読書 アルベール・カミュ 『シーシュポスの神話』 新潮文庫

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”シーシュポスの神話”
シーシュポスの神話

神々がシーシュポスに課した刑罰は、休みなく岩を転がして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつもころがり落ちてしまうのであった。無益で希望のない労働ほど恐ろしい懲罰はないと神々が考えたのは、たしかにいくらかはもっともなことであった。

神話とは想像力が生命を吹き込むのにふさわしいものだ。このシーシュポスを主人公とする神話についていえば、緊張した身体があらんかぎりの努力を傾けて、巨大な岩を持ち上げ、ころがし、何百回目も、同じ斜面に繰り返してそれを押し上げようとしている姿が描かれているだけだ。ひきつったその顔、頬を岩に圧しあて、粘土に覆われた巨魁を片方の肩でがっしりと受け止め、片足を楔のように送ってその巨魁をささえ、両の腕を伸ばしてふたたび押しはじめる。泥まみれになった両の手のまったく人間的な確実さ、そういう姿が描かれている。天のない空間と深さのない時間とによって測られるこの長い努力のはてに、ついに目的は達せられる。するとシーシュポスは、岩がたちまちのうちに、はるか下のほうの世界へところがり落ちていくのをじっと見つめる。その下のほうの世界から、ふたたび岩を頂上まで押し上げてこなければならぬのだ。かれはふたたび平原へと降りていく。
こうやって麓へ戻っていくあいだ、この休止のあいだのシーシュポスこそ、ぼくの関心をそそる。石とこれほど間近に取組んで苦しんだ顔は、もはやそれ自体が石である!この男が、重い、しかも乱れぬ足どりで、いつ終わりになるかかれ自身ではすこしも知らぬ責苦のほうへとふたたび降りていくのを、ぼくは眼前に想い描く。いわばちょっと息をついているこの時間、かれの不幸と同じく、確実に繰り返し舞い戻ってくるこの時間、これは意識の張りつめた時間だ。かれが山頂をはなれ、神々の洞穴のほうへとすこしずつ降ってゆくこのときの、どの瞬間においても、かれは自分の運命よりたち勝っている。かれは、かれを苦しめるあの岩よりも強いのだ。
この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず不条理だ。しかし、かれが悲劇的であるのは、かれが意識的になる稀な瞬間だけだ。ところ、神々のプロレタリアートであるシーシュポスは、無力でしかも反抗するシーシュポスは、自分の悲惨な在り方を、かれは下山のあいだじゅう考えているのだ。かれを苦しめたにちがいない明徹な視力が、同時にかれの勝利を完璧なものたらしめる。侮蔑によって乗り超えられぬ運命はないのである。

このように、下山が苦しみのうちになされる日々もあるが、それが悦びのうちになされることもありうる。悦びという言葉は言いすぎでない。

シーシュポスの沈黙の悦びのいっさいがここにある。かれの運命はかれの手に属しているのだ。かれの岩はかれの持ち物なのだ。同時に、不条理な人間は、自らの責苦を凝視するとき、いっさいの偶像を沈黙させる。突然沈黙に返った宇宙の中で、ささやかな数知れぬ感嘆の声が、大地から湧きあがる。数知れぬ無意識のひそやかな呼びかけ、ありとあらゆる相貌からの招き声、これは勝利にかならずつきまとうその裏の部分、勝利の代償だ。影を生まぬ太陽はないし、夜を知らねばならぬ。不条理な人間は「よろしい」と言う、彼の努力はもはや終わることはないであろう。ひとにはそれぞれの運命があるにしても、人間を超えた宿命などはありはしない、すくなくとも、そういう宿命はたったひとつしかないし、しかもその宿命とは、不可避なもの、しかも軽蔑すべきものだと、不条理な人間は判断している。それ以外については、不条理な人間は、自分こそが自分の日々を支配するものだと知っている。人間が自分の生へと振り向くこの微妙な瞬間に、シーシュポスは、自分の岩のほうへと戻りながら、あの相互につながりのない一連の行動が、彼自身の運命となるのを、かれによって創り出され、かれの記憶のまなざしのもとにひとつに結びつき、やがてはかれの死によって封印されるであろう運命と変わるのを凝視しているのだ。こうして、人間のものはすべて、ひたすら人間を起源とすると確信し、盲目でありながら見ることを欲し、しかもこの夜には終わりがないことを知っているこの男、かれはつねに歩み続ける。岩はまたも転がってゆく。
ぼくはシーシュポスを山の麓にのこそう!ひとはいつも、繰り返し繰り返し、自分の重荷を見出す。しかしシーシュポスは、神々を否定し、岩を持ち上げるより高次の忠実さをひとに教える。かれもまた、すべてよし、と判断しているのだ。このとき以後もはや支配者をもたぬこの宇宙は、かれには不毛だともくだらぬとも思えない。この石の上の結晶のひとうひとつが、夜にみたされたこの山の鉱物質の輝きのひとつひとつが、それだけで、ひとつの世界をかたちづくる。頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。

読書 柳田 邦男 『「人生の答」の出し方』 新潮文庫

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”「人生の答」の出し方”
「人生の答」の出し方

人が生きる時間

人生の「生きられた時間」

私の中に二つの異質な時間が流れていたのだ。一つは、私だけが個人的に直面している現実と結びついた「一人称的な時間」。そして、もう一つは、主観的な感覚や意識に関係なく、誰の上にも共通に流れている客観性を持った「三人称的な時間」である。

人間が生きるうえで決定的に重要なのは、「一人称的な時間」の中で、「生きられた時間」を持てたかどうかということだった。「生きられた時間」とは、哲学者ウジューヌ・ミンコフスキーが提唱した概念だ。

だが、情けないことに、次男が死んで、自分が離人症的な精神状態を経験してはじめて、「生きられた時間」が持てないというのは、ずっと深い実存的な苦しみであったのだと、ようやく実感のレベルで理解できるようになったのだった。

こうして「一人称的な時間」や「生きられた時間」というキーワードを手にしてからは、がんや難病などの厳しい病気と闘いながら懸命に生きている人々に生き方を見る眼をより深めることができるようになったと思う。

最近、がん患者たちがよりよく生き抜くための「生きがい療法」が、少しずつ広まっている。

生きがい療法の基本方針五項目の中で、とくに注目したいのは、次の三つの心得だ。

1)ただ生きようと思うのではなく、自分が自分の主治医になったつもりで、病気をしっかり見つめて、前向きな姿勢で治療を受け、がんと闘っていくこと。
2)今日一日の生きる具体的な目標を自覚して、全力投球すること。
3)人にためになることをすること。

このような闘病の姿勢と生き方を次のように表現することができるだろう。すなわち、進行がんになったからといって、絶望したりうつ的になったりして人生を投げ出すのではなく、あるいはただいたずらに生物的な延命(=三人称的な時間の延命)を求めて医師任せの治療を受けるのではなく、自分が直面している厳しい病気の現実に結びついた大事な日々、つまり「一人称的な時間」を可能な限り密度の濃い「生きられた時間」にするべく、主体性をもって治療に臨み、生きがいを実感できる日々を設計していくならば、納得することのできる「これが私の人生だ(This is my life!)」という物語を書けるに違いない。しかも、そういう生き方を貫くならば、唯々諾々と治療を受けているよりも、結果として、はるかに大きな延命効果を獲得することができるにちがいない-と。

このことは、人生の長さとは何か、ひいては本当の長寿とは何か、という本質的な問題について、一つの答を出していると言えるのではないかと、私はとらえている。

そして、私は、次のようなモデルを考えている。

「人生の長さ(意味のある人生の長さ)」=「生きられた時間の長さ」x「その密度」

ここで一つ、補足しておくべき大事な問題がある。それは、生きがい療法の方針の中にある「人のためになることをする」が、なぜ厳しい病気を背負った自分の生を支えることになるのか、その意味についてだ。

この問題について、最も鋭く明快な解答を出したのは、第二次大戦中のナチス・ドイツの強制収容所で生き残った精神医学者ヴィクトール・E・フランクルだ。飢えと強制労働とガス室による大量殺戮という絶望的な限界状況下で、人格を崩壊させずに生き抜くことができた人々を支えた考え方はどんなものだったのか。フランクルは、『夜と霧』の中で、劇的に気づいたことについて、こう書いている。

<人生から何をわれわれはまだ期待できるのかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。>

<われわれが人生の意味を問うのではなく、われわれ自身が問われた者として体験されるのである。>

限界状況の中で絶望しないためには、生きる意味についての考え方を180度転換させること、すなわち「人生の問いのコペルニクス的転回」が求められるというのだ。

 

読書 博報堂ブランドデザイン 沼田 宏充 『あなたイズム ムリなく、自分らしく、でも会社に愛される働き方』 アスキー選書

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"あなたイズム"
あなたイズム

第1章 なぜ仕事は「つまらない」のか

仕事が「つまらない」というのはどういう状況なのだろうか。詳しく分析すると、実は仕事を「つまらない」と感じる要因は、大きく分けて2つある。
ひとつは、その人の「適性」や「志向性」が合っていないこと。
もうひとつは、その人の「スキル」や「才能」が合っていないことだ。

個人の「志向性」が合っていなければ、その仕事も職場もつまらないし、「スキル」や「才能」がフィットしていなければ、結果が出ず、やはりつまらない。「つまらない」は、この2つの要素のいずれか、もしくは両方によって生じていることがほとんどだ。
これは、別の言い方をすると、その人の「持ち味」が活かされなければ、人は仕事や職場を「つまらない」と感じやすい、ということでもある。

だが、このような個人と組織の価値観の接点に着目し、個人の「イズム」を発揮させようと考えている企業はまだまだ少ない。さらに、そのための施策を実践している企業はもっと少ない。
だからこそ、「仕事がつまらない」と感じる人が多いのである。

