元金を持参することによって請戻す本銭返し、期限付売却である年期売などにみられるように、土地の有期的、もしくは請戻し留保付売買がむしろ一般的であり、「取戻し不能の売買、確実に保護される債権」はむしろ「不自然な売買、特異な貸借」であったこと、また、没収地になお潜在する、もとの持主(本主)の再給与期待権などの存在により、中止社会の人びとにとって所有の移動は「仮の姿」であると意識されていた。

読書 神谷 和宏 『ウルトラマンは現代日本を救えるか』 朝日新聞出版

ウルトラマン
ウルトラマンは現代日本を救えるか

神谷 和宏 著 『ウルトラマンは現代日本を救えるか』 を読む。

第1章  1960年代 「大きな物語」とウルトラマン

超越者としてのウルトラマン -1960年代「イデオロギーの時代」の中で-
初代ウルトラマンと後のウルトラマンたちとの違いは、超越性にあります。人間としての弱さや未熟さ、さらには苦悩すら、ほぼ露呈することなく、超越的なキャラクターとして描かれたウルトラマン=(人間時の)ハヤタ。
かつて、神の存在が信じられていた時代には、大衆が神という一点へ信仰の気持ちを向けることで(社会のベクトルが一方向に向き)階層や秩序が成り立っていたが、神への信仰が迷信と化した時代においては、イデオロギーが(人々を統括するような)超越性を持つ。

神の不在が暴かれた近代社会では、人間ではなく、何らかのイデオロギーが超越者のごとく大衆の頭上に掲げられ、そのイデオロギーの実現に向けて人々が結集するという構図が見られました。
このように、王権やイデオロギーが健在であった時代、人々は自分たちを統べる超越者の存在を認めます。『ウルトラマン』が登場した1960年代は、「政治の季節」、イデオロギーの時代でした。
大衆からその権威を疑われることのないウルトラマンと科学特捜隊。彼らが超越者として存在できたのは、イデオロギーに満ちた60年代という時代性と無関係ではない。

第2章 1970年代 ポストモダンのウルトラマン

臨界点としての1970 太陽の塔とウルトラマン
「万国博覧会の太陽の塔とウルトラマンが似ている。」という指摘が古くからある。(仏文学者 巌谷国士)1970年に開催された万国博覧会のテーマは「人類の進歩と調和」であり、岡本太郎氏はその表象となるオブジェの制作を求められましたが、彼があえて調和に反発して制作したのが「太陽の塔」である。人類が一定の方向に収斂されるかのように調和するという社会の有り様は、岡本の目指すところとは正反対であり、そこであえてあおの左右非対称、調和というコンセプトとはまるで真逆の顔を持った太陽の塔を作った。(あの顔つきは、べらぼうである。)
ウルトラマンをデザインした彫刻家の成田亨氏はコスモス=秩序の象徴として、ウルトラマンのマスクを設定しましたが、作中のウルトラマンはコスモスであると同時にカオス=混沌をも決して排除せず、むしろ分かちがたいコスモスとカオスの間に立つ存在でした。

この万国博覧会は、戦後日本のシステムが「完成」したことへの国民上げての祝祭であり、「戦後日本社会のある種の飽和点を指し示す事件である。」
その理由として、近代における万国博覧会の役目を、魅力的な商品や、革新的な技術、あるいは珍しい異文化という、「イマ-ココ」の「外部」にあるものを見せて、それらを獲得するためのモチベーションを国民に与えることであるはずなのに、1970年の日本社会ではそれらが既に日常のものとなっており、すなわち「イマ-ココ」の「外部」などもはや存在しないことを万博は示したのだ。万博が「国土システムの飽和点、臨界点-最高潮であると同時に死へと歩み始める瞬間」である。(社会学者 北田暁大)

近代とは、神や王の神性を否定し、その代わりに理想の実現という「大きな物語」を設定することで、ツリー的な秩序を維持する時代でした。
戦後の日本ではアメリカが、豊かな国という、わかりやすい「外部」として存在しました。そして、その豊かさを手に入れようと、国民が意識的、あるいは無意識的に「外部」のモノやテクノロジーを取り入れ、自分たちも豊かになろうという「大きな物語」を生きていきました。しかし、そのような豊かさ、すなわち「外部」はもはや、自分たちの内側にあるとわかったとき、国民が同一の外部に向かうベクトルは消失し、代わりに、個々が経済的豊かさを求めることで、やはり「大きな物語」は解体されていくほかなかったのです。

