読書 高橋 源一郎 『ニッポンの小説 百年の孤独』

高橋 源一郎 著 『ニッポンの小説 百年の孤独』 ちくま文庫 を読む

”ニッポンの小説”
ニッポンの小説

「ニッポンの近代文学、百年の孤独」(プロローグ)

19世紀後半、封建的な世界が崩壊して、新しい政府が誕生した時、この小さな東の国は、とてつもない変化を被ることになりました。そして、生き残るために、西洋社会の文物を輸入されました。かくして、科学技術や社会システムが、そして文化が輸入されました。その中にはもちろん、「文学」も含まれていました。

重訳というのはとても興味がある現象です。一つの言語から、もう一つの言語へ、そこからさらに次の言語へと、移し変えられる度に、元の言語が持っている困難さはすり減っていき、言葉は透明になり、伝えやすいものだけが伝わることになります。あるいは、誰にでも使える言葉へと変わっていきます。

もちろん、ここでもベンヤミンが「翻訳者の使命」と呼んだ、あの有名なフレーズは有効です。

「ある容器の二つの破片をぴたりと組み合わせて繋ぐためには、両者の破片が似た形である必要はないが、しかし細かな細部に至るまで互いに噛み合わなければならぬように、翻訳は、原作の意味に自身を似せてゆくのではなく、むしろ愛をこめて、細部に至るまで原作の言いかたを自身の言語の言いかたのなかに形成してゆき、その結果として両者が、ひとつの容器の二つの破片、ひとつのより大きい言語の二つの破片と見られるようにするのでなくてはならない。」

ベンヤミンの、翻訳に関するこの断言は、おそらく、完成した言語、長い伝統の果てに成立した言語間の受け渡しについていわれたものです。しかし、そうではなく、完成した言語から、新しい言語へ、未だ始まっていない言語への受け渡しにこそ、この断言は、より一層あてはまるような気がするのです。そこでは、単に一つの作品から、もう一つの作品へ「翻訳」が行われるのではなく、「翻訳」を通して、規範となる「文」そのものが、元の言語の反対側に産みだされるのです。

「ニッポン近代文学」という集落で話されてきた言語は、国木田独歩の「文」、それにの先駆たる、二葉亭四迷の「文」から流れ出たものです。それは、ほとんど変化することはありませんでした。
不思議なのは、「ニッポン近代文学」という集落は、実に多くの「外部」の侵食を受けているのに、つまり、外国文学や、文学以外のさまざまなものに影響を受けてきたのに、孤立しているように見えることです。

ところで、「文学」とは何でしょうか。
「文学」とは、遠くにある異なったものを結びつける、あるやり方のことです。なぜなら、「文学」は、言語だけで出来ていて、しかも、言葉とは、要するに、遠くにある異なったものを結びつけるために出来たからです。
言葉は、物と観念を結びつけます。名前と事象を結びつけます。存在しないものと存在するものを結びつけます。関係づけることが不可能に見えるものを、いとも簡単に関係づけます。
我々がコミュニケートするためには、言語が必要なのです。もちろん、言語以外にも、コミュニケートするツールはあります。映像がそうです。貨幣もそうです。いや、貨幣は言語そのものなのです。そして、資本主義社会では、貨幣も言葉も、絶えず価値の変動に晒されなければならない、というわけです。
だから、『資本論』に「文学」の一切が書いてるということもほんとうです。言葉というものが、どうやって産み出され、異なった共同体をどう結び付け、どう流通し、それが集まって巨大な塊になり、その結果、一つ一つの言葉を抑圧するようになるのか、それらはすべて、あの本の中に書いてあるのです。

二葉亭四迷が作った「器」に、若者たちが「文学」を充填しはじめる時が来ました。
いくつもの言語が存在するということは、つまり、翻訳というものが必要であるということは、「器」は絶えず壊れ、それ故、絶えず修復されなければならない、ということを意味している。
言葉が混乱の只中に陥った時、はじめて、我々は「文学」を必要とするようになった。「文学」とは、「器」を作り、そして壊す、その一連の行いそのものではないでしょうか。