第2章 自分の「持ち味」、組織の「らしさ」

個人にさまざまな持ち味があるように、組織にもそれぞれの考え方や重視している価値観、固有の雰囲気などがある。私たちはこれを組織の「らしさ」と読んでいる。

個人の持ち味が志向性とスキルに大別でき、それぞれに多彩な要素が含まれているように、組織のらしさもさまざまな要素から構成されている。
たとえば、その組織では、個々人の業績だけを問うのか、それともプロセスの質も問うのか。あるいは、リーダーシップの発揮が良しとされるのか、皆でフラットに助け合うチームプレーが求められるのか。また、個人を尊重したさっぱりとした付き合い方が奨励されているのか、和気あいあいと交流し合う雰囲気なのか....。
「なんとなく働きにくい」「つまらない」「合わない気がする」という場合は、こうした組織のらしさと、自分の持ち味の接点が見つけられていないことが多い。
組織のらしさが分かれば、自分の側から「どこが重なるか」という視点で組織に近づくことができる。

個人の持ち味の円と、組織らしさの円、この2つが重なる部分が双方の接点であり、今後の行動指針になる。
個人と組織のらしさの接点にある価値観を行動指針とすれば、自分の持ち味を活かしながら、組織に貢献するというウィン-ウィンの働き方ができるというわけだ。
この行動指針を、その人らしい働き方をガイドする価値観として「イズム」と定義している。
この「あなたイズム」を発揮することは、すなわち自分の持ち味を発揮することである。それでいて、組織の価値観にも合致する。だからこそ、イズムにのっとって仕事に取り組めば、楽しく働けるうえに、組織にとっても良い影響を及ぼすことができる。

読書 博報堂ブランドデザイン 宮崎 正憲 『「応援したくなる企業」の時代 マーケティングが通じなくなった生活者とどうつきあうか』 アスキー新書

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”応援したくなる企業”
応援したくなる企業

はじめに-ブランディングという仕事を通じて見えてきたもの
私がリーダーを務めている「博報堂ブランドデザイン」は、ひとことでいえば、ブランド企画やコンサルテーションを主要業務とした専門チームである。
チームの業務内容を人に説明するときは、やや乱暴であるが、「ブランドとは、商品や企業、組織の”らしさ”である」といいかえるようにしている。つまり「さまざまな商品や企業、組織の”らしさ”をつくるために、なにをしたらいいのかと企画を考えたり、コンサルティングをしたりする」のが、仕事である。

第0章 ”買わない”のは本当に不景気のせいか

私はこの「つぎの時代の企業像」を読み解くカギは、「正、反、合」という、いわゆる弁証法的な思考法にあると考えている。
ある命題を「正」(=テーゼ)として、それに矛盾する、あるいは否定する反対の命題を「反」(=アンチテーゼ)、それらを本質的に統合した命題を「合」(=ジンテーゼ)とする概念から櫛絵される。
わかりやすくいうと、ある意見(正)に対して反対の意見(反)がある場合、どちらか一方の意見を選ぶのではなく、2つの矛盾した意見をうまく解決して高めた第3の意見(合)に昇華していくという考え方だ。一般的な弁証法では、これを止揚(アウフヘーベン)と呼ぶ。

いま社会で潜在的に求められているのは持続的な幸福なのである。幸福という意味の英語としてよく用いられるのは、「happiness」と「well-being」の2種類の単語だが、これからの時代により求められるのは、「happiness」ではなく、「well-being」であろう。「よりよく生きる」「満足がつづく」という意味合いだ。本書ではあえて「幸福」といわず、「しあわせ」という言葉を使う。

これからは、どうしたら社会が「しあわせ」になるかを考え、独自のやり方で、それを提供しようとする高い”志”が企業に求められる時代になる。そして、そういう姿勢をもった企業こそが生活者の共感を獲得し、長く生き残っていくことになるのではないか。
生活者が自分たちの「しあわせ」を真摯に考えてくれるとして信頼し、支持したくなる企業、つまり、「応援する価値がある」と認められた企業が、社会に必要とされるのである。

第1章 「ターゲットにモノを売る」というまちがい -「ターゲット発想」から「コミュニティ発想」へ-
顧客は大切にすべき仲間であっても、けっして攻撃対象ではないはずだ。にもかかわらず、ビジネス界には暗黙のうちに「ターゲット」や「戦略」という軍事用語が氾濫している。こうした背景には、企業と生活者はある種の対立概念であり、生活者は攻略すべきものだという暗黙の不可思議前提が潜んでいる。

マルチステークホルダー発想のもとで、広範なパートナーシップをベースに知恵を結集させながら未来を描いていく必要がある。つまり、生活者ともコミュニティ、ステークホルダーともコミュニティ、である。そこで求められるのは「モノを売る」という発想から「仲間を広げていく」という発想への転換だ。
コミュニティ発想への転換と実現は、そう簡単なことではない。しかし、その第一歩として、まず「ターゲット」や「戦略」といった軍事用語の使用をやめることからはじめてみてはどうだろうか。ターゲットのかわりに「ファン」、セグメントの代わりに「コミュニティグループ」という言葉を使うだけでも、ビジネスに取り組み姿勢は変わるはずだ。

第2章 「差別化のポイントはどこ?」という不見識 -「シェアアプローチ」から「新市場創造アプローチ」へ-

既存のフレームのなかで競合企業から市場を奪う取り組みは「シェア拡大アプローチ」と呼ばれる。これに対して、既存の市場そのものを拡大し、結果的に売り上げを向上させる取り組みは、「パイ拡大アプローチ」と呼ばれている。長らく企業は、この「シェアか、パイか」という二元論的な選択肢のなかでしのぎを削り合いながら成長してきた。しかし、市場が縮小しただけでなく、今後の拡大が期待薄になったいま、もはやどちらかを選択することによって事態を好転させるのは難しい。これからの「合」の時代には、市場そのものや業界そのもののポジションをずらし、越境し、新しい海を見つける必要があるのだ。それが、「新市場創造アプローチ」である。

新市場の創造には、たしかにリスクを伴う、しかし、同質化しつつある既存市場にしがみつき続けるのも、また同じように大きなリスクがある。差異の小さな差別化競争を繰り広げているところに、他社から市場創造型アプローチによる新たな価値が持ち込まれると、生活者の関心は一気にそこに向かう。そうなると、差別化競争を繰り広げている企業は、のきなみ危機的な状態に陥ってしまいかねないのだ。

”ブルーオーシャン”を望むのなら、既存業界の通例にとらわれずに、むしろ全く異なる他業界を参照しながら、みずからの業界の慣習や前提を破り、新しいフレームを再構築する力が求められる。

アイデアとはまったく無から生まれるものではなく、既存の要素の新しい組み合わせ以外のなにものでもない、といわれる。優れたアイデアとは、ほかの人が気づかないような「すぐれた組み合わせの妙」だと考える。
企業はもっともっと模倣すべきなのだ。ただし、まったく異なる業界のことを。

第3章 「ニーズはなんだ?」と問うあやまち -「ベネフィット訴求型」から「スピリッツ共感型」へ-

いま注目されているのが、ニーズに応えることで支持を集めようとする従来的なアプローチではなく、生活者が企業やブランドの側にみずから歩み寄ってくるような関係の構築である。
そこで求められるのは、競合企業の動向に敏感に反応することでもなければ、生活者のニーズにだけ耳を傾けて改善をはかることでもない。進むべき方向性を表す企業の「ビジョン」を示すことが不可欠であり、その企業ならではの信念や理念に基づいた「絶対アプローチ」が必要だ。ここでいう「ビジョン」とは、企業が一丸となって取り組む理念や哲学のことである。「こうなりたい」という理想像だ。

モノをつくる企業はもちろんのこと、サービスを提供する企業もまた、こうしたビジョンがあるからこそ、競合企業に惑わされることなく、独自の絶対価値を打ち出すことができる。

企業が明確な将来像を思い描きながら、ビジネスを進めていこうとする考え方を「ビジョン型」とするなら、強い理念や思い、信条をもって共感を集め、ファンを獲得していく企業や商品の考え方は「スピリッツ共感型」と定義できる。「ビジョン」が明確な将来像があるのに対して、「スピリッツ」には、それに信念や哲学、信条などの”思い”が加わっている。

 

第4章 「勘でものいうな」がもたらす損失 -「論理、言語重視」から「文脈、非言語重視」へ-

数字は「測定できるもの」しか表せない
日本のビジネスの現場で数字を偏重する傾向が強いのは、高度経済成長期に、市場の変動や自社の成長を共有するために、数字によってわかりやすく単純化する必然性があったからだといわれている。
だが、問題はそこからそぎ落されてしまうものにある。数字には、測定できるものしか表現されない。そのため、扱いやすくなるものの、視点が一面的になってしまいがちなのである。さらには、わかりやすくする目的でもちいられる数字は、市場の状況がシンプルであるときは機能するが、市場が複雑になってくると効果が薄れてしまいやすい。

ビジネスにおいて言語は絶対だと思われがちだが、言語化されたものがすべてではないし、言語化されたものを理解すれば、それだけで適切に理解できるとも限らないのである。
グループインタビューや調査データから、うまく生活者の要望をくみ取れない理由のひとつもここにある。直接ニーズを問いかけたところで、生活者は自分が感じていることのごく一部しか言語化できないし、それをデータとしてさらに単純化すれば、実像から大きくかけ離れてしまう可能性はさらに高まる。非言語領域にあるものをくみ取るのは容易ではない。だからこそ、モノをつくったり、サービスを考案したりするときには、数字や言語を超えたところにある勘に注目してみる必要があるのだ。
20世紀に活躍した哲学者のマイケル・ポランニー氏は、「私たちは言葉にできるより多くのことを知っている。」と指摘し、経験に基づく身体的な感覚や、言葉には表せないが確かに存在する知識を「暗黙知」として提唱している。

第5章 「どんなアウトプットが得られるんだ?」と問う不利益 -「ソリッドプロセス」から「フレキシブルプロセス」へ-

これまでのビジネスプロジェクトの多くは、「事前に下調べをして綿密な計画を立てておく」ようなアプローチで進められてきた。
立ち上げの段階では市場の状況について綿密な調査が行われ、可能なかぎり精緻にゴールイメージが描き出される。そして、それを最短かつ低コストで成し遂げるために必要なワークプロセスを設定し、いざ実行するとなれば、とにかく効率的に進めていくというやり方がなされてきたのである。