この「大きな物語」崩壊後の『ウルトラマン』シリーズの世界観は、以前の作品の世界観と大きく異なり、上位者の機能不全を招き、リーダーとフォロワー(権力者と服従者、国家と国民)という従前の秩序は解体していきました。

超越者から、未熟な超人へ
人間の上位に位置する超越者として描かれていたウルトラマン(=ハヤタ)と異なり、『帰ってきたウルトラマン』以降の主人公たちは、成長途上の「未熟な超人」として描かれました。

ウルトラマンや防衛隊の面々は、怪獣と戦う以前に、理解のない上司や、大衆と向き合わなければなりません。かつて超越者として存在したウルトラマンや、何だか大らかでさえあった、科学特捜隊の面影はすっかり失われてしまいました。

「光=正義/経済的繁栄=正義」の崩壊
長らく、光とは正義の象徴でした。ウルトラマンの出身地は「光の国」と謳われています。また、光は物質的繁栄の象徴でもありました。都市はその繁栄に比例して光を増します。光はまたエネルギーの消費の象徴でもあり、輝きが途絶えない=眠らない街の登場は、24時間エネルギーが消費されていることを示します。夜でも光り続ける大都市。しかし、そんな経済的繁栄がずっと右肩上がりでいくのでしょうか。エネルギーは無尽蔵なのでしょうか。そのようなことはなく、日本はオイルショックというエネルギー問題に直面し、経済成長は終焉します。

ポストモダンのウルトラマン
「大きな物語」に向かって国民が収束するのが近代であり、「大きな物語」が崩壊した後の世界が「ポストモダン」である。(哲学者 ジャン・フランソワ・リオタール)70年代の4本のシリーズ『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』は、ポストモダンのウルトラマンであったといえる。「未熟な超人」が「大きな物語」喪失後の日本社会の問題と対峙しながら成長し、超人として人間に何かを伝え、去っていく物語であったと言えます。

オイルショックと大きな物語の終焉
オイルショックは、長期にわたった高度経済成長に終止符を打ちます。オイルショックによる物価高騰は製作費を圧迫しセットを作る費用を抑えざるを得ず、『ウルトラマンレオ』の初期に等身大の宇宙人の描写が増えることになります。
怪獣は巨大なものとして設定されたことで、人々が見上げるべき存在であり、人々に共通して立ちはだかる壁、災厄などの表象として機能しました。
しかし、オイルショックの煽りを受けて、巨大な怪獣の出現シーンが抑えられることで、人々に共通の敵が存在する「大きな物語」の時代が終焉しつつあることを計らずも表象するものになりました。
日本に怪獣が頻出する理由が、「エネルギーに満ちていたから」であり、経済発展していく日本の光と闇を映し出すために怪獣の出てくる物語が構築されてきたのだと考えるのならば、オイルショックというエネルギー危機が、戦後一貫して成長してきた路線に歯止めをかけたとき、そこではもう怪獣が日本に現れる物語は構築される理由を失ったかもしれません。

第3章 1980年代 軽佻浮薄の時代 -ウルトラマンの敗北

ウルトラマン不在の80~90年代 -軽佻浮薄の時代
15年超にも及ぶ「ウルトラマン不在」の期間。最大の理由は制作サイドの問題かもしれませんが、世間が「ウルトラマン的なもの」を欲しなかったからこともあった。
1980年代は、バブル経済への道程でもあり、政治について熱く語るおうな前時代的なスタイルは、「真面目ぶっている」「何だかお堅そう」なイメージとなり、軽佻浮薄を求める世間の風潮とはかけ離れていくようになりました。その時代ごとの政治性が底流する『ウルトラマン』が成立する土壌は失われていまった。

第4章 1990年代 復活するウルトラマンと大いなる闇

環境問題の使者としてのウルトラセブン
単発とはいえ『ウルトラセブン』の続編が作られたことは大きな衝撃でした。
『ウルトラセブン 太陽エネルギー作戦』(1994年)は太陽光発電に代表するクリーンエネルギーの普及を狙う通産省とのタイアップで制作されたものです。ウルトラセブンは太陽をエネルギーとする、太陽の象徴のように描かれます。バブルという酔狂のトンネルを脱し、「80年代的なもの」すなわち「軽佻浮薄」を一掃し、人々が政治性を再び内包するようになった時代だからこそ、『ウルトラ』シリーズは復活しました。