園城寺(三井寺)

”仁王門”
園城寺 仁王門(重文)

園城寺(三井寺)に参る。
天台宗 寺門派の総本山。
俗に「三井寺」と呼ばれるのは、天智・天武・持統天皇の産湯に用いられた霊泉があり、「御井(みい)の寺」と呼ばれていたものを、後に智証大師が、厳儀・三部灌頂の法水に用いたことによる。

 

 

”金堂”
金堂(国宝)
”金堂に上がる”
金堂に上がる
”鐘楼”
鐘楼(重文)「三井の晩鐘」
”弁慶の引摺り鐘”
弁慶の引摺り鐘
”一切経蔵”
一切経蔵(重文)
"三重塔(重文)"
三重塔(重文)
"観音堂"
観音堂

 

読書 桜井 英治 『贈与の歴史学』 中公新書

桜井 英治 著 『贈与の歴史学』を読む。

”贈与の歴史学”
贈与の歴史学

日本の贈与は義務感にもとづいてなされる傾向がつよい。日本の民法が西欧諸国のそれと異なり、贈与の撤回を認めていないのもそのためだ。
そのような贈与のあり方は、日本の歴史の中で中世、鎌倉・室町時代(12世紀から16世紀)、武士が新たな支配階級として勃興してきた時代までさかのぼる。この時代、極端な功利的性質を帯びるのである。
中世は自給自足の時代などではなく、多くの商品が流通し、それらの需要と供給のバランスによって決定される市場経済が成立していた。
京都には、土倉とよばれる多数の金融業者が店舗を構え、貸出だけでなく、大口小口の預金者から資金を集め、営業利益に応じて利息を払うという、銀行さながらの業務をおこなっていた。また、権利(物権、債権)が中世ほど容易に移転しえた時代は少ない。一片の借金証文が債務者の知らないうちに金融業者間で転売され、いつの間にか見ず知らずの債権者の手に渡っているなど普通におこりえた。
市場経済にみられた合理的思考や計算、打算といった観念は、贈与の領域にも深く浸透していた。
思うに贈与経済と市場経済とは、一般に信じされているほど対立的なものではないのだろう。対立的に見えるのは、未開社会と近代資本主義社会しか分析せず、その中間に位置する多様な社会の分析を省いてきたことからくる偏見である。
贈与の功利的性質とか市場経済との親和性への反論は、、純朴な贈答が典型的な贈与の姿であるというもの。
この反論は、半分は正しく、半分は間違っている。ある時代のもっとも進んだ部分が、次の時代に跡形もなく消え失せてしまうことは、歴史にはしばしばおこりうる。
同じ贈与慣行のなかにも時代によって変わるものと変わらないものがある。かつて、フェルナンド・ブローデルは、人類の中長期的な歴史の営みを下層のもっとも変化の緩慢なステージから順に「物質文明」「市場経済」「資本主義」という三層構造として概念化したが、贈与の歴史においても参考になる。主に民俗学が注目してきた食品の贈答が「物質文明」の層に関わる事象とすれば、本書は、「資本主義」の層に相当する。そこに見られる贈与の振る舞いは自由奔放で、限りなく商取引に近づくが、それでも両者が完全に同化してしまうことだけはついになかった。最後まで踏み越えられることのなかったこの一線こそ、贈与を贈与たらしめている原理の心髄が潜んでいる。

1.4つの義務

マルセル・モースの問い
フランスの社会学者マルセル・モースの『贈与論』の中で、贈与をめぐる義務として次の三つをあげた。

  1. 贈り物を与える義務(提供の義務)
  2. それを受ける義務(受容の義務)
  3. お返しの義務(返礼の義務)これに、モーリス・ゴドリエによって、くわえられた第四の義務
  4. 神々や神を代表する人間へ贈与する義務(神に対する贈与の義務)