こうした物事の進め方を「固い」「確実」という意味で「ソリッドプロセス」と呼んでおく。
しかし、つくるべきものがはっきりしている際のプロジェクトプロセスと、モノやサービスを考えながら、これから生み出していこうとする際のプロジェクトプロセスは必ずしも一致しない。ソリッドプロセスアプローチで成果を上げることができるのは、達成すべき目標がはっきりしているときだ。
いま私たちが直面しているような、生活者が「なにが欲しいのか」を自覚でいてはいない状況では、同じアプローチは通用しない。求められているものが「わからない」以上、そもそも実現すべきゴールを設定することができないからだ。
また、イノベーティブなアイデアは、論理を着実に積み上げれば生まれるという性質のものではない。発想に飛躍を生み出すためには、どうしてもある種の偶発的な要因を取り込む必要がある。
つまり、いまプロセスに求められているのは、「なりゆきに身をまかせる」ビジネスの進め方なのである。
事前にプロセスを厳格に定めておく「ソリッドプロセス」の対極として、「なりゆきに身をまかせる」物事の進め方を、「フレキシブルプロセス」とよんでしる。最終的なアウトプット像や、それが生み出されるプロセスに対する考え方をできるだけ柔軟に保ちつつ、真に生活者に必要とされるもの、効果を生み出せるものをつくっていこう、そこに近づけていこうとするアプローチの仕方だ。
平たくいえば、”とろあえず”プロジェクトをスタートさせてみて、あとは市場の反応などを参考にしながら、より高い効果を生み出せるように工夫を重ねていくのである。
不完全でも目に見えるかたちを提示して考えていくという「プロトタイプ発想を重視する。」

企業が新たにモノやサービスを開発する際には、作るべきものがあらかじめ明確になっているときに効力を発揮する「ソリッドプロセス」を、必ずしも用いなければならないわけではない。むしろ、より柔軟なフレキシブルプロセスを踏むことで、行きつ戻りつしながら、結果的に事前に想像もしなかったような新しいアイデアが生み出されることを目指した方がいい。
そして、柔軟な開発プロセスを踏める企業は、サービス自体も柔軟なかたちで提供することができる可能性がある。完成度を高めた商品を満を持して登場させ、生活者が飽きたら、また別の商品を出していくという従来のモデルチェンジ発想ではなく、ある程度かたちができた時点でまず世の中に出してみて、生活者の意見を取り入れながら、積極的に改善や工夫、アップデートをおこなっていく、その方が本当の意味で生活者の「しあわせ」につながるサービスが提供できるはずだ。

決められた時間のなかで、効率的に、無駄なく、リスクなく、という発想ではなく、効果を最大化するために時間をもっと柔軟に使い、生活者とともにモノを改良していく。そんなフレキシブルプロセスこそが、「合」の時代には求められているのである。

第6章 「下から意見が出ない」という勘違い -「管理型組織」から「共創型組織」へ-

いまのこの経済状況にもっともうまく対応できるのは、伝統的なトップダウン型でもなく、かといってボトムアップ型でもない「合」の位置にあるハイブリッド型の組織なのである。
この第3の組織形態として、注目されているのが、「共創型組織」だ。
事業やプロジェクト、あるいは日常の業務に対して、メンバーがフラットに関わる体制が特徴的で、意見のまとめ役としてのリーダーがいることはあるが、基本的に上下関係はない。各スタッフが必要に応じて臨機応変につながることから、いわゆるピラミッド型の人事構造と比較して、「アメーバ型」「ネットワーク型」と呼ばれることもある。
最大の効果は、メンバー一人ひとりの多様な知恵と経験が共有され、掛け合わされて、ダイナミックな成果を生み出せることだろう。人数をかけたことによる単なる足し算ではなく、どちらかといえば掛け算のように成果が飛躍的に増大していく。個人の能力の総和を上回る力を発揮できるのである。

第7章 「仕事にプライベートをもち込むな」という非常識 -「公私分離」から「公私混同」へ-

趣味をそのまま仕事にするのは、簡単なことではない。
この視点から、私たちのチームで導入しているのが、「6・2・2ルール」である。「6・2・2」は、6割、2割、2割の意味で、メンバーが取り組む仕事の配分を示している。それぞれの内容はというと、全体の6割は、チーム本来の業務にあてる、次の2割は、自分が興味をもっているテーマをビジネス化する取り組みにあてる。そして、最後の2割は、データベース作成やチーム内イベントの幹事といった、チーム維持のために費やす。
このうち、メンバーの「私」の部分の取り組みに寄与するのは、真ん中の「2」だ。自分が興味をもっていることを探究し、そのビジネス化をはかるのである。
2割という割合は、数字だけを見ると少ないとの印象を受けるかも知れないが、実際には、このなかでビジネス化に取り組み、プロジェクトとして成立したものは、つぎの瞬間から、チーム本来の業務である6割に組み込まれる。これを繰り返していけば、自分の趣味をベースに取り組む業務の率が増していく。
こうしてオフィシャルに”公私混同”の目安を提示すると、メンバーも思い切って「私」の部分を交えやすくなる。その結果、イノベーティブなアイデアが生まれやすくなり、ビジネスが外に向かって発展する「遠心力」が高まる。
ただし、「遠心力」だけでは、どうしてもチームとしてのまとまりを欠いてしまう。逆の方向の力、つまり内側に向かって働く「求心力」も必要だ。そこで最後の2割では、あえてチームのために時間や労力を割くよう求めているのだ。

ここまでビジネスにおける「公私混同」の重要性について説明してきたが、「公」はともかくとして、交える「私」は、時代と共に変化している。
最大の違いは、多様性にある。高度成長期は、みなが同じ方向を向く「住人一色」の時代だった。それが時代が進むにつれて、個々人の多様性を重視する「十人十色」となり、これからは「一人十色」といってもいいほどに、それぞれの個人のなかに多様な個人が同居している時代になるのだ。

個人が持つ多様性については、その多様さゆえにマーケティングアプローチの難しさが指摘されている。しかし、「私」を交えることができれば、多彩さのプラスの面を、ビジネスの中に無理なくインテグレートできる可能性がある。そして、それは企業という閉ざされた枠を脱し、広く生活者の感覚を取り入れることでもある。
すなわち、ビジネス的価値観と生活者的価値観の一致をはかることができるようになるのだ。「公私混同」には、そういう意味合いも含まれている。

第8章 「応援したくなる企業」の時代
前提やフレームから自由になることの重要性は、いま組織開発の世界でも注目されている「U理論」でも強調されている。
具体的には、つぎの7つのプロセスからなる。
1.ダウンローディング(過去情報の収集をやめる)
2.シーイング(現場で見る、見つめる)
3.センシング(五感で感じる)
4.プレゼンシング(深く潜り、外と内の世界が一体化する)
5.クリスタライジング(結晶化、インスピレーションが導かれる)
6.プロトタイピング(原型をつくる、とりあえずつくってみる)
7.パフォーミング(大きく展開する)

「新三方よし」
「自分よし、周囲よし、将来よし」が、今後、企業が心得るべき「新三方よし」である。
生活者にしてみれば、この「新三方よし」が実践できている企業は、自分にとってもありがたいパートナーであり、社会にとっても必要な存在である。そうなれば、単純に支持するだけでなく、ぜひその企業には発展を遂げてほしいと望むようになる。だからこそ「応援したい」と思い始めるのである。

 

 

読書 本田 哲也 池田 紀行 『ソーシャルインフルエンス 戦略PRxソーシャルメディアの設計図』 アスキー新書

本田 哲也 池田 紀行 『ソーシャルインフルエンス 戦略PRxソーシャルメディアの設計図』を読む。

”ソーシャルインフルエンス”
ソーシャルインフルエンス

第2章 ソーシャルメディアマーケティングのこれから

ソーシャルメディアのユーザを「コンテンツ」や「メディア」として捉えるのではなく、自社やブランドの「消費者」「顧客」として捉えなおし、エンゲージメントを促進させよう、という流れに潮目が変わった。マーケティングの原点に回帰したのだ。

消費者との中長期的な関係性づくりにおいては、「エンゲージメント」の概念が重要になる。自分に興味を持ってくれない相手に対して、いくら一方的に情報を送っても、他人ゴトとしてスルーされてしまう。自分に無関心の相手に興味を持ってもらうためには、「自分が」ではなく、「相手に」関与してもらう必要がある。エンゲージメントは、「関わり合い」と表現することができる。企業と消費者が相互に関わり合うことによって関係性を深め、興味を持ってもらったり、好きになってもらうのだ。

一言でエンゲージメントといっても、ファンとの関わり合いと低関与層との関わり合いは全く異なる。その時に参考になるのが、ラダー・オブ。エンゲージメント(エンゲージメントのはしご)という考え方だ。
ラダー(はしご)の下には、商品への低関与層でも関わり合うことができるプログラムを用意する。
次に、少しだけ興味を持ってくれている消費者には、ソーシャルメディアの公式アカウントをフォローしてもらい、「いいね!」やコメントなどをつけてもらうことで、徐々に双方向コミュニケーションを開始する。
さらに関係性が深まると、ことちらが投稿した情報を友人・知人にシェア/RT(リツイート)をしてくれたり、ユーザ自らがツイッター、フェイスブック、ブログなどへ商品情報を投稿してくれるようになる。そしてキャンペーンへの応募、メルマガへの登録、イベントなどへの参加と、よりユーザとブランドの距離感を縮めていく。
最終ゴールは、商品の連続購入(ロイヤルカスタマー)よりもさらに進んで、友人や知人への推奨者(エバンジェリスト)になってもらうことだ。この段階まで行くと、消費者とブランドの間には強い感情的・情緒的関係性が築けている。エバンジェリストは、ブランドの好意的な情報を積極的に共有してくれる心強いマーケティングパートナーになってくれる。
低関与層、公式アカウントのファンやフォロワー、メルマガやイベントなどへの参加者、ロイヤルカスタマー、エバンジェリストなど、ターゲットごとにエンゲージメントプログラムを準備し、それぞれのレイヤーに属するユーザに一段一段はしごを上っていてもらう設計を施すことが大切なのである。

第3章 「戦略PR」の登場(本田 哲也)

