読書 吉岡 忍 『日本人ごっこ』 文春文庫

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”日本人ごっこ”
日本人ごっこ

台湾、朝鮮、中国を領有した日本はパールハーバー奇襲と同じ日、香港から東南アジア一帯にかけての侵攻を開始した。当時のタイ軍事政権と同盟を結んだ日本は、ラングーン側とタイ側の双方から兵力を進め、ビルマを支配した。
しかし、戦況はたちまち悪化した。アジア全体と太平洋に広がった占領地域のあちこちで抗日運動が広がり、他方ではアメリカ軍が反攻に転じた。日本本土は空襲で焼かれ、日本軍は玉砕し、潰走した。そして敗戦。日本人の姿は中国大陸からも、他のアジア地域からも消えていった。
その後、日本人がアジア各地に舞い戻ってくるのは、観光客としてではなかった。観光客より前に、アジア各地に姿を現したのは家電メーカーの社員たちだったはずである。
戦後日本の家電メーカーのなかで、外国にはじめて駐在員を派遣したのは松下電器だった。1957(昭和32)年のことだった。それ以前にも他のメーカーが、社員を短期的に出張させることはあったが、駐在員事務所を構えるような本格的な派遣は、同社がはじめてである。
そして、このとき松下電器が駐在員事務所を置いたのは、バンコクだった。タイは戦争中、他の国々のように日本軍に侵略されたわけではなかったので、反日や抗日の気運も少なかったし、戦乱による荒廃もほとんどなかった。日本のメーカーとしては行きやすかったし、市場としても有望と思われたのである。こうしてタイは、戦後の日本企業が世界に向けて製品輸出に乗り出す跳躍の場となった。

当時の日本では、電化の実際の中心はアイロンや扇風機や自転車用ランプ、それに真空管式からトランジスターに変わりつつあったラジオだった。敗戦による荒廃からの復興の時代、そして高度成長期に向かう助走の時代に、これらの製品は文字通り、飛ぶように売れた。大量生産によるコストの低減と価格の低下が、その売れ行きにさらに拍車をかけた。
そのころ、タイで売られていた扇風機やラジオの多くはアメリカやヨーロッパの製品だった。そこに、当時はまだ労賃も安く、大量生産によってますますコストも下がった日本の製品が入りはじめたのである。日本製品の価格は、欧米の製品にくらべて格段に安かった。
しかし、性能や品質やデザインも見劣りするものだった。
松下電器の駐在員の丸田は言う。
「だから私の仕事は、報告するための駐在員でしたよ。バンコクの店先でフィリップス(オランダ)とかテレフンケン(西ドイツ)とかRCA(アメリカ)などの欧米のメーカーの製品を見て、それをスケッチするんです。サンプルを買うお金もなかったですから。私の報告を見て、日本にいる技術者がイミテーションするんです。日本企業の海外進出なんて、最初はそんなふうにはじまったんですよ。」
バンコクからサケオ市などのカンボジア国境沿いの町を通過し、カンボジア国内を通ってサイゴンに入っていくトラックのルートを開拓した日立家電販売の藤田は、「家電製品で大事なのは、モノを売るだけはなく、そのあとの修理などのサービスなんです。戦争中の南ベトナムには延べにして5,60人、常時5,6人の技術者が行ってましたよ。彼らはあっちこっちの基地をまわって、仕事をしていたんです。」
「アメリカ兵たちは運よく戦死せずに、2年間の戦場生活を終えると、故郷に帰ったり、ヨーロッパにあるアメリカ軍基地に転任していった。彼らは南ベトナムで買ったテープレコーダーやオーディオ機器を持っていった。それが、日本のブランドを世界に広める大きなきっかけとなった。」
60年代に入って工業化政策を積極的に進めるようになったタイでは、製品輸入に対する関税を高めたり、輸入禁止品目をふやすなど、自国産業の保護育成をはかるとともに、外国企業に対して工場を誘致するようになった。
藤田は、「販売ルートを調べるために、タイ国内、くまなく歩きまいした。」そして、その過程で発見した大きなルートのひとつが、「スマッグル(密輸)だった。」メサイのように隣国と自由に往来できる国境の町は、タイのなかにいくつでもある。ビルマ、ラオス、カンボジア、それに南のほうにはマレーシアがある。それぞれの国境の町の業者と話をつければ、製品は外国にも流れていく。
これは、外国での現地生産に、当時、まったく不慣れだった日本の家電メーカーにとっては、大きな利点だった。

学生や若者たちにのあいだで、日本のファッションの人気が高いのはなぜだろう。
「私はそれは、文化の量の問題だと思っている。日本の文化情報はファッションだけでなく、車や電化製品や化粧品としても入ってくる。日系のデパートもある。タイでは、アメリカやヨーロッパの文化情報を圧倒している。そこにテレビや雑誌の広告が加わるんだ。日本はいま、ものすごい力で若者たちを引っぱっている。」
無数の「日本」に囲まれて、<ワタシはタイ人ですか?>とつぶやく歌の先を探っていけば、その社会がオリジナリティをどう築いていくのか、という問題にたどりつく。いや、そのことのむずかしさにたどりつくと言うべきかもしれない。
私が私である根拠を築こうとするものを無力感に追い込み、自信を失わせ、むなしさに囲い込む力としての「日本」が、ここにはある。