「お返しの義務」
贈答という言葉自体が返礼(答)の存在を前提にしている。このようにそっれを受け取った者に対して返礼を義務づける贈与の性質を互酬性(reciprocity)とよぶ。贈り物を一種の債務・負債と感じる意識がある。平たくいえば、贈り物を受け取ることにより受贈者には「借り」ができ、贈与者には「貸し」ができる。このような債務意識はどこから来るのか。

「贈り物を受ける義務」
贈り物を受け取ることにより、受贈者には贈与者に対する「借り」ができる。贈与者は、-ときに意識的に、ときに無意識に―その受贈者が自分と特別な人現関係を築いてくれることをもって回収しようとする。受贈者は、その期待に応えてもよいと思えば素直に受け取るだろうし、期待に応えられないと思えば受け取らないか、かりに受け取ったとしても、その期待とは別の対価で返済をおこなうだろう。要するに、人は返済のできる見込みのない「借り」をつくりたくないのである。
個人と個人、あるいは集団と集団が良好な関係を構築・維持しようとするとき、「贈り物を受ける義務」は、もっとも基本的なマナーとなった。

「提供の義務」
この種の贈与を強いるメカニズムは、表面的にはヴァランタリーな体裁をとっている場合でも、実際には暗黙の圧力・義務感のもとで贈られることがおおい。「贈り物を与える義務」の場合、贈与者-受贈者間だけでは完結せず、そこに比量の対象となる他者(同僚や同業者)が登場する。そして、受贈者で実際に同格他者との比較が行われるか、実際に行われないまでも、そのような比量がおこなわれることを恐れる気持ちが贈与者に萌しさえすれば、それはいつでも義務となる。

「神に対する贈与の義務」
神頼みも無償ではかなえてもらえないわけだが、必ずしも多額である必要はない。

2.神への贈与
神に対する贈与が税に転化した例として、古代の祖と調があげられる。

「祖」
祖が土地からの収穫物の一部を初穂として神の代理人たる首長に貢納する慣習から生じた。そして、「未開社会」において「初穂または田祖は、首長(または共同体)の支配する領域の土地を用益する民戸の帰属を確認する最低限の義務であった。」

「調」
古代には毎年9月に伊勢神宮に初穂を奉る神嘗祭、11月に畿内諸社に初穂を奉る相嘗祭(後の12月の月次祭)、2月に全国の官社に幣帛を分かつ祈年祭という3つの重要な祭儀があったが、これらの初穂、幣帛に用いられたのが調である。
これら初穂。幣帛の内訳は繊維製品や海産物、酒、塩など調の品目と一致する。調の納期は、近国が8月中旬から10月末、中国が11月末、遠国が12月末であるのを受けたものである。
海産物の調が主に加工品であったのに対して、生鮮品を含む海産物を天皇の食事用に貢納した制度を贄というが、これも本来は神への捧げものであった。

「初穂・初尾」
農業や漁業から得られた最初の収穫物、初物のことで、初穂は神仏に捧げるべきものとされ、語自体も現代にいたるまで語義を変えずに用いられている。初穂は自然界から得られた恵みの一部を神仏に捧げるものであり、同様の捧げものは汎世界的に見出すことができる。
「人は、聖なる存在から受け取ったものの小部分を、聖なる存在に与え、しかも、自分が与えるもののすべてを、それから受け取るのである。」というのがその本来の意義であった。

3.人への贈与
人に対する贈与が税に転化した事例を見る。
室町幕府は、経済先進地帯である京都に本拠地を占めたことから、総じて土地や農業からの収益よりも、商業・流通・金融・貿易などに大きな比重をおいていた財政の特徴がある。
守護出銭とは、大小守護たちが将軍家に拠出した分担金にほかならない。守護出銭は、将軍家が大きな支出に直面した際に守護が臨時に拠出したもので、賦課方法は、諸大名が将軍に申し出るかたちでおこなわれた。