モノが売れるまでに立ちふさがる「2つのハードル」
企業から消費者に商品の良さを伝えたいと思っても、その情報伝達を「2つのハードル」がジャマしている。1つは、「量のハードル」、もう一つは、「質のハードル」だ。
「量のハードル」とは、インターネットの出現と発達にともなって生まれた情報の洪水状態のこと。
日本企業は、自社製品をアピールするために、実に細かいスペックの違いを広告メッセージに打ち出してきた、だがその結果、日本の消費者はいい具合に目が肥え、市場が成熟してしまった。そうして生まれたのが「質のハードル」だ。
消費者は、商品に関する細かな情報に接してきたことで、モノを買う前に情報収集したり比較検討したり、他の人の感想を確かめる、といった行動をより多くはさむようになった。

商品を売るために必要な「空気」
多くのヒット商品が生まれるのは、今という時代に合わせた「売り方」「伝え方」がある。これは商品の良し悪しや宣伝コストとは別次元の話。それが「戦略PR」というノウハウだ。
そもその今の世の中でモノが売れるか、売れないかは、その商品が売れるための「空気」(「場の雰囲気」「ムード」堅苦しい言い方をすれば「人々が暗黙のうちに共有する情報の集合体」)ができているかどうかにかかっている。
消費者は「空気」を共有することで、新しい「トレンド」「価値観」「問題」の存在に気付く。そこで、その空気に呼応するようにして「トレンドに中心にある商品」「価値観のシンボルとしての商品」「問題の解決策としての商品」を提示できれば、そのモノが売れるチャンスは大きく広がるからだ。消費者にとってその商品は「みんながほしかったモノ」だから、受け入れやすいのだ。このような「空気」は、自然と生まれることもあるし、作り出すこともできる。この「商品が売れるために作り出したい空気」を僕は、「カジュアル世論」と呼んでいる。

空気を生み出す戦略PRのノウハウ
戦略PRでは、多様なメディアを組み合わせ、いかにさまざまな情報発信を行うかもプランニングする。いかに広く消費者の関心を集めるか、の作戦もたてるのだ。
このような戦略PRの2つの視点は、次のようにまとめることができる。
1.戦略PRでは、戦略的なテーマ設定を行う
2.戦略PRでは、戦略的なチャネル設計を行う

「テーマ設定」のコツ
「商品の便益を消費者の関心に関連づけてPR内容を策定する」といったことになる。

「チャネル設計」のコツ
テーマ設定後の情報発信では、3つの視点からメディアを利用する必要がある。
1.「おおやけ」感を生み出すために 「マスコミ」の活用
2.「ばったり」感を生み出すために 「クチコミ」の活用
3.「おすみつき」感を出すために 「インフルエンサー」の活用

「おおやけ」とは、「公(おおやけ)のこと」。組織や世間一般に関わっていることだ。つまり、モノゴトに対してある種のカジュアル世論が生まれるには、世間で広く共有されていることが必要ということ。(公共性)
マスコミに取り上げてもらうことで、「この話題は、日本中でたくさんの人に知られている」と消費者に思ってもらい、設定したテーマに「おおやけ感(公共性)」を付与する効果は絶大だ。

「ばったり」とは、偶然出会う様子のこと、カジュアル世論の形成には、消費者が情報に接する際にある種の「偶然性」を持たせる必要もある。
この「ばったり」感を演出するには、クチコミの活用が欠かせない。
最近は、ソーシャルメディアで情報共有が浸透し、消費者がネット上で情報発信や情報シェアを行うことは、すっかり日常になった。これによってクチコミは、「ある程度」意図的に仕掛けられるものとなった。「クチコミを起こす人」を見つけられるようになったからだ。彼らにアプローチできれば、好意的なクチコミをネット上に広げて、「ばったり感」の下地にすることも不可能ではない。

「おすみつき」とは、「お墨つき」のことで、「影響力のある第三者」が関与、推奨することで、「あの人が薦めるんだから問題ない!」と感じさせることが必要(信頼性)。
インフルエンサーとは、何らかの専門領域を持っていて、その領域で一定以上の知名度、影響力を持っている人のこと。
インフルエンサーを戦略PRに巻き込むには、とにかく誠心誠意「人間関係づくり」を丁寧に行うこと。そうして、インフルエンサーの協力を取り付けることに成功したら、調査の監修、コンテンツや商品企画などの監修、セミナーでの講演、イベントへの出演、アレンジしたマスコミ取材への対応、といった活動をお願いすることが可能になる。

しかし、カジュアル世論の形成がうまくいったとしても、それだけではモノは売れない。

カジュアル世論と広告の連動
「戦略PRはカジュアル世論をつくってニーズを掘り起こす。広告はその解決策を提示する」という連動が一番うまくいくのではないかと思う。
カジュアル世論を形成することで、消費者に「気づき」を与え、「買う理由」を生み出す。そんな「買う理由ができた状態」の消費者に、「あなたが探している商品はこれではないですか?」と広告する、というわけだ。

 

第4章 「ソーシャルインフルエンス」を生み出す(池田 紀行)

ソーシャルインフルエンスの設計において最も重要であり、すべての考え方の土台になる「自分ゴト化x仲間ゴト化x世の中ゴト化のデザイン」の方法について整理する。

自分ゴト化のデザイン
自分ゴト化されていない情報は仲間ゴトも世の中ゴト化も進まない。
「この情報は自分に必要な(価値ある)情報だ」と感じてもらうことが最も重要な作業になる。
情報があふれかえり、ほとんどのことが無関心、他人ゴトの中で生活している消費者を「自分ゴト化」させるためには、興味のない対象物に「新たな意味づけ」をしてあげなければならない。それがコンテキストプランニングという考え方だ。

仲間ゴト化のデザイン
仲間ゴトを促進させるために最も重要なのは、共有されやすいコンテキストづくり、つまりトーカブル(Talk-able:話したくなる要素)、バザブル(Buzz-able:話題になる要素)なネタになっているかどうかである。人は感情が動いたときにそれを他の誰かに伝えたくなる。誰かに伝えることで感情的なバランスを保とうとするのだ。
僕はそれを「琴線スイッチ」と呼んでいる。面白い、(良い意味で)バカバカしい、インパクトがある(驚きがある、新たな発見がある)、考えさせられる、感動する-。人間には、感情が動くいくつかのスイッチがある。このスイッチを押さない限り。自分ゴト化はされても、仲間ゴト化は発生しない。「誰かと共有したい」という動機が生まれないからである。
話題の共有・拡散は、足し算ではなく掛け算だ。「自分ゴト化」と「仲間ゴト化」のどちらかがゼロになれば、合計はゼロになる。
もうひとつ大切なことは、自分ゴト化され、誰かにそれを伝えたいと思ったときに、共有されやすいコンテンツやフォーマット(シェアブル:shar-ableな仕様)になっているかどうかである。
仲間ゴト化は、偶然の産物ではなく、マーケターによる緻密な「企て」なのである。

世の中ゴト化のデザイン
ツイッターやフェイスブックなどのソーシャルメディアが持つ本来の強みには3つかる。
・拡散性 Spreadable
・共有性 Sharable
・常時性 Always On
情報が次から次へとまるでウィルスのように伝播していく動的な拡散性、共感したり価値ある情報を友人や知人とすぐさまシェアすることができる共有性、そして、いつも隣で一緒にいることができる常時性である。

会話されるニュースをつくる
ソーシャルインフルエンスを最大化させるため重要なのは、「ソーシャルメディアで話題になるネタをつくり、それをニュース(記事)として露出させること」である。

キャンペーンセントリックからオールウェイズオンへ
いままでのキャンペーンセントリック型(短期的なキャンペーンによるアプローチ)を反省し、オールウェイズオン(いつもユーザに寄り添って中長期的なブランドコミュニケーションを図ることでエンゲージメントを高めてくいく)という考え方だ。
新商品のローンチや商品リニューアル、その他シーズナリーキャンペーンごとに知恵を絞って大量の広告予算を投下してきたが、それら施策が「投資」として蓄積されたいない。キャンペーンをおこなえば、企画内容や広告予算に応じてそれなりのバズを発生させることはできるものの、それが次につながらない。1回のキャンペーンでリーチしたユーザーと、そのときだけの関係でなく、それをスタートラインにして関係性を育んでいきたい。次にキャンペーンを打つ場合、前回のキャンペーンで接点のあったユーザーにもう一度告知したり、参加してもらいたい。企業はいま、過去のキャンペーンセントリックな時代に分かれを告げ、ユーザーとの「継続性」のある関係性づくりへシフトしたいと考えているのだ。
短期的なキャンペーンによるバズの最大化を、オールウェイズオンの施策によってつなげることで、「投資」としての効果を蓄積できるようになる。

広告だけで興味を喚起することは難しい
『ブランドは広告ではつくれない PR vs 広告』の中で、
「PR first,Advertising Second.(最初にPR、その後に広告)」
という一節がある。「いきなり広告を打つのではなく、まずPRによって世の中ゴトをつくってから広告を打った方が効果が高いですよ」ということがまとめられている。

瞬間的な話題(ファッド)を長期化(ブーム化)する
話題の寿命(ライフサイクル)について解説する。
話題には、数日で一気に盛り上がって消滅するFad(ファッド)、数か月程度続くBoom(ブーム)、1年程度継続するTrend(トレンド)の3つがある。
また、話題のライフサイクルは話題化のスピードとほぼ同じくらいの時間尾をかけて消滅していく。だから、一気に話題になったものは、その分、寿命も短い。

ファッドをブームやトレンドに押し上げていくためには、「おおやけ」「ばったり」「おすみつき」のポジティブサイクルをまわさなければならない。そのためには、ソーシャルメディアでの仲間ゴト化だけでは不十分だ。いかにマスメディアによる刺激を与え続けることができるか。

話題のエクステンション(拡張)xマスメディアでの継続的露出の掛け算がソーシャルインフルエンスを長寿化させる肝になる。

 

 

読書 京井 良彦 『つなげる広告 共感、ソーシャル、ゲームで築く顧客との新しい関係』 アスキー新書

京井 良彦 著 『つなげる広告 共感、ソーシャル、ゲームで築く顧客との新しい関係』 を読む。

”つなげる広告”
つなげる広告

ソーシャルメディア時代へ対応を進める企業
米調査機関のフォレスター・リサーチによれば、企業のソーシャルメディア対応の成熟度は、業種、地域、顧客層の違いに関わらず、共通の変化を遂げていく。