先進国や経済大国というものの力。それは経済や産業の分野にとどまらない巨大な力である。私が私である根拠を揺さぶり、ときには無力感さえ植えつけるその力は、人々を混乱に落としいれ、その社会全体に外側から変貌を迫っていく。
変わりつつあるタイの現在を、これは進歩への過程であり、繁栄への途上なのだとなかなか楽観できないのは、この問題に関わっている。これらは彼らの問題ではなく、先進国の中で働き、経済大国のなかで生きている私たちの問題である。

読書 岸良 裕司 『全体最適のプロジェクトマネジメント』 中経出版

読書 岸良 裕司 『全体最適のプロジェクトマネジメント』を読む。

”全体最適のプロジェクトマネジメント”
全体最適のプロジェクトマネジメント

1.プロジェクトはひとがおこなうもの(ひとのサガ:Human Behaviors)
プロジェクトとは今までやったことのないことをすること。
不確実性が高く、納期があり、人がおこなうものである。

 

 

「6つの問題行動」
プロジェクトには人にまつわる6つの問題行動が潜んでいる。
①サバよみ
②予算と時間をあるだけ使う
③一夜漬け
④過剰管理
⑤早く終わっても報告しない
⑥マルチタスク

2.マルチタスクをなくせ(選択と集中:Choke)
①プロジェクトの優先順位を組織全体の視点から検討する。
②「今はやらない」ことで、「集中する」ことが可能になる
③「今はやらない」と決めたプロジェクトでは万全の準備をする

3.目標を共有(すりあわせ:ODSC)
①目的:Objectives
目的について次の質問をまず繰り返す。
「目的はなんですか?」
「ほかにありませんか?」
ある程度、プロジェクトの目的が出てきたら、次の質問をする。
「財務、顧客、業務プロセス、成長と育成、経営理念、社会貢献の視点は入っていますか?」
(目的は自由に議論、言われたことをそのまま書く)

②成果物:Deliverables
成果物について、次の質問をまず繰り返す。
「成果物はなんですか」
「ほかにありませんか」
(目的と手段をはきちがえない)

③成功基準:Success Criteria
具体的に何を目的として、何を成果物としてつくるのかが共有されると、
それを具体的に測定できる言葉として成功基準を明確にしていく。
目的の項目を一つひとつ読み上げて、次のように質問していく。
「この成功基準はなんですか」
(ODSCは、経営幹部とすり合わせをする)

ODSCは、プロジェクトの大義名分
ODSCとは、プロジェクトが行われる理由づけとなるはっきりとした根拠、つまり大義名分を、目的、成果物、成功基準として明確に示すものである。

読書 足利 健亮 『地図から読む歴史』 講談社学術文庫

足利 健亮 著『地図から読む歴史』を読む。

第2章 平安京計画と四神の配置

地図から読む歴史
地図から読む歴史

鴨川
鴨川は少なくとも途中まで直線的に流れる「人工河川」です。
なぜ、鴨川は平安京の東京極に接して流れていないのか。
鴨川には堤防があり、京極との間には、田畑のみならず悲田院、藤原氏の崇親院、法成寺、法興院などが次第に進出することになる土地利用空間でした。東から鴨川、東堀川、西堀川、木嶋大路と御室川の四つが等間隔(α=588丈:約1750m)に配され、その中央に平安京が設けられたため、鴨川と東京極間に空地が生じたのである。

東西10里=1800丈の計画
問題は、鴨川・木嶋(このしま)大路間を3等分するαとは何かということです。3つの588丈を集計すると1764丈(=588x3)です。
1764(丈)=1800(丈)-18(丈)x2
まず初めに東西1800丈の範囲が設定されたとします。そこから、1800丈の100分の1の18丈ずつの幅の鴨川と木嶋大路・御室川帯がとられました。残る1764丈を3等分する線に2本の堀川を開いたと説明できます。
当時、1里は、180丈でした。1800丈とは10里にほかならなかったのです。なお、1丈は約3mで、18丈は、54mほどです。鴨川の幅は今60m内外ですから、18丈という計画寸法に無理がありません。

都市計画に乗った四神配置
和銅3年(710)に平城京がスタートしますが、その2年前の2月、「平城の地は四禽図に叶い、三山鎮をなす」所なので都を建てようとしている旨の詔が発せられます。都の地は、北に玄武(山)、南に朱雀(池沼)、東に青龍(川)、西に白虎(大道)があって、その外側に東・北・西と、山がめぐる地勢であることを理想とする考えが明示されています。四禽図に叶う、つまり四神相応と同じ意味です。この観念は、南に開いた豊かな土地にほかなりません。
こうした考え方の都作りが平安京に及んだ時には、四神も都市計画の中に完全に組み込まれてしまったようです。
まず、青龍は、問題なく鴨川です。対する西の神「白虎」は、鴨川と対称的な位置にある木嶋大路です。玄武が船岡山であることは確かといえます。玄武とは、亀と蛇がからみ合っている想像上の動物で、色は黒です。形も色も船岡山がピッタリです。船岡山頂が平安京正中線に乗り、かつ船岡山頂-北京極間が、大内裏南北距離(一条と二条の間)と等しいという都市計画上の「位置」も大変注目されます。最後に朱雀ですが、これはしばしば伏見の南に拡がっていた大池=巨椋池とされてきました。ところが、有名な東寺の南5km余りの所に「横大路朱雀」という小字があるのです。しかもその小字は、平安京正中線に乗り、羅城門からちょうど10里(5400m)というびっくりするような位置にあたります。京都市街南部の一番低い所で、人工池があったと想定してなにも不都合のない点です。私は、こここそ都市計画に乗せて作られた「朱雀」と見るのです。