贈与の強制力
1.有徳思想
有徳銭の起源のひとつは、諸社の祭礼を挙行するために特定の有徳人を指名して祭礼費用を拠出させる馬上役のシステムにあったと考えられる。中世の京都では、五条以北を祇園社と六条以南を稲荷社がそれぞれの祭礼圏として分け合っていた。12世紀の京都には、大きな繁華街が、四条と七条の二か所に形成されており、多くの有徳人を生み出した。馬上役は、この祭礼圏に居住する有徳人の中から「闕(けち)」のあったものを差定する方式をとった。
貧しい民衆に代わって有徳人が祭礼費用を負担し、その祭礼を民衆が享受する。有徳人に徳行を求める民衆意識こそ、中世後期において有徳銭をささえていた主要な倫理的基盤であった。

徳性一揆(土一揆)
有徳銭が民衆に対する間接的な贈与であったとすれば、土倉・酒屋などの金融業者に債務破棄を求めた徳性一揆は、いわば民衆にたいする直接的贈与を求めた運動と位置づけられる。

2.「例」の拘束力(先例・新儀・近例)
中世においては「先例」、すなわり昔から連綿と続いてきたことこそが一般に<善いこと>とされた。その対義語が「新儀」であり、前例のない新しいことを意味した。前例のないことは一般に<悪いこと>と考えられていた。「新儀」が「先例」になるケースとして、それをおこなった人物が彼の家や所属集団に繁栄をもたらすなど、あやかるべき生涯を送った場合であり、彼の「新儀」は、「佳(嘉)例」と呼ばれ、準拠すべき「先例」に転ずる。
もう一つのケースとして、「新儀」が現に何度か続いて行われてしまうことによって、それが既成事実化して「先例」になることもあった。このような日の浅い「先例」のことを「近例」という。「新儀」の恩恵に浴している者はその「先例」化を願い、そうでない者は「先例」を守るためにこれを斥けようとするせめぎあいが、「近例」というステージで戦われた。

3.「相当」の観念と「例」の秩序
「先例」の拘束力は贈り物の品目や数量に及んだ。前と異なる品目を贈ったり、品目は同じでも数量を減らしたりすれば、受贈者側は不満を覚え、ときにはあからさまな抗議に出たこともあった。

「相当の儀」
対人関係において譲れるか譲れないかの判断基準を提供していたのが「相当」とよばれる概念である。
中世の人びとは損得勘定、釣り合いということに非常に敏感であった。彼らは、損得が釣り合っている状態を「相当」、釣り合ってない状態を「不足」とよび、他家との紛争や交際ではつねに「不足」の解消と「相当」の充足を求めた。

贈与における「相当」
何よりもまず、贈り物と返礼が同じものか、少なくとも等価値であることが不可欠である。これを人類学では、対称的返済とか同類交換の原理とよぶ。中世にもいつのころからか夏の恒例行事として瓜を贈りあう習慣が生まれたが、この季節にはどこの家にも瓜が溢れていると知りながら、人びとは瓜を贈り、また受け取りつづけたのである。

贈与と経済
1.贈与と商業
13世紀後半、米で納められていた年貢が、このころを境にして銭で納める形態に変化したのである。これを代銭納制というが、中世日本の経済にとって最大の事件であった。
代銭納制がはじまると、生産物を現地でいったん売却・換金し、それによって得た銭を年貢として中央に送る。生産物は、銭に変えられた時点で商品に変化する。つまり、代銭納制普及以後の日本列島では本格的な市場経済が展開した。
銭よりもさらに軽量で輸送コストの安い決済手段が求められた結果、この時期に出現したのが「割符(さいふ)」とよばれた手形である。
割符には、1個10貫文(今日の100万円)の定額手形が多く、それらは一つ、二つと個数で数えられ、一つといえば10貫文、二つといえば20貫文を指し、定額面であることから人から人へ転々と譲渡されうる紙幣的な機能が期待されていたことを示している。
代銭納制の普及は、商品作物の生産を促した可能性も高い。土地土地の気候に適した、しかも換金性のより高い作物、つまり商品作物を作ったほうがはるかに効率的なわけで、そのような生産者行動を制度的に可能にした。