(5) ラガード(遅延者):休眠段階
これらの会社は非常に保守的で規制が多い。または興味がない。

(4) レイト・マジョリティー(後期多数採用者):テスト段階
ソーシャルメディアを導入したが組織のポケットの中で開始したに過ぎず、混沌が分散している段階。

(3)アーリー・マジョリティー(前期多数採用者):調整段階
マネジメントがソーシャルメディアから得られるメリットとリスクを認識し、リソースを割いて管理を始めた状態。分散した混沌から中央集権的なアプローチになり、組織全体で一貫性を持つようになる。

(2)アーリー・アダプター(初期採用者):拡大、最適化段階
スターバックスや、コカ・コーラ、家電量販店ベストバイのように、リーダーがソーシャル化した各組織を連携させ、マーケティングにおけるソーシャルメディア活動の最適化と統合化を行っている。

(1)イノベーター(革新者):社員への権限移譲段階
オンラインシューズ販売のザッポスなどごくわずかな企業だが、全関係社員がトレーニングを積み、ソーシャルメディアを活用するのに権限委譲がされている。

このように企業がソーシャルメディア時代に対応しようという動きは、「ソーシャルシフト」と言われ、この流れは加速することはあっても元に戻ることはありません。なぜならソーシャルメディアは一過性の流行ではなく、インフラとして普及していくものだからです。
ソーシャルメディアの浸透は、情報の流れと人間のマインドに大きな変化をもたらします。情報は人を介して伝播するようになり、生活者はこれまでと違った価値観に基づいて行動するようになります。そのため企業と生活者のコミュニケーションスタイルは、大きな転換点を迎えているのです。

広告は「対話」へ。「伝える」ために「つなげる」
ソーシャルメディア上では、価値ある情報ほど関係が構築された人につながりを介して伝わるようになります。情報がつながりの上で伝わるのであれば、企業は生活者とのつながりを持たなければなりません。つながり上のコミュニケーションは、従来型の「一方的に伝える」ことから、「対話の成立」という、より本質的なものになる。
よって、ソーシャルメディア時代の広告には、企業と生活者の本来のコミュニケーションを実現するため、両者を「つなげる」という役割が求められる。
ソーシャルメディア時代のコミュニケーションでは、従来と違うメカニズムが働きます。つながった生活者は他の生活者ともつながっていることを理解する必要しなければなりません。つながりの上を情報がどのように伝播していくかを理解する必要もあります。そして何よりも重要なことは、生活者のマインドの変化と長期にわたってつながり続けることの重要性を理解することです。

「つなげる広告」には、3つの「つなげる」の意味を込めています。
(1)企業と生活者、生活者と生活者をつなげる「関係の構築」の意
(2)その上をバトンリレーのようにつなげて広がる「自走するコンテンツ」の意
(3)単発で終わらない、次につなげる「持続性、継続性を保つ仕掛け」の意

ソーシャルメディア時代では、企業と生活者がつながり、両者が一緒になってブランドの未来を共創していくべきです。広告は3つのつなげる力によって、そんな企業と生活者が対話を続けていく環境を支えていくべきだと思うのです。

友人の声こそ情報フィルター
ソーシャルメディア時代には、いろんなソーシャルツールと人力のコラボレーションで、情報を選別するようになります。逆にここのふるいで落とされた情報は、その時点で価値を失ってしまいます。友人に推薦された情報は、フィルターをくぐりぬけてきたというだけで一定の価値が保証されるので、さらにその友人に薦められる可能性が高まります。
このようにして、価値のある情報だけが、人と人とのつながりを介して流れるようになるわけです。
企業から発信する情報は、超がつくほどの情報過多の中で、共感という友人の推薦を獲得してフィルターをくぐりぬけていかなければなりません。しかし、一度、受け手の共感を獲得すると、「いいね!」やシェアやリツイートという行動を促し、友人にその受け手の推薦とともに自動的に届けられます。新たな友人にとっても、友人からの推薦付きの情報ということで、新たな共感を生みやすいものになっています。
こうして人の共感をまとった情報は、まるで自らの力でつながりの上を走っていくかのように加速度的にどんどんと拡散していくのです。
共感情報の自走パワーは凄まじく、個人が発信する情報が共感の力で拡散し、そういった仕組みを理解していない大企業を揺るがすということも起きている。

広告はプロセス・マネジメントは大事に
ソーシャルメディア上で流通する情報は、完全に生活者によるオーガニックなもので、企業側がコントロールはできません。コントロールが難しいのではなく、コントロールは不可能なのです。これを無理にコントロールしようとすることが原因で炎上などが起きる場合がある。

ブランドは人間になり、物語が求められる
ブランドは、「ベストショット」だけでなく、いい面もよくない面も全てが見られるようになってしまいます。要するに、ブランドも人と同じように長所もあれば短所もある、キャラクターとでも言うような愛すべき「人格」ができるということです。企業活動やコミュニケーションの全てがさらされることによって、そのブランドには人間のような性格付けがされていくわけです。逆に言えば、日ごろの活動や、コミュニケーションが積み上げられて形成される人格こそが、ブランドそのものになるということでもある。
こうなると、「何を言っているのか?」という情報発信の内容もさることながら、「誰が(つまり、どんなブランドが)言っているのか?」ということがより重要になってきます。

企業のフェイスブックページがタイムラインに移行したことで、ブランドはより人間的な人格が表れるものになりつつあります。タイムラインを通じてブランドのヒストリーを見ることにより、人間に一生があるように、ブランドにも一生があることが感じられるようになるのです。

企業やブランドの広告が生活者との信頼を築いていくためのコミュニケーションは、常にこのようなブランドヒストリーの延長上になければならない。
ソーシャルメディア時代には、企業やブランドが日ごろどういう活動をしているかの積み重ねがコミュニケーションの前提になるため、脈絡もなくセールスメッセージを発信したり、表面的なイメージだけを取り繕ったりしてもあまり意味がなくなります。
こうなると広告は、人格を持つ企業やブランドの人生の一部に接してもらうという意味が強くなります。企業やブランドの人生という物語に接してもらい、共感してもらい、つながっている友人や知人とどんどん共有してもらうということです。
ブランドは人間になり、広告は生活者をその人生の物語に案内するという役割を持つようになるわけです。

読書 網野善彦+宮田登 『歴史の中で語られてこなかったこと おんな・子供・老人からの「日本史」』 歴史新書 洋泉社

網野善彦+宮田登 『歴史の中で語られてこなかったこと おんな・子供・老人からの「日本史」』を読む。

”歴史の中で語られてこなかったこと”
歴史の中で語られてこなかったこと

第一部 歴史から何を学べばいいのか?

「囲炉裏バア」とアゼチのオカカ
院政という制度は法的には本来なかったのです。ただ、太上天皇(だいじょうてんのう)が天皇と同じ待遇を受けるという中国大陸の法制にはない規定が、日本の律令にはあったので、それが前提となってこういう制度ができた。
表の公的な行事は天皇がやっていても、実質の公の政治は、隠居した天皇、上皇=院が握っているわけです。もうひとつ、日本の場合、天皇の母や皇后、内親王である女院の発言権が意外に強いのです。
鎌倉時代の天皇家領は全部女院の名前が付けられています。八条院領、宣陽門院領、七条院領、昭慶門院領、みなそうです。つまり経済的な力を女院が持っていたのです。

武士の社会には後見役みたいな形で実権を握る「ご隠居」がいます。

「水戸の隠居」の場合には、また少し別の意味があるかもしれませんが、「大御所」はまさしくそうです。よく江戸後期の徳川家斉の時代を「大御所時代」といいますが、彼は将軍職から退いて隠居したあとも隠然たる力を持って幕政を抑えていたので、こういわれているのです。そうしたケースは秀吉と秀次、家康と秀忠のときにも見られました。鎌倉期の北条氏の得宗と執権の関係もそうです。同じようなことは室町幕府にも見られます。

神の姿が、老人のスタイルを取る。つまり、老人でなくては神様としては通用しない。民俗学的事例でいうと「竈を分ける」というかたちで、長男を残して、二、三男を連れて老人が隠居する。隠居は、「隠居免」の土地を持つけれども、同時に先祖の位牌を持って家を出ていくわけです。そしてさらに二、三男を養育し、二男が独立すると、また三男を連れてその家を出ていく。

末子相続になるわけです。

竈は家の象徴だからその火を分けて持っていくこともある。先祖の位牌を持っていくことは重要で、そうした事例を残している場合は、老人のもっている祭祀権との関わりが注目されます。また老人が、爺さんなのか婆さんなのかも重要です。

囲炉裏から「囲炉裏バア」という妖怪が出てくる。妖怪がいるから囲炉裏の火は消してはいけないし、囲炉裏に不浄なものを入れたりしてはいけない。
囲炉裏の火は竈の火とも通じて家の象徴です。その火を支配している神様、つまり竈神じゃ「三宝荒神」という道教的な陰陽道の神格です。

囲炉裏は、家の中のいちばんの中核の場所ですが、そこを女性が押さえているわけです。家の中のもうひとつの重要な場所である納戸は、夫婦のセックスをする部屋でもあると同時に、蔵でもありますが、これも女性が管理しています。
中世には土倉や借上などの金融業の経営者に女性が多いのですが、これは蔵を管理するのが女性だという慣習を背景にしていると思います。
それから家の権利については、意外に女性が強い権利を持っています。家地の売買については、少なくとも中世の前期は女性の名義になっている場合が非常に多いのです。

囲炉裏には横座と嬶座と客座と木尻の四席があり、主婦は嬶座と決まっていた。嬶座に座ってヘラを握りご飯を配分する。また財布も握っている。「ヘラを握る」ということは、主婦権を持つという考え方があります。そのヘラを譲るということは、嬶座から引退することです。主婦が嬶座に座るのは、普通三十代の中ごろでしょう。「シャモジ渡し」ともいいます。