第4章 古代の大道は直線であった

昭和40年代の後半、ほぼそのころに、わが国の古代幹線道路も、平野を通過する区間では、アッピア街道やフラミニア街道で代表される古代ローマの諸街道と同じように、測量に基づく直線の大道として建設されたのだという考えが芽生えます。
古代の主要道路には、原則として30里ごとに「駅家(うまや)」が設けられていました。古代の1里は、約530mですから、30里は約16kmになります。駅家は単に「駅」とも書かれますが、公務を帯びた人の通行や公用の情報伝達のために使う「駅馬(えきま)」が常備され、その世話をする「駅子(えきし)」が住み、駅長もいました。それゆえ、古代の主要道路は「駅路(やまやじ、えきろ)」とも呼ばれます。

第5章 条里-地を測り地を掌握するシステム

単位としての一町の大きさ
わが国の平野の景観、農村の景観を奈良時代から現代まで規定してきたといっても過言ではない「条里」という土地区画・土地制度を取り上げます。
一つ正方形は、の条里という制度の基本区画で、一辺の長さが一町、面積が一町歩でした。
一町に長さは60歩(ぶ)=60間ですから、一町歩は、3600歩になります。「歩」という単位は、3.3平方mを1坪という場合の坪のことですが、条里の制度では一町歩の正方形を坪と表現します。3.3平方mの単位面積と、その一辺の長さ=一間(約1.8m)は、共に「歩」と呼びます。
さて、長さ一町とは、約1.8mx60で約108~109mですから、面積一町は、約1.2ha弱となり、2万5000分の1図上では約4mm四方の正方形になるわけです。

条里システムと奈良盆地条里
面積一町の正方形の土地=坪は、縦横6町からなる大きな単位の正方形区画に編成されました。これが、「里」です。里を構成する36個の坪には、「一ノ坪」から「三十六ノ坪」まで2種類のいづれかの並び順=坪並方式で番号が付けられました。「並行式坪並」と「千鳥式(または連続式)坪並」と呼びます。「並行式」というのは、1から6へ、7から12へ、13から18への坪番号の進行方向が同じであることから名づけられたものです。
里が一列に並んだものを条と呼び、条および里にはそれぞれ序数を付すのが原則であった。それ故このシステムを「条里制」というのです。条里制における土地の最小単位は、一町を10等分した「一段(たん:反とも書く)」で、その等分の仕方も2種類ありました。条里制は、古代に、国が土地の所在を「何条何里何坪にある」というふうに記録し管理する必要から生まれたのですが、荘園領主もこのシステムを便利に活用し、中世の後期まで確実に存続しました。
条・里・坪による土地所在表示システムは早くにすたれましたが、それらはしばしば地名となって現地に残りました。

第17章 都市内道路名称の意味を解く

筋とはどういう道か
私はいつも、道路の名称は「家族名(族名)」と「個人名(個名)」から成り立っているといっています。大路・小路・街道(海道)・通り・町通り・筋・辻子(図子)・突抜・縄手(畷)・坂・越え・横丁・路地などが族名です。銀座通りとか御堂筋という場合の銀座や御堂が「個名」にあたります。
大阪では、南北の道が筋で、東西の道が『町通り』と呼びます。つまり、東西道路はどこも、家々が間口を開いて櫛比する賑やかなメインストリート=町通りだったのです。これに対して南北の道は、家々の横壁か塀が延々と続く、通過専用の横丁というわけです。こういう道であることが、筋という族名が付けられたゆえんです。
東西の道路は、伏見町通り、道修町通り、平野町通りなどですが、この場合、「伏見町」が個名で「町通り」が族名と捉えなければ本当のことがわからなくなります。「筋」は、「町通り」と対をなす概念なのです。「筋」に橋の名がついている例がおおいのは、筋が塀か壁に面した通過機能しかもたない道で、沿道に個性がなく、一般に個名を付けようがなかったため、道を出外れた所の堀に架かっている橋の名を借りて個名にすることがはやったからと、解釈できます。