2.贈与と信用
対称的返済、同類交換の原理が優越していた日本の贈与においては、財政や家計の状態にかかわりなく、つねに贈答品の交換価値に人びとの強い関心が向けられた。
贈り物の使用価値が重視されないのであれば、もはや現物で贈与をおこなう必要はなく、純粋に交換価値だけを運ぶ物品を贈りあえばよいということになる。ここに、交換価値の伝達を唯一の機能とし、それ以外の使用価値をいっさい脱ぎ捨てた物品、すなわち貨幣による贈与がはじまる必然性があった。現金が平気で贈答されることについて、日本の特殊性として指摘されるところだが、中世後期の日本も銭を贈答に用いることにまったく抵抗を示さなかった社会である。
贈り物を持参するさいに折紙(目録)を添える作法があり、銭の贈答の場合も同様であった。贈り物一般に添える折紙を「進物折紙」、銭の添える折紙を「用脚折紙」「鳥目折紙」などとよんだが、もともと儀礼の道具にすぎなかったこれらの折紙が銭の贈答をめぐる計算上の操作に利用された。
用脚折紙には、品目(銭)は書かず、金額だけを「疋」単位で記すことに特徴がある。一疋とは十文のことで、五百疋は、五貫文である。
「疋」というのは、もともと絹の長さの単位だったものが銭の単位に転用されたもので、かつて絹が貨幣として用いられた時代の名残である。12世紀から13世紀にかけて絹の貨幣機能が銭に奪われていくにしたがって、「疋」という単位も絹から銭に引き継がれたのだが、注目されたのは、贈答のような儀礼的な面では「文」や「貫文」ではなく、「疋」を使うのが一般的だった。「疋」はまさに儀礼用単位に特化した。

「折紙の使い方」
いきなり現金を贈ることはせず、まず金額を記した折紙を先方に贈り、現金はあとから届けるのが普通であった。
次に現金が引き渡されたあとで、折紙は清算が済んだ証として受贈者から贈与者に返却された。もっとも簡略な方法は、折紙の金額部分に合点を付して返却するというものである。より手の込んだ方法として、「裏封」といって折紙の裏面に受取文言を記載して返却する方法もあった。

「折紙の経済的機能」
折紙のシステムが贈与者にもたらした第一の利点は、資金の準備がなくても贈与がおこなえるようになったことである。
現金は用意できなくても、折紙を贈ることでとりあえずその場をしのげるようになった。

「贈与の相殺」
折紙を利用した計算上の操作として、もっとも典型的なのが贈与の相殺である。折紙のシステムによって贈答というすぐれて儀礼的な分野にも債権・債務関係と同様の操作が入り込んできた。とくに相殺という手段は、現金の移動がいっさいなく、帳面上の操作、計算のみによって贈与を完結させてしまう点で、贈与の存在意義を根本から脅かすものだった。

 

 

 

石山寺

”芭蕉像”
JR石山駅前の芭蕉像

JRの京都から乗り越して石山駅で降りる。
駅前に松尾芭蕉の像が立つ。

「石山の石にたばしる霰(あられ)かな」
「曙はまだむらさきにほととぎす」

 

 

”京阪電車 石山坂本線”
京阪電車 石山坂本線 

京阪電車に乗り換えて石山駅寺に到着。
石山寺は、西国第十三番 真言宗のお寺。

紫式部が源氏物語の「須磨」「明石」の二帖を書き始めたという伝説がある。

 

 

”石山寺 東大門”
石山寺 東大門

”石段”

石段

”石段を登ると”