一般的には、嬶座を譲るに至るまでの嫁と姑との確執が非常に激しい。「姥捨て山」の表現のように、捨てられるのはお婆さんです。中国では60歳の男主人を捨てますが、日本では姥捨ては「姥」というのをわざわざつけている。お婆さんを捨てる形にしている。嬶座を奪われて、嫁が権限を握ったところで捨てられてしまうわけです。
ところが、嫁と姑の中に入った息子は、姥捨てのため母親を背負いながら山奥へ行った。そのときに母親は、我が子が帰り道で迷子にならないように柴を折っては捨てていく。そのことを息子が知って母の愛を知り、母親を捨てることをやめて連れ帰るという美談になるわけです。

誤解されている二男・三男のあり方
先ほどの能登の「アゼチ」と「アゼチオカカ」は、どうも並行していて、爺が死んでもオモヤ側はアゼチの婆、オカカを以前と同じ扱いにしています。爺と婆が一緒に隠居をしているわけです。しかし能登でも隠居するときは、二、三男を連れていきます。
面白いのは、時国家のような大きな家だからかもしれませんが、息子たちをみんな都会へ出して商人にしています。宇出津という都市に家を持たせて時国屋と称します。石高はないので、確かに二、三男は身分的には「水呑」になりますが、決して貧しいわけではありません。「水呑」でも金持ちの商人です。土地は分けないのです。

都市や村落で展開されている日本社会の非農業部門は、われわれが思っているよりもはるかに広く、比重が大きいのです。ところが百姓は全部農民だから八割が農民だ、という今までの感覚、間違った思い込みで江戸時代を見ると、その実態がまるでわからなくなります。実際、能登の百姓の中には、農業以外の生業に携わる人がたくさんいるわけで、水呑の中にも商工業者や廻船人の水呑、つまり都市民が非常に多いのです。土地を持たない商人、手工業者は身分的に水呑になりますし、百姓といっても農業以外の生業を主な飯の種にしている人たちが多いのです。ですから隠居がアゼチをしたときに連れていった二、三男の進む道も非常に広いといえます。

「80%が農民」というのは絶対におかしいのです。「百姓が80%」なのです。それが農民が80%になったのは、「壬申戸籍」が百姓・水呑をすべて農にしてしまったからです。その結果、明治7年の公式統計が、農が約80%になるのです。だからこの「百姓=農民」という常識は、百年にわたって日本人の頭に刷り込まれてきたわけです。

十分な能力を持った「女相場師」
江戸時代の妖怪は女の人が多い。今までの解釈では、虐げられた女性が、家内で中傷され三角関係を清算されたあげくに殺されて怨霊になるというストーリーが多かった。しかし、怪談の中には女性がその家の分を守らずに、家のおカネを勝手に使い、相場につぎ込んで稼いだりしたことで罰せられ、その怨霊が出てくるという怪談も意外に多い。

だいたい商家では女性の地位が高い。女将という言葉が使われる世界は、宿屋や料理屋のように、動産の世界です。商業や交易、交通の世界に関わりがあるわけですが、公の世界にはみな不動産=土地がからんでいます。
税金を出すのも建前は男です。土地が税金の基礎になっているから、公は男の世界になるわけです。しかし、裏の世界、動産の世界での女性の力は大変なものだと思います。

古い伝統に裏付けられた「接待」と「談合」の歴史
接待の伝統は非常に古くて、酒迎をはじめ、訪れてくる貴人に対する接待は儀礼として不可欠なものでした。中世の荘園経営も、正月の説には百姓と一緒に酒を飲むことが代官たちの不可欠な仕事でした。正月二日には魚肴を市場で買い、トウフを作って清酒、白酒をたくさん買い、代官は百姓に大盤振る舞いをします。この費用は、必要経費として年貢の中から支出しています。それから、年貢を倉に納めたときにも酒を出し、祭りのときは必ず代官が寄付をしています。それはみな年貢から控除されるわけです。

百姓と一緒に酒を飲むのも、百姓に文句を言わないで租税、年貢・公事を払ってもらうためであり、有力者への接待は荘園に余計な口出しをしないようにしてもらうためだったわけで、これがうまくできないと、代官として合格ではなかった。15世紀になると、市場は都市になり、飲み屋ができて、代官はそこで近辺の有力者を接待するようになります。しかし、あまりこれをやりすぎると罷免されますから、そこにはおのずから適当な節度があります。

神仏がかかわった「談合」の現場
「相談」も「談合」も中世以来の言葉です。
東京の団子坂の由来も、談合とつながっています。あの坂の奥に根津権現の古社があり、神社へと至る道が聖域と俗界との境界になっている。相談事を村境でするのは「境界争い」の場合に生じますが、その場合の談合形式は、聖のテリトリーである境界で両者が話し合いをして決着する。日本には、元来聖なる場所で談合するという伝統があったらしい。その場合には、接待や饗応、その際に奢りという言葉で表現されるような、神様の前で皆共食する会合があった。ですから、聖域で「神人共食」の場の談合は正当なものだった。

 

読書 森 茂暁 『建武政権 後醍醐天皇の時代』 講談社学術文庫

森 茂暁 著 『建武政権 後醍醐天皇の時代』 を読む。

”建武政権”
建武政権

第一章 鎌倉後期の公武交渉
得宗専制の末期症状
約150年間続いた鎌倉幕府の政治過程は、ふつう将軍独裁・執権政治・得宗専制の三段階をもって理解されている。このうち時間的に見て最も長い得宗専制は北条時頼のころに萌芽し、蒙古来襲を乗り切った子時宗の時期にいたって飛躍的な深化をみせ、その子貞時のとき最高潮に達したといわれている。
北条氏の家督を中心に一門、被官といった一部の者たちによって運営された得宗専制の強化は、当然のことながら一般御家人の間に根強い反発・抵抗を増幅させていった。貞時は幕府支配の基礎たる御家人制の疲弊に気付き、金融業者の犠牲のうえに永仁5年(1297)の徳政令を発布し、その再編に最大限の努力を傾けたが、ときすでに遅く、かえって経済界を混乱させるのみであった。
応長元年(1311)の貞時の病死は得宗の支配下に鬱積されたさまざまの矛盾をいっせいに表面化させた。確かな主導者を欠如した幕府内部の権力闘争、寺社統制の失策に伴う宗教界の敵対、悪党の跳梁、いづれも幕府の存立を根底から揺すぶった。逆に後醍醐天皇の側から見れば、倒幕のためのこよなき条件が整うことを意味したのである。

第二章 後醍醐天皇前期親政
1 倒幕運動の展開
後宇多院政の廃止
後宇多上皇が院中に院を聴いたのは二期十年にわたる。
後二条天皇の践祚とともに開始された第一次後宇多院政は、「乾元・嘉元の間(1302~06)、政理乱れず」といわれたように善政の誉れ高かった。その院政が晩節ととのわなくなったきっかけは、まず後宇多上皇の皇后 a遊義門院姈子(後深草皇女)が徳治2年(1307)7月、38歳で没したことである。このとき上皇は出家、大覚寺に入り、法諱を金剛性と称した。皇后の逝去に加えて翌年8月には将来を嘱望した後二条天皇が24歳の若さで早世したのである。たび重なる悲運に遭遇した法皇は政務への意欲を急速に喪失していった。同閏8月3日にはついに所領を第二子中務卿 尊治親王(のちの後醍醐天皇)に譲与してしまう。
尊治親王はこの年の9月19日に立太子、まさに政治舞台への第一歩を踏み出すわけであるが、、同親王登場の背後には父後宇多法皇の意図が大きく働いていた。
こうして世をはかなむ法皇は真言密教へのめり込んでゆく。徳治3年1月、東寺に幸し、前大僧正善助を大阿闍梨として秘密灌頂を受けた法皇は、同2月、西院御影堂において「六箇御願」を立て、東寺を平安初期の姿に復興する事業に、信仰心に裏打ちされた治天下としての全精力を傾けることになる。
法皇には嫡孫をもって皇統を継がしめるという意図があったため、すでに東宮には邦良親王が据えられていた。法皇にとって後醍醐天皇の即位は、邦良親王の成長を待つ間の暫定措置にすぎなかった。(当時の「一代の主」の言葉はそれを象徴する)。しかしこの法皇の宿願は、その崩御と共ともにほぼ反古となる。

室町院領
天皇家の経済は一に皇室領によって支えられた。皇室領荘園は全国に六、七百か所におよんだといれている。そのなかで代表的な大規模荘園群が長講堂領、八条院領、七条院領、室町院領などである。
持明院・大覚寺両統が熾烈な分裂劇を演じた理由の一つに両統の荘園支配に立脚した経済力の均衡性が指摘されている。持明院統は文永4年(1267)に宣陽門院(後白河皇女覲子)から後嵯峨院を経て、180か所におよぶといわれる長講堂領を伝領し、いっぽう大覚寺統は弘安6年(1283)、安嘉門院(後高倉皇女邦子)より百数十か所におよぶといわれる八条院領を手中に入れていたのである。この二つの荘園群はおのおの経済的意味での大黒柱であった。

室町院領といわれる荘園群は、承久の乱後これを獲得した後高倉院から、まず皇女式乾門院利子へ移譲され、さらに利子はこれを宝治元年(1247)、猶子にむかえた中書王宗尊に伝えようとしていた。
式乾門院は、建長3年(1251)に没するが、その2年前の建長元年、処分状をしたためておいた。それによって、件の荘園群は一期ののちは、宗尊に譲るという条件付きで姪の室町院に伝えられることとなった。この宗尊とは後嵯峨院の皇子で、鎌倉幕府の執権北条時頼の要請によって、建長4年(1251)、11歳ではじめての皇族将軍として東下した、かの宗尊親王のことである。
将軍宗尊はやがて得宗北条時宗との間に摩擦をひきおこし、文永3年(1266)7月、将軍の地位を子惟康王(3歳)に譲り、15年間におよぶ鎌倉生活を終え帰京することになる。問題の荘園群は予定通り宗尊に移譲されるかにみえた。ところが、当の宗尊は文永11年(1274)、33歳で没したのである。このため、せっかくの式乾門院の遺志は実現されぬまま消滅した。一期分としてこれを預かった室町院も正安2年(1300)5月、73歳で没したが、彼女がこの荘園群に対する措置をまったくとらなかったことが、紛争の種をまくことになった。のちに争奪の対象となるこの荘園群を室町院領という。
正安3年1月、後二条天皇の践祚に伴い、父後宇多上皇の院政が開始される。室町院領はごく自然のなりゆきとして宗尊の娘瑞子(土御門姫君)に帰した。ところが翌年、瑞子は准三后に列せられ、永嘉門院という院号をたまわり、後宇多上皇の猶子となる。この措置は女院の伝領する室町院領を目当てにした策略だと考えられている。むろん、持明院側は強硬に異議を申し立てた。そして結局、幕府の調停によって正安4年8月、室町院領は両統に折半された。このとき大覚寺統は二十余カ国にわたる53荘郷を獲得した。
室町院領をめぐる大覚寺側の攻撃は、文保の和談をたてに花園天皇を退位させて登場する後醍醐天皇の治世となって以降、再燃する。
両統の争いは持明院側から関東に愁訴された。このとき幕府が正安4年の折半決定を支持したため、天皇自身これ以上の介入を断念せざるを得なかった。