町の変遷
大阪にはたくさんの筋がありましたが、京都には筋はほとんどありません。町が都市内の単位区画を意味する言葉として用いられ始めるのは意外に新しく、延暦三年(784)建都の長岡京からでした。都の条坊制の一つの坊を4x4=16の小区画に分けたその1単位は、平城京では、坪と呼ばれていましたが、平安京で町と呼ばれました。その大きさは、一辺40丈=120mの正方形で、大路・小路によって四面を画されていました。
京都における町の変遷は、事務職の一般役人や宮廷工房に勤める職人などは、一町を「四行八門」に割った小区画(または、さらに細分した区画)を与えられていた。32分の1町といっても30m x 15m=450平方mですから相当な広さです。
町は、四面が土塀で囲まれ、各面に一つ開かれた門を経て勤め先に往復する暮らしだったと考えられます。ところが、早くも9世紀から役所の縮小傾向が見え、本来官の工房で行われるはずの生産活動や生産物の交換が、職人の集住する町で行われるようになってきた。この傾向が、町の周りの土塀を壊し、家々が競って四辺の街路に直接面して商売を始めようとする流れを生み出した。家々が四面の街路にばらばらに顔を向けることになった状態は、まお一つの町としての形を保っている段階で「四面町」と呼びます。しかし、やがて各面の家々は、それぞれ別の町として独立し、正方形の一町が4つの町からなるものに変わっていきます。これが、「四丁町」です。次に四丁町のそれぞれが街路を挟む向かいどうしで町を形成することになります。それが「両側町」の姿です。京都では、両側町であることが普通のあり方となったのです。それは、あらゆる道が「町通り」になっていったということで、それ故、京都には「筋」がほとんどできなかったのです。

読書 丸山 真男 『日本の思想』 岩波新書

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伝統思想がいかに日本の近代化、あるいは現代化と共に影がうすくなったとしても、私達の生活感情や意識の奥底に深く潜入している。近代日本人の意識や発想がハイカラな外装のかげにどんなに深く無常観や「もののあわれ」や固有信仰の幽冥観や儒教的倫理やによって規定されているかは、すでに多くの文学者や歴史家によって指摘されてきた。むしろ過去は自覚的に対象化されて現在のなかに「止揚」されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである。思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない。一定の時間的順序で入ってきたいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。小林秀雄は、歴史はつまるところ思い出だという考えをしばしばのべている。

日本社会あるいは個人の内面生活における「伝統」への思想的復帰は、いってみれば、人間がびっくりした時に長く使用しない国訛りが急に口から飛び出すような形でしばしばおこなわれる。その一秒前まで普通に使っていた言葉とまったく内的な関連なしに、突如として「噴出」するのである。

「神道」はいわば縦にのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と「習合」してその教義内容を埋めてきた。この神道の「無限抱擁」性と思想的雑居性が、さきに述べた日本の思想的「伝統」を集約的に表現している。絶対者がなく独自な仕方で世界を論理的規範的に整序する「道」が形成されたことがなかったからこそ、それば外来イデオロギーの感染にたいして無装備だったのであり、国学が試みた「布筒」の中味を清掃する作業-漢意(からごころ)、仏意(ほとけごごろ)の排除-はこの分かちがたい両契機のうち前者(「道」のないこと)を賞揚して後者(思想的感染性)を慨嘆するという矛盾に必然当面せざるをえない。

「国體」の創出
伊藤博文は日本の近代国家としての本建築を開始するに当たって、まずわが国のこれまでの「伝統的」宗教がその内面的「機軸」として作用するような意味での伝統を形成していないという現実をハッキリと承認してかかった。

「我が国に在りて機軸とすべきは、独り皇室あるのみ」

「将来如何の事変に遭遇するも、・・上元首の位を保ち、決して主権の民衆に移らざる」ための政治的保障に加えて、ヨーロッパ文化千年にわたる「機軸」をなしてきたキリスト教の精神的代用品をも兼ねるという巨大な使命が託されたわけである。

天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる国體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことができない。

「天皇制における無責任の体系」
明治憲法において「殆ど他の諸国の憲法には類例を見ない」大権中心主義や皇室自律主義をとりながら、元老・重臣などの超憲法的存在の媒介によらないでは国家意思が一元化されないような体制が作られたことも、決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される)を好む行動様式が冥々に作用している。「輔弼」とはつまるところ、統治の唯一の正統性の源泉である天皇の意思を推しはかると同時に天皇への助言を通じてその意思に具体的内容を与えることにほかならない。

「おわりに」
私達の伝統的宗教がいずれも新たな時代に流入したイデオロギーに思想的な対決し、その対決を通じて伝統を自覚的に再生させるような役割を果たしえず、そのために新思想をつぎつぎに無秩序に埋積され、近代日本人の精神的雑居性がいよいよ甚だしくなった。日本の近代天皇制はまさに権力の核心を同時に精神的「機軸」としてこの事態に対処しようとしたが、国體が雑居性の「伝統」自体を自らの実体としたために、それは私たちの思想を実質的に整序する原理としてではなく、むしろ、否定的な同質化(異端の排除)作用の面でだけ強力に働き、人格的主体-自由な認識主体の意味でも、倫理的な責任主体の意味でも、また秩序形成の主体の意味でも-の確立にとって決定的な桎梏となる運命をはじめから内包していた。

 

 

 

 

 

読書 竹下 節子 『キリスト教の真実』 ちくま新書

竹下 節子 著 『キリスト教の真実』 を読む

"キリスト教の真実"
キリスト教の真実

第二章 暗黒の中世の嘘

新しい思想は古い思想を仮想的としてみずからの正統性を主張する
近代の成立において、主としてプロテスタント勢力がローマ・カトリック教会を「敵」と見なし、その地位を貶めることによって自らの正統性を証明しようとした。