石段を登ると
”毘沙門堂”
毘沙門堂

”本堂”

本堂

”多宝塔”

多宝塔

”月見亭と芭蕉堂”

月見亭と芭蕉堂
”シャクナゲ”
シャクナゲ
”石積の庭園”
石積の庭園
”瀬田川”
瀬田川

読書 那須 省一 『アメリカ文学紀行』

”アメリカ文学紀行”
アメリカ文学紀行

那須 省一 著 『アメリカ文学紀行』を読む

ジョン スタインベック(John Steinbeck )
『怒りの葡萄(The Grapes of Wrath)』
1930年代には大規模資本主義農業の進展や、オクラホマ州はじめアメリカ中西部で深刻化したダストボウル(土地の荒廃による砂嵐)により、所有地が耕作不可能となって流民となる農民が続出し、社会問題となっていた。本作は当時の社会状況を背景に、故郷オクラホマを追われた一族の逆境と、不屈の人間像を描く。

“Seems like our life’s over an’ done.”

“No,it ain’t,” Ma smiled. “It ain’t,Pa.  An’ that’s one more thing a women knows. I noticed that. Man,he lives in jerk -baby born an’ a man die, an’ that’s a jerk -gets a farm an’ loses his farm, an’ that’s a jerk. Women, it’s all one flow, like a stream, little eddies, little waterfalls, but the river, it goes right on. Women looks at it like that. We ain’t gonna die out. People is goin’ on – changin’ a little, maybe, but goin ‘right on.”

避難した先で仕事も食べ物もなく、先が見えない疲労困憊の父親が嘆く。「どうやら俺たちの人生は終わったみてえだな」

これに対し、Maは微笑みすら浮かべてそんな弱気を一蹴する。
「いや、そんなこたないよ。まったくない。お前さん、女には分かるんだよ。これも男との違いの一つだよ。いいかい、よくお聞き。男は浮草のようなものだよ。男はおぎゃあと生まれそして、老いてくたばる。それこそ浮草だ。農園を手に入れて、それを手放す。それも浮草だ。女は違う。あたいたちは延々と続くんだよ。せせらぎのように、渦巻のように、滝のように。そいでもってあたいたちは川になるんだよ。いつもでも流れが絶えない。女はそんなふうに物事を考えるんだよ。あたいたちは死に絶えなんかしないよ。人はずっと生きていくんだよ。多少変化はするかもしれない、たぶんね、でも、ずっと続いていくんだよ」

清荒神

中山観音から電車に乗り、清荒神に向かう。
参拝客は、あまりいない。

”ようこそ清荒神へ”
ようこそ清荒神へ

 
”スーパーマーケット”
地元のスーパー

 
”参道”
参道

 

”鳥居”
清荒神 鳥居
”石燈籠”
石燈籠
”禊橋”
禊橋

 

”清荒神 山門”
清荒神 山門

 

”清荒神 本堂”
清荒神 本堂

 

 

 

読書 畑村 洋太郎 『決定版 失敗学の法則』 文春文庫

畑村 洋太郎 著 『決定版 失敗学の法則』を読む

"失敗学の法則"
失敗学の法則

第1章 失敗学の基礎知識
①逆演算で失敗の「からくり」がわかる
目に見えている「結果」から、まだ見えていない「原因」に辿っていくことを失敗学では、「逆演算」と呼びます。失敗学では、「原因」を「要因」と「からくり」の2つに分けて考える。つまり、失敗の構造を「要因」「からくり」「結果」の三要素から構成されていると考える。失敗学における逆演算を正確に記せば、「結果」から「要因」と「からくり」という見えない二つのものを逆に辿って探していくということになる。

(第一段階) 分解
失敗の「原因」をしるために「からくり」と「要因」に分けて考える。
(第二段階) 逆算
「からくり」の正体を知るには「からくり」の構造を仮設する。逆演算の考えを入れ、出力から入力を逆算する。
(第三段階) 推測
「からくり」に架空の「要因」を入れてみて、架空の「結果」を推測する。(第四段階) 一般化
「要因」「からくり」「結果」の関係を一般化し、予測・類推につなげる。