無礼講
正中の謀議は無礼講(あるいは破仏講)と称された乱痴気パーティーのなかで準備された。

およそ近日或る人云く、(日野)資朝、俊基等結衆会合し乱遊す。或いは衣冠を着せず、ほとんど裸形にして、飲茶の会これあり。これ達士の風を学ぶか。(中略)この衆数輩あり。世にこれを無礼講の衆と称すと云々。(花園天皇宸記)

正中の変
元亨4年(正中元)9月23日の北野祭を期したクーデター計画の概要は次のようである。北野祭では例年喧嘩がつきもので、その鎮定には六波羅探題の武士が出動する。このすきをとらえて北方探題 北条範貞を誅殺する。南都の衆徒は交通の要衝、宇治と勢多を固める。これら一連の指揮は資朝・俊基が行い、近国武士を多く味方に引き入れる。
しかし、この企ては一味同心したはずの土岐頼員の密告によって水泡に帰してしまう。頼員は同族の多治見国長を通して、資朝の奉じた後醍醐天皇の綸旨に接したのであったが、ことが成就しそうになく、関東の恩にも背くわけにはいかないので、妻の父である六波羅奉行人斎藤俊行にいっさいをばらしてしまったのである。
後醍醐天皇はこの事件との係累を否定した。事前には「関東執政しかるべからず、また運すでに衰ふるに似たり。朝威はなはだ盛んなり。あに敵すべけんや。よって誅さるべし」と語気強く倒幕意志をあらわにしていた天皇が、一転して「主上すこぶる迷惑し給う」と態度を変えたのである。

洛中の支配
荘園制の体制的発展が「王侯の宿営地」としての古代都市京都を政治・商業の中心都市=中世都市へと転換させたのは平安時代の後期院政期とみなされている。商品流通・貨幣経済の中心的地位を獲得し、公家をはじめ寺社権門を集住させた京都を王土思想をもとに掌握することは、後醍醐親政にとって喫緊の大問題であったと言える。
後醍醐天皇は親政開始と同時に、きわめて厳しい専制的姿勢でこの課題(洛中の土地を人の支配)に着手した。元亨2年(1322)に発せられた神人公事停止令・洛中酒鑪役賦課令は親政全般を貫く基本法令として注目される。
前者は洛中を中心に集住する寺社権門に属して、幅広い商業活動をおこなってきた神人の本所に対する諸公事を免除するというもの、後者はこれまた諸自社の神人として交易にたずさわっていた洛中の酒屋を、内廷経済の基盤として再編しようとしたものである。
この二法令の眼目は洛中神人に対する寺社権門の本所支配権を断ち切り、彼らを天皇の供御人として編成することにあった。
以上の神人に焦点をあてた施策が「人」に対する支配とみれば、いまいっぽうの「土地」に対するそれは地口銭の賦課に求められる。
地口銭とは朝廷・幕府などの公権力が、洛中の商工業者に対し地口、つまり道路に面した部分の長さに準拠して尺別に賦課した臨時課税である。この課税は商業都市としての洛中の特質にもとずくものである。

第三章 建武政権の成立と展開
2 新政の諸相

新政の理念
元弘3年6月5日、二条富小路内裏に還幸した後醍醐天皇は「自立登極」し、重祚の礼におよばなかった。2年前皇居から脱出した天皇にとって以降の幽囚の日々はあくまでも遷幸にすぎなかったのである。偽朝たる光厳朝下の任官・叙位は停廃されねばならず、もとのメンバーが次々と復官した。
帰京後、天皇がみせた政務に対する意欲にはすさまじいものがある。『梅松論』にみえる「古の興廃を改て、今の例は昔の新儀なり。朕が新儀は未来の先例たるべし」という一文は新政の基本理念を端的に表現している。新しい政治が「延喜・天暦のむかしに立帰」ったと描かれるのもいわれなきことではない。後醍醐天皇の新政府の真面目は、徹底的な天皇親政のしくみを採用したことにある。このため院政はしかれず、摂関・太政大臣もおかれなかった。
後醍醐天皇は政務を担当するにあたり、まず記録所、ついで恩賞方・雑訴決断所などの官衙を開設し、親政体制を支える機構をととのえる。
天皇に課された最大の難問は、公武両社会をいかに統一的に支配するかであった。官制の特質も究極的にはここに帰着する。

読書 勝俣 鎮夫 『一揆』 岩波新書

勝俣 鎮夫 著 『一揆』 を読む

"一揆”
一揆

一 一揆とはなにか
1 一味同心
多分の儀
中世寺院の集会のありかたは、原始仏教の議決方法「多人語毘尼」に由来する多数決制においてもうかがえる。興福寺、東大寺、金剛峰寺、東寺などの中世を代表する諸寺院はもちろん、金剛寺、西大寺、法隆寺などの多くの寺院において、その集会の議決方法として多数決制がとられている。当時、多数決は「衆議評定の時は、多分に付きてその沙汰あるべし」とか「多分の衆議に随い評定すべし」などとあるように、「多分の儀」といわれた。評定集会のメンバーは各人が公正な意見を主体的にのべつくした後、多数決によって議決したのである。
そして、これらの評定集会の場合、多数決は、当時「合点」といわれた投票による表決方法でおこなわれている。

一味契約状
これらの集会の議決によって決定した事柄は、室町時代になると一揆契約状という表現もあわられるが、多くは一味契約状という起請文形式の文書によって残されている。そしてこの議決の末尾には「一同」「一味同心」「一味」「一揆」の結果として決定したことが明記され、その遵守すべき規範としての効力がうたわれている。
会議のメンバー全員が主体的に公平な意見を述べることを神に誓約して、そこでなされた議決が一味同心の議決であった。
このような性格をもつ一味同心の評議の議決方法は多数決を必然的にとらざるをえない。そして、このような一味同心のもとにおける多数の意見の一致は、道理すなわち正義でありると考えられたために、その決定が一味同心の決定とされたのである。

神慮としての決定
意思決定に際し、なぜ一味同心の決定をつくることを至上目的にしようとしたのであろか。それは、彼らが一味同心、すなわち一揆の裁断は、正義であるとともに、特殊な力をもつと確信していたからにほかならない。また、これをつくる人びとのみならず、当時の人びとが一揆の裁断に、他の決定と異なる独自の効力を認めていたからである。そして、この特殊な「一味同心」「一揆」の決定が特殊な力をもつという意識の背景には、一揆の決定は「神慮」すなわち神の意志にもとづくという観念が大きく作用していたと思われる。

2 一味神水

神水を飲む
「一味」「一味同心」の状態は、どのようにしてつくられたのかというならば、それは「一味神水」という儀式を必要とした。この一味神水という行為は、それに参加する全員が神社の境内に集合し、一味同心すること、その誓約に背いた場合はいかなる神罰や仏罰をこうむってもかまわない旨を書きしるし、全員が署名したのち、その起請文を焼いて神水にまぜ、それを一同がまわし飲みするというものがこの時代のオーソドックスな方法であった。

よるべの水
この神水は、神に供えられた水などをさし、古くは「よるべ(寄辺、寄方)の水」ともいわれた。これは、神前におかれた器に入れた水で、この水には神霊が宿っていると考えられていた。
この神水を多数の人が神前でわかちあって飲むという行為には、そこに神と人、人と人の共食共飲の観念が存在した。わが国では、非常に古くからの祭りの際、直会(なおらい)といって、祭りの奉仕者が、神事終了後、神の供えられた酒や食物をおろしておこなう宴会が祭りの重要な行事の一つとして存在している。

共同飲食
共同飲食の観念を媒介とすれば、神水を飲むという行為は、文字どおり神と人、人と人の間を「一味同心」することであった。
神水を飲むというこの誓約方式は、たんに誓約を破ったものは神罰をこうむるというだけのものではなく、それを遵守して履行する人間は、その限りで神と一体化しているという意識が存在した。それゆえ、「一味神水」は、それぞれの人が、神と一体化したという意識に支えられた集団を作り出したのである。

金打(きんちょう)
誓約のさいにその誓約者が身の回りの金属器具を打ちならし、音声で誓約するもので、武士は刀、僧侶は鉦、女性は鏡を打ちならした。
金属器を打ちならす行為は、本来神を迎える、または呼び出す行為で、誓約をおこなうさい、神をその保証人として立ち会わせるために金属器がうちならされたと思われる。これは、金属器を打つ音によって神が出現するという呪術的信仰に基づいておこなわれた誓約方式であった。

三 変身と変相
1 百姓一揆の出立ち
一揆のユニホーム
百姓一揆のユニホームは、多くの場合蓑笠であった。江戸時代の百姓一揆はその初期には、村役人層を代表とした越訴型が多かったが、やがて広汎な一般農民層が参加する強訴や打ちこわしを主とする型へと展開する。この型は通常、個々の村落をこえた全藩規模の百姓が領民の意識で団結したもので、全藩一揆といわれる。さらに一八世紀後半になると、それぞれの支配領域をこえた広域の一揆もおこり、この時期の一揆は、商品流通の展開によって生み出された貧農および半プロレタリア層が主体となって、世直し的性格をおびるようになる。
このように、百姓一揆の参加者の姿は、蓑笠姿だけででなく、乞食姿や非人姿をとることが知られている。一揆に参加する際にこのような異形姿にその姿を変えて参加するということは、非日常的な「場」、異常な「場」として一揆に参加する人びとの精神のありかた、その集団意識構造と、より強く結びついている。