知を共有財とみなすキリスト教の教育
シャルルマーニュは、「知性」の必要性は、エリートだけでなく、庶民にも求めらるべきとだとして、「無償の学校」制度を設けた。
学校制度が可能になったのは、各地で「蛮族」の襲撃を逃れた多種多様の書物が、あらゆる教会堂や修道院へすでに避難させられていたからである。600年から750年の間にフランク王国内だけでも200の僧院が建てられた。シャルルマーニュの誕生からその孫の死までの期間(768-855)には、27の司教座聖堂(カテドラル)が建ち、417の修道院が建設された。偶像崇拝禁止であったが、読み書きできない民を教化するために、カテドラルや修道院は新旧聖書の図像で豊かに飾られた。

これら「知の流通」は、キリスト教の普遍主義に支えられていた。キリスト教においては、知は個人財産とみなされず、修道院図書館などに保存され、書写によって複本がつくられ、古典学術が継承されていった。背景には、キリスト教には全ての人間の自由意志を前提とした教育理念が備わっていたことがある。
修道院に付属学校が開設された後に、司教区の学校が作られる。司教区学校は聖職者養成のためだけにできたのではない。学校に集った若者にはラテン語の基礎や教養科目が教えられ、古典学術を継承するために不可欠な素養を身につけさせた。カリキュラムは、文法、修辞、弁証(論理)の三学と算術、幾何、天文、音楽の四科から成り立っていた。一方で神学の教育は聖職者の身分を擁する者のみに与えられていた。

大学の誕生
大学(ユニヴァーシティ)は、カトリック教会がヨーロッパ中に設置した教育研究機関だった。ユニヴァーシティの語源は、普遍=カトリックと同じものだ。教会という言葉が「教会堂」の建物を表すのではなく聖職者と信者の集まりを意味していたように、ユニヴァーシティも、教授と学生の共同体を意味するものであり、講義はカテドラル(司教座のある教会)の内部や私邸の中で行われていた。ローマ教皇はこのユニヴァーシティの監督保護者であり、教授に対する支払いが滞るなどの苦情が教皇にまで持ち込まれて処理されていた。

大学の誘致は経済効果があるため歓迎されていたが、学生を含めた大学関係者は消費者として地域経済に貢献するが、定住の意思を持たない「よそ者」であり、生産者でない。彼らは対等な市民とはみなされず、住居、食物、書物などの売買で騙され、警官からは暴力をふるわれた。そのような敵意から大学を保護するために、ローマ教会はかれらに「聖職者(clericus)」の身分を付与した。「聖職者に対する暴力」は、世俗でも犯罪とされ、聖職者自身は原則として教会の法廷によってのみ裁かれる地位を与えられた。この「大学」のおかげで、聖職者=知識人という構図がかたちつくられるようになった。

当時の大学は、14歳からの中等教育も受け持ち、庶民家庭の子弟が少なくなかった。三学四科の教養科目(リベラル・アーツ)と哲学(リベラル・アーツを統合して神学の予備となる高度な論理的思考だった)を修めた後で、さらに法学(世俗法と教会法)、自然哲学(自然科学)、医学、神学を学ぶことが可能だった。ラテン語で出回るようになったユークリッド幾何学、アリストテレスの哲学や自然学、ガレノスの医学書などが教科書として使われた。
ユニヴァーシティにおける教育機関はスコラ(scolas)であり、そこでの教育がスコラ学という方法論になった。社会の変化に応じて学問の方法が大きく変わっていった。教師たちは単に古典の購読だけでは満足できなくなり、理性を重視し、主論と反論を戦わせて結論を導く弁証法的な主知主義を用いて深い意味を汲もうとした。まず問いがたてられ、互いに反する仮説が提示され双方の議論の妥当性を検討し、自分の結論を提示したうえで、反論に答えるという形式が、次第に確立していった。スコラ学の誕生である。

第三章 「政教分離」と「市民社会」と2つの型

カトリックとプロテスタントの棲み分けは、次のようにおこなわれた。
ローマ・カトリックのホームグラウンドであるイタリアは、カトリックのまま。イベリア藩半島も15世紀末に達成されたレコンキスタによってカトリック陣営が強力だったため、カトリック圏にとどまった。10世紀以来神聖ローマ帝国皇帝を選挙で選んできたオーストリアからドイツ、中欧に及ぶ地域は、ハプスブルグ家がカトリックを維持し、他の領邦国家は、カトリック公とプロテスタント公に分かれた。1648年のウェストファリア条約以来、各国の領主が帰依した宗派が国の宗教となり、他の宗派の信者たちは、改宗か移住をすることで棲み分けを維持した。
絶対王権下にあったイギリスとフランスでは、どちらの王も宗教的権威のトップに立つカトリック教会と拮抗しようとしてきた。ヨーロッパ中をネットワーク化している教区と司教区と修道会を束ねるローマ教皇に対抗するには、主に3つの方法が考えられる。

①国内の司教や司教区や修道会長の任命権を獲得して血縁者に委任する。
②ローマ教会と断絶して国内のインフラをそのまま流用して王が「国教会」の長となる
③教会の財産を没収して市民宗教を作る。

フランスは最初の方法を選んだ。つまり、司教の任命権を得ることでガリア教会の自律性を確保しようとした。
イギリスは2番目の方法を選んだ。ローマ教皇に破門されて国教会を興した。