②「失敗の脈絡」分析で失敗を予測
逆演算によって一般化した失敗の「要因」「からくり」「結果」の関係のことを失敗学では「失敗の脈絡」と呼ぶ。「失敗の脈絡」を使って類推すれば、別の分野でも、どんな失敗がどういう経緯で起こるかを予測することができる。

③失敗は確率現象
労働災害の発生確率に関する法則に『ハインリッヒの法則』がある。
一件の重大災害の裏には二十九のかすり傷ていどの軽微な災害があって、さらにその後ろには、ヒヤリとしたりハッとして冷や汗が流れるような事例が三百件潜んでいるというものである。
失敗についても、ハインリッヒの法則と同じことがいえる。同じ要因があっても致命的な大失敗が起こる確率は三百三十分の一であり、軽度の失敗が起こる確率は三百分の二十九で、残りの「ヒヤリ」体験は、実際にはたいした失敗にはつながりません。重大災害は、三百分の一という極めて低い確率で起こる確率現象なのです。

④失敗は拡大再生産される
同じ「失敗の脈絡」で失敗が繰り返されると、させん状に悪循環を起こし、その打撃はどんどん深刻化していく。これを「失敗の拡大再生産」と呼ぶ。

⑤千三つの法則
日本には昔から”千三つ”という言葉があって、「何かの賭けをしたとき、うまくいくのは千に三つぐらいしかない」という意味で使われてきたが、新たに挑戦したことが成功する確率もまさに”千三つ”です。
ゼロから新規事業をスタートさせるにあたり、少なくとも10個くらいの要素(企画内容、技術、事業を興す本人の資質、資金、設備、場所、人材、流行、社会の経済状況、人脈)がすべてうまくいって初めて、事業が成功する。事業の成功には、成功率2分の1の要素が10個必要だとするとその成功率は、2分の1の10乗、つまり1024分の1になる。

⑥「課題設定」がすべての始まり
無駄な失敗を防ぎ、新たな創造の種を生み出すために、まず最初にすべきことは、自分自身の中に課題(問題意識という言葉でも置き換えられます)を持つことです。
課題とはすなわち、「自分はいま何をすべきか」という、行動を起こすときのテーマです。そして、それを解決する方法を考える。この「課題設定」こそが、失敗に直面したときの判断力を、そして新たなチャレンジをしようというときの企画力を鍛えるのです。
「課題設定」のコツは、なにかひとつの事件や事象をよく観察することでうs。そして、そこにはどんな問題が起きていて、それに対して自分は何をしたらいいかを考える。そのひとつひとつが課題なのです。

⑦「仮想演習」がすべてを決める
新たな創造のための第一歩である「課題設定」が済めば、その後は「仮想演習」でその課題をいかに解決すればいいのかを思考することが重要です。他の誰かがやっていることを観察したり、頭の中で「あの場合はこうすればいい」「あの場合はこうすべきだ」などと考えながら、起こりうる失敗を想定していると、いろいろなことが見えてきます。
この「仮想演習」は、失敗学においてかなり重要な意味を持っています。

第2章 失敗の理解の不可欠な知識
⑧暗黙知を生かす
何かひとつのことを行うとき、その分野に関わっている人なら誰もが必ず考えていること、無意識での着眼点というものがある。そして、そこから失敗を防ぐための、あるいは成功につながるいろいろな原理を導き出します。それらはあえて文章に書かれることもなく、多くの場合は言葉にして伝えられることもありません。しかし、それらはその分野に関わっている、誰の頭のなかにも厳然として存在している、いわば「暗黙知」なのです。
とくに失敗に関する「暗黙知」は、あからさまにわかるような形にすること、つまり「形式知」に変えることがとても重要です。というのも、失敗に関する情報はいつも隠れやすくなかなか表に出ないという性質がありますし、時間が経ってしまったり、人から人へと伝えられていく間に、消えてなくなってしまうからです。したがって、失敗の暗黙知を見つけたら、積極的に文章や図式、数値などにして形式知に変え、記録することが重要です。