その人間の姿・形は、その人間の社会的存在としての身分、階層、職能などを表示していたのであり、前近代社会では、とくにこの関係は厳しい社会秩序として存在していた。
中世社会の成人式をすませた男子は、髻をゆい、烏帽子をかぶることによって、成年男子であることを表示した。この髪型がその存在を証明したのであり、髻を切られることは、最大の恥辱であって、髻を切ることが首を切ることと等価値と意識されていた。
女性は長い髪を持つのがその標識で、髪を短く切ることは、女性を女性でなくしてしまうことであった。

四 変革の思想
1 徳政一揆
一揆のスローガン
15世紀、近畿地方を中心に、各地に土一揆が蜂起したが、その一揆が要求したものは、ほとんど「徳政」であった。土一揆は、「徳政と号して」蜂起した。
中世社会の「徳政」の本質は「復活」にある。

借りの姿
わが国の古代社会の土地売買の「売る」の語の検討をされた菊地康明氏にようれば、所有権の完全な移転を意味するものではなく、請戻し・買戻しが、つねに前提とされていた。また、中世社会における土地売買形態は、元金を持参することによって請戻す本銭返し、期限付売却である年期売などにみられるように、土地の有期的、もしくは請戻し留保付売買がむしろ一般的であり、「取戻し不能の売買、確実に保護される債権」はむしろ「不自然な売買、特異な貸借」であったこと、また、没収地になお潜在する、もとの持主(本主)の再給与期待権などの存在により、中止社会の人びとにとって所有の移動は「仮の姿」であると意識されていた。

読書 神谷 和宏 『ウルトラマンは現代日本を救えるか』 朝日新聞出版

ウルトラマン
ウルトラマンは現代日本を救えるか

神谷 和宏 著 『ウルトラマンは現代日本を救えるか』 を読む。

第1章  1960年代 「大きな物語」とウルトラマン

超越者としてのウルトラマン -1960年代「イデオロギーの時代」の中で-
初代ウルトラマンと後のウルトラマンたちとの違いは、超越性にあります。人間としての弱さや未熟さ、さらには苦悩すら、ほぼ露呈することなく、超越的なキャラクターとして描かれたウルトラマン=(人間時の)ハヤタ。
かつて、神の存在が信じられていた時代には、大衆が神という一点へ信仰の気持ちを向けることで(社会のベクトルが一方向に向き)階層や秩序が成り立っていたが、神への信仰が迷信と化した時代においては、イデオロギーが(人々を統括するような)超越性を持つ。

神の不在が暴かれた近代社会では、人間ではなく、何らかのイデオロギーが超越者のごとく大衆の頭上に掲げられ、そのイデオロギーの実現に向けて人々が結集するという構図が見られました。
このように、王権やイデオロギーが健在であった時代、人々は自分たちを統べる超越者の存在を認めます。『ウルトラマン』が登場した1960年代は、「政治の季節」、イデオロギーの時代でした。
大衆からその権威を疑われることのないウルトラマンと科学特捜隊。彼らが超越者として存在できたのは、イデオロギーに満ちた60年代という時代性と無関係ではない。

第2章 1970年代 ポストモダンのウルトラマン

臨界点としての1970 太陽の塔とウルトラマン
「万国博覧会の太陽の塔とウルトラマンが似ている。」という指摘が古くからある。(仏文学者 巌谷国士)1970年に開催された万国博覧会のテーマは「人類の進歩と調和」であり、岡本太郎氏はその表象となるオブジェの制作を求められましたが、彼があえて調和に反発して制作したのが「太陽の塔」である。人類が一定の方向に収斂されるかのように調和するという社会の有り様は、岡本の目指すところとは正反対であり、そこであえてあおの左右非対称、調和というコンセプトとはまるで真逆の顔を持った太陽の塔を作った。(あの顔つきは、べらぼうである。)
ウルトラマンをデザインした彫刻家の成田亨氏はコスモス=秩序の象徴として、ウルトラマンのマスクを設定しましたが、作中のウルトラマンはコスモスであると同時にカオス=混沌をも決して排除せず、むしろ分かちがたいコスモスとカオスの間に立つ存在でした。

この万国博覧会は、戦後日本のシステムが「完成」したことへの国民上げての祝祭であり、「戦後日本社会のある種の飽和点を指し示す事件である。」
その理由として、近代における万国博覧会の役目を、魅力的な商品や、革新的な技術、あるいは珍しい異文化という、「イマ-ココ」の「外部」にあるものを見せて、それらを獲得するためのモチベーションを国民に与えることであるはずなのに、1970年の日本社会ではそれらが既に日常のものとなっており、すなわち「イマ-ココ」の「外部」などもはや存在しないことを万博は示したのだ。万博が「国土システムの飽和点、臨界点-最高潮であると同時に死へと歩み始める瞬間」である。(社会学者 北田暁大)

近代とは、神や王の神性を否定し、その代わりに理想の実現という「大きな物語」を設定することで、ツリー的な秩序を維持する時代でした。
戦後の日本ではアメリカが、豊かな国という、わかりやすい「外部」として存在しました。そして、その豊かさを手に入れようと、国民が意識的、あるいは無意識的に「外部」のモノやテクノロジーを取り入れ、自分たちも豊かになろうという「大きな物語」を生きていきました。しかし、そのような豊かさ、すなわち「外部」はもはや、自分たちの内側にあるとわかったとき、国民が同一の外部に向かうベクトルは消失し、代わりに、個々が経済的豊かさを求めることで、やはり「大きな物語」は解体されていくほかなかったのです。

この「大きな物語」崩壊後の『ウルトラマン』シリーズの世界観は、以前の作品の世界観と大きく異なり、上位者の機能不全を招き、リーダーとフォロワー(権力者と服従者、国家と国民)という従前の秩序は解体していきました。

超越者から、未熟な超人へ
人間の上位に位置する超越者として描かれていたウルトラマン(=ハヤタ)と異なり、『帰ってきたウルトラマン』以降の主人公たちは、成長途上の「未熟な超人」として描かれました。

ウルトラマンや防衛隊の面々は、怪獣と戦う以前に、理解のない上司や、大衆と向き合わなければなりません。かつて超越者として存在したウルトラマンや、何だか大らかでさえあった、科学特捜隊の面影はすっかり失われてしまいました。

「光=正義/経済的繁栄=正義」の崩壊
長らく、光とは正義の象徴でした。ウルトラマンの出身地は「光の国」と謳われています。また、光は物質的繁栄の象徴でもありました。都市はその繁栄に比例して光を増します。光はまたエネルギーの消費の象徴でもあり、輝きが途絶えない=眠らない街の登場は、24時間エネルギーが消費されていることを示します。夜でも光り続ける大都市。しかし、そんな経済的繁栄がずっと右肩上がりでいくのでしょうか。エネルギーは無尽蔵なのでしょうか。そのようなことはなく、日本はオイルショックというエネルギー問題に直面し、経済成長は終焉します。

ポストモダンのウルトラマン
「大きな物語」に向かって国民が収束するのが近代であり、「大きな物語」が崩壊した後の世界が「ポストモダン」である。(哲学者 ジャン・フランソワ・リオタール)70年代の4本のシリーズ『帰ってきたウルトラマン』『ウルトラマンA』『ウルトラマンタロウ』『ウルトラマンレオ』は、ポストモダンのウルトラマンであったといえる。「未熟な超人」が「大きな物語」喪失後の日本社会の問題と対峙しながら成長し、超人として人間に何かを伝え、去っていく物語であったと言えます。

オイルショックと大きな物語の終焉
オイルショックは、長期にわたった高度経済成長に終止符を打ちます。オイルショックによる物価高騰は製作費を圧迫しセットを作る費用を抑えざるを得ず、『ウルトラマンレオ』の初期に等身大の宇宙人の描写が増えることになります。
怪獣は巨大なものとして設定されたことで、人々が見上げるべき存在であり、人々に共通して立ちはだかる壁、災厄などの表象として機能しました。
しかし、オイルショックの煽りを受けて、巨大な怪獣の出現シーンが抑えられることで、人々に共通の敵が存在する「大きな物語」の時代が終焉しつつあることを計らずも表象するものになりました。
日本に怪獣が頻出する理由が、「エネルギーに満ちていたから」であり、経済発展していく日本の光と闇を映し出すために怪獣の出てくる物語が構築されてきたのだと考えるのならば、オイルショックというエネルギー危機が、戦後一貫して成長してきた路線に歯止めをかけたとき、そこではもう怪獣が日本に現れる物語は構築される理由を失ったかもしれません。

第3章 1980年代 軽佻浮薄の時代 -ウルトラマンの敗北

ウルトラマン不在の80~90年代 -軽佻浮薄の時代
15年超にも及ぶ「ウルトラマン不在」の期間。最大の理由は制作サイドの問題かもしれませんが、世間が「ウルトラマン的なもの」を欲しなかったからこともあった。
1980年代は、バブル経済への道程でもあり、政治について熱く語るおうな前時代的なスタイルは、「真面目ぶっている」「何だかお堅そう」なイメージとなり、軽佻浮薄を求める世間の風潮とはかけ離れていくようになりました。その時代ごとの政治性が底流する『ウルトラマン』が成立する土壌は失われていまった。

第4章 1990年代 復活するウルトラマンと大いなる闇

環境問題の使者としてのウルトラセブン
単発とはいえ『ウルトラセブン』の続編が作られたことは大きな衝撃でした。
『ウルトラセブン 太陽エネルギー作戦』(1994年)は太陽光発電に代表するクリーンエネルギーの普及を狙う通産省とのタイアップで制作されたものです。ウルトラセブンは太陽をエネルギーとする、太陽の象徴のように描かれます。バブルという酔狂のトンネルを脱し、「80年代的なもの」すなわち「軽佻浮薄」を一掃し、人々が政治性を再び内包するようになった時代だからこそ、『ウルトラ』シリーズは復活しました。