すなわち、フランスのおける政教分離は、それまでカトリック教会が一手に担っていたネットワークや社会運動から宗教のレッテルを外し、それらを政府がそのまま継承し、カトリック教会が独占していた利権システムを解消または吸収したものになった。

そのおかげで、フランスの政教分離は、「横割り二層型」になった。すなわち、「公共空間」における「宗教のレッテル外し」を各宗教が認め、宗教行為(あるいは宗教否定行為)と宗教的な信条はともに「私的空間」に追いやられたわけである。このことこそが、共和国主義の「普遍性」の本質である。たとえ「私的空間」であったとしても、その空間が異なる信条を持つ人びとからなる共同体に属しているのであれば、個人的な信条にもとづいたふるまいをすることは許されない。共同体のマジョリティが多数の力でみずからの主義をマイノリティに押し付けることは禁止され、もしそのような事態が生じた場合には、国家が「共和国主義」の普遍理念の名のもとに介入できるという伝統がある。
「民主主義」の概念には「多数決」に従う、というものがあるが、フランスを含めた、「カトリック否定型」の近代を作ってきた国の大きな特徴は、「多数決」よりも「普遍理念」が優先される普遍主義にある。

アメリカという国家は、ヨーロッパでマジョリティをしめるカトリック国家や、そのヴァリエーションとして国教会を持つイギリスを比べると明らかに異質である。
イギリス国教会から迫害されたマイノリティであるピューリタンの男たちによって「開拓」された「新天地」であり、既成の利権システムなどは存在しない世界だった。建国の核となったのは、WASPと呼ばれる白人アングロサクソン・プロテスタントという宗教的なレッテルに強固に結びついた同質の共同体だ。
アメリカのアイデンティティの核は、WASPのそれである。アメリカは「神の国」であり、アメリカの社会でリーダーシップをとるには、「アメリカの神」を掲げ、神の名によってアメリカを祝福することである。アメリカでは、政教分離を「縦割り」にして、宗教は公生活の「両輪」に一つとなる。政治家が所属教会を明らかにし、日曜日のミサに出ることは社会性と道徳性の証明にもなっている。

フランスの民主主義
フランスのおいて、民主主義はフランスの死守する「共和国主義」を担保するツールの一つである。アメリカにおいては、民主主義は功利主義経済システムを担保する「建前」である。フランスの共和国主義とは、出身地や人種や宗教の違いにかかわらず、同じ国に住む人間が、「自由・平等・博愛」という同じ共和国原理を共有し、それを、個人のアイデンティティのうちに理性的に「統合」していくことを目標にしている。
子どもたちはそれぞれの家族や共同体の文化や宗教の影響を受けて育っているが、その偶然の「与件」の特殊性の外側に、「普遍価値」があることが教えられ、普遍性という物差しを基準にして考える思考訓練がなされる。自分の頭で、自分の「与件」について考え、判断するならば、それをリセットして、共同体の価値観や伝統や習慣や文化や宗教を離脱して別のものを選択する自由が存在することを気づかせることが可能である。これが共和国の公教育理念である。

アメリカの民主主義
アメリカの教育の場において最も重要視されているのは、労働市場に見合った生産者、即戦力になる人間を養成することである。アメリカの教育において、「実学」とは別の「道徳」や「倫理」はどこで教えられているかというと、子供たちの生まれて育つ共同体であり、宗教行事の場である。アメリカにおいて「普遍的」なものは、経済活動における数の原理であり、競争原理である。「道徳」や「文化」や「価値観」については、特殊であっても「共同体的」であっても一向に構わない。いやむしろ、「道徳観」を持つ証明、「良心の査証」として、何らかの「宗教」への所属は大切な要素である。教育の場には「民主主義」の言葉と「星条旗」があればいい。
アメリカの政教分離は、功利主義経済を担保する宗教と、それを容認する政治という両輪なのだ。

本徳寺(船場別院)

姫路船場別院に参る。
本徳寺(通称 船場御坊)で、浄土真宗大谷派(東本願寺)のお寺。
西本願寺のお寺として、亀山御坊もある。

”表門”
表門

表門から入る。

 

 

 

 

”本堂”
本堂

 

真宗の寺は、屋根が大きい。
本堂は、市文化財。

 

 

 

"彫刻(龍)"
彫刻(龍)

龍の彫刻もある。

 

 

 

 

"彫刻(獅子)"
彫刻(獅子)

2か所に獅子の彫刻のある。

 

 

 

 

”彫刻(象)”
彫刻(象)

端は、象の彫刻の飾り。

 

 

 

 

”鐘楼”
鐘楼

 

鐘楼は、市文化財。

 

 

 

 

”裏門”
裏門

裏門は、壊れてる。
お金がないので修理できないようだ。

 

ゼンリン 営業所


JR姫路駅から ゼンリン 姫路支店 へ歩いて行く。

”ようこそ姫路へ”
ようこそ姫路へ

姫路のキャラクター「しろまる姫」
の案内がある。

昔の駅ビルは解体されて残っていない。
まだ、工事中の場所のあるが、姫路城の案内に向かって歩く。

 