⑨質的変化を見落とさない
ある産業が急激に成長したり、ある会社が莫大な利益を上げるようになったとき、その量的変化がどういう意味を持っているのかを客観的に考え、同じものを生産し続けるのがよいのか、転換期はいつなのかを判断して、組織や運営方法の構造を改善していかねば、その産業や会社は膨張を続け空中分解を起こし、壊滅的な打撃を受けることになる。

⑩チャンピオンデータは闇夜の灯台
「チャンピオンデータ」とは、「どうやったのかはわからないが、とにかくすでに他の人がその目標を達成している状態」のことで、闇夜を灯り無しで歩くような創造の仕事においては、彼方に見える灯台のような希望の光になるのです。

⑪「山勘」は経験のエッセンス
「暗黙知」とともに失敗を防ぐ大きな力となるのが「山勘」です。
山勘というのは、もはや「知」でもなく、その日地がやってきたすべての経験や行動の結果体得した、状況さえ入れれば答えが直接出てくるような超高速の判断回路のことなのです。

⑫すべてのエラーはヒューマンエラーである
人間のやることに「完璧」はない。人間の動くところには必ず失敗が起こる。これは、失敗学の根本的な考え方です。

⑬新規事業は隣接分野でしか成功しない
新たな分野というのはとても魅力的に見えます。それが将来的に伸びる可能性を持っていたらなおさら、飛びつきたくなるでしょう。そして、新たな挑戦をするには企業風土を変える必要があります。しかし、実際には企業風土を変えるのは至難の業です。しかも、飛び込んだ場所には既存の勢力がいる。そんなところで成功するのは、ほとんど無理です。

 

 

東本願寺 京都七条

"阿弥陀堂門"
阿弥陀堂門

早く、京都に着いたため、 東本願寺に立ち寄り。

阿弥陀堂門から中に入る。

 

 

”御影堂”
御影堂

御影堂に上がる。
阿弥陀堂は、修復工事中で見ることができない。

 

 

 

 

”御影堂門”
御影堂門

御影堂門は、工事中で通れない。

 

 

 

 

”修学旅行のバス”
修学旅行のバス(奈良交通)

奈良交通の観光バスは、修学旅行の学生が乗ってきていた。

 

 

 

読書 島田 裕己 『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』

島田 裕己 著 『浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか』を読む。

”浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか”
浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか

仏教には、「法華信仰・密教・浄土教信仰・禅」という4つの流れがある。

<法華信仰>
大乗仏典の一つである『法華経』に対する信仰に発している。中国で天台宗を開いた天台智顗は、釈迦の教えを整理して、仏典がどのような順番に成立してきたかを明らかにする「教相判釈」の作業を行い、『法華経』を最高位と位置づけた。そのことが法華信仰の成立に大きく影響した。智顗は、大乗仏教以前の「部派仏教(小乗仏教)」の段階では、修行を経た人間だけが悟りを開いて仏になれると説かれたのに対して、『法華経』では、誰でもが仏になれると説かれている点を強調した。

この天台の教えを日本に最初に伝えたのが最澄になる。(法華経信仰は、飛鳥時代の聖徳太子『法華義疏』(『法華経』の解説書)に遡る。)
法華信仰において『法華経』が最高位の仏典に位置づけられ、「諸経の王」とも評されたことから、『法華経』の経巻自体に対する信仰も生まれる。(厳島神社の「平家納経」)

<密教>
インドにおける大乗仏教の発展のなかで、仏教信仰が土着のヒンデゥー教と習合したことから生まれた。密教は神秘的な力を駆使するところに特