”姫路駅 北口”
姫路駅 北口

北口へ出ると、大手前通りがお城まで続いている。

左の神姫バスのターミナルの前の横断歩道を渡り、バス山陽百貨店の前の歩道を歩く。

 

 

”中国銀行”
中国銀行

一つ目の交差点を左に曲がる。
中国銀行を正面に見ながら、コンビニ(セブンイレブン)の前を左に曲がる。
一方通行の4車線道路。

 

 

 

”西へ歩く”
西へ歩く

 

道に沿ってまっすぐ歩く。
神社や映画館も通り過ぎる。

 

 

”姫路信用金庫”
姫路信用金庫

 

道路向かいの右手に大きな白い建物(姫路信用金庫本店)が見えてくると、もうすぐ到着。

 

 

”関西電力”
関西電力

 

隣に、関西電力の姫路支店がある。
その道路向かいのビルが目的地。

 

 

”ゼンリン 姫路支店”
ゼンリン 姫路支店

 

ゼンリンの緑の看板が出ている。

 

 

 

”工事中?”
工事中

 

工事中でした。

読書 阿部 謹也 『世間とは何か』 講談社現代新書

阿部 謹也 著 『世間とは何か』 を読む

”世間とは何か”
世間とは何か

序章 「世間」とは何か

世間の掟
世間には厳しい掟がある。それは特に葬祭への参加に示される。その背後には世間を構成する二つの原理がある。

一つは、長幼の序であり、もう一つは贈与・互酬の原理である。
贈与・互酬とは、対等な関係においては貰った物に対してはほぼ相当な物を贈り返すという原理である。

世間には会員名簿などはない。したがって誰が自分の世間に入っているかは必ずしもはっきりしないが、おおよその関係で解るのである。

世間を騒がせたことに謝罪する
「世間」の構造に関連して注目すべきことがある。
世間は社会ではなく、自分が加わっている比較的小さな人間関係の環なのである。自分は無罪であるが、自分が疑われたというだけで、自分が一員である環としての自分の世間の人々に迷惑がかかることを恐れて謝罪するのである。日本人は自分の名誉より世間の名誉の方を大切にしているのである。

世間がなくなってしまったら
日本人は長い間世間を基準として生きてきた。世間の内部では競争はできるだけ排除されている。したがってあまり有能とはいえない人でも、その世間の掟を守っている限りそこから排除されることはない。

私達は個人と個人の付き合いに慣れていない。日本の個人はすべて世間の中に位置を持っているから、初対面の人の場合では、いったいどういう世間に属しているかが問題になる。(出身地、出身校、会社、地位)
世間が違いすぎると親しくなる可能性は低いのである。

欧米人は日本人のことを権威主義的という。権威主義とは、自分以外の権威に依存して生きていることをいうのである。何らかの意見を聞かれたときに、自分の意見をきちんということが大切であるが、他の人の意見を聞きながら自分の意見をそれに合わせたりすることをも権威主義的と呼ばれるのである。

坊ちゃんと赤シャツ
世間の中での個人の位置はどのようなものなのかという問いが浮かぶ。
私達は明治以来長い間個性的に生きたいと望みながら、十分な形で個性がのばすことができなかった。そのことは、この百年の間ロングセラーとして読み続けられている夏目漱石の「坊ちゃん」を見ればすぐに解ることである。

「坊ちゃん」はイギリスでヨーロッパにおける個人の位置を見てしまった漱石が、わが国における個人の問題を学校という世間の中で描き出そうとした作品である。

赤シャツは、あるとき坊ちゃんにいう。「あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。所が学校と云うものは中々情実のあるもので、さう書生流に淡白には行かないですからね。」

坊ちゃんはそれに対して「今日只今に至る迄是でいいと固く信じて居る。考えて見ると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励して居る様に思ふ。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じて居るらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊ちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく方法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世の為にも当人の為にもなるだろう。」と考えている。

「坊ちゃん」は学校という世間を対象化しようとした作品であり、読者は坊ちゃんに肩入れしながら読んでいるが、その実皆自分が赤シャツの仲間であることを薄々感じ取っているのである。しかし世間に対する無力感のために、せめて作品の中で坊ちゃんが活躍するのを見て喝采を叫んで居るにすぎないのである。

非言語系の知
私達は学校教育の中で西欧の社会という言葉を学び、その言葉で文章を綴り、学問を論じてきた。しかし、文章の中で扱わないことを会話と行動においては常に意識してきた。
いわば世間は、「非言語系の知」の集積であって、いままで顕在化する必要がなかった。
明治10年(1877)にsocietyの訳語として「社会」という言葉が作られた。そして同17年頃にindividualの訳語として「個人」という言葉が定着した。それ以前にはわが国には「社会」「個人」という言葉がなく、現在のような意味の「社会」「個人」という概念もなかった。
それまでは、「世の中」「世」「世間」という言葉があり、時には現在の「社会」に近い意味で用いられることもあった。
欧米の社会という言葉は本来個人が作る社会を意味しており、個人が前提であった。欧米の意味で個人が生まれていないのに社会という言葉が通用するようになってから、少なくとも文章のうえではあたかも欧米流の社会があるかのような幻想が生まれたのである。
しかし、学者や新聞人を別にすれば、一般の人々は「社会」という言葉をあまり使わず、日常会話の世界では相変わらず「世間」という言葉を使い続けたのである。

日本の個人は、世間向きの顔や発言と自分の内面の想いを区別してふるまい、そのような関係の中で個人の外面と内面の双方が形成されているのである。いわば個人は、世間との関係の中で生まれているのである。世間は人間関係の世界である限りでかなり曖昧なものであり、その曖昧なものとの関係の中で自己を形成せざるをえない日本の個人は、欧米人からみると、曖昧な存在としてみえるのである。ここに絶対的な神との関係の中で自己を形成することからはじまったヨーロッパの個人との違いがある。

 

読書 高橋 源一郎 『ニッポンの小説 百年の孤独』

高橋 源一郎 著 『ニッポンの小説 百年の孤独』 ちくま文庫 を読む

”ニッポンの小説”
ニッポンの小説

「ニッポンの近代文学、百年の孤独」(プロローグ)

19世紀後半、封建的な世界が崩壊して、新しい政府が誕生した時、この小さな東の国は、とてつもない変化を被ることになりました。そして、生き残るために、西洋社会の文物を輸入されました。かくして、科学技術や社会システムが、そして文化が輸入されました。その中にはもちろん、「文学」も含まれていました。

重訳というのはとても興味がある現象です。一つの言語から、もう一つの言語へ、そこからさらに次の言語へと、移し変えられる度に、元の言語が持っている困難さはすり減っていき、言葉は透明になり、伝えやすいものだけが伝わることになります。あるいは、誰にでも使える言葉へと変わっていきます。

もちろん、ここでもベンヤミンが「翻訳者の使命」と呼んだ、あの有名なフレーズは有効です。

「ある容器の二つの破片をぴたりと組み合わせて繋ぐためには、両者の破片が似た形である必要はないが、しかし細かな細部に至るまで互いに噛み合わなければならぬように、翻訳は、原作の意味に自身を似せてゆくのではなく、むしろ愛をこめて、細部に至るまで原作の言いかたを自身の言語の言いかたのなかに形成してゆき、その結果として両者が、ひとつの容器の二つの破片、ひとつのより大きい言語の二つの破片と見られるようにするのでなくてはならない。」

ベンヤミンの、翻訳に関するこの断言は、おそらく、完成した言語、長い伝統の果てに成立した言語間の受け渡しについていわれたものです。しかし、そうではなく、完成した言語から、新しい言語へ、未だ始まっていない言語への受け渡しにこそ、この断言は、より一層あてはまるような気がするのです。そこでは、単に一つの作品から、もう一つの作品へ「翻訳」が行われるのではなく、「翻訳」を通して、規範となる「文」そのものが、元の言語の反対側に産みだされるのです。

「ニッポン近代文学」という集落で話されてきた言語は、国木田独歩の「文」、それにの先駆たる、二葉亭四迷の「文」から流れ出たものです。それは、ほとんど変化することはありませんでした。
不思議なのは、「ニッポン近代文学」という集落は、実に多くの「外部」の侵食を受けているのに、つまり、外国文学や、文学以外のさまざまなものに影響を受けてきたのに、孤立しているように見えることです。

ところで、「文学」とは何でしょうか。
「文学」とは、遠くにある異なったものを結びつける、あるやり方のことです。なぜなら、「文学」は、言語だけで出来ていて、しかも、言葉とは、要するに、遠くにある異なったものを結びつけるために出来たからです。
言葉は、物と観念を結びつけます。名前と事象を結びつけます。存在しないものと存在するものを結びつけます。関係づけることが不可能に見えるものを、いとも簡単に関係づけます。
我々がコミュニケートするためには、言語が必要なのです。もちろん、言語以外にも、コミュニケートするツールはあります。映像がそうです。貨幣もそうです。いや、貨幣は言語そのものなのです。そして、資本主義社会では、貨幣も言葉も、絶えず価値の変動に晒されなければならない、というわけです。
だから、『資本論』に「文学」の一切が書いてるということもほんとうです。言葉というものが、どうやって産み出され、異なった共同体をどう結び付け、どう流通し、それが集まって巨大な塊になり、その結果、一つ一つの言葉を抑圧するようになるのか、それらはすべて、あの本の中に書いてあるのです。

二葉亭四迷が作った「器」に、若者たちが「文学」を充填しはじめる時が来ました。
いくつもの言語が存在するということは、つまり、翻訳というものが必要であるということは、「器」は絶えず壊れ、それ故、絶えず修復されなければならない、ということを意味している。
言葉が混乱の只中に陥った時、はじめて、我々は「文学」を必要とするようになった。「文学」とは、「器」を作り、そして壊す、その一連の行いそのものではないでしょうか。

園城寺(三井寺)

”仁王門”
園城寺 仁王門(重文)

園城寺(三井寺)に参る。
天台宗 寺門派の総本山。
俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれていたものを、後に智証大師が、厳儀・三部灌頂の法水に用いたことによる。

 

 

”金堂”
金堂(国宝)
”金堂に上がる”
金堂に上がる
”鐘楼”
鐘楼(重文)「三井の晩鐘」
”弁慶の引摺り鐘”
弁慶の引摺り鐘
”一切経蔵”
一切経蔵(重文)
"三重塔(重文)"
三重塔(重文)
"観音堂"
観音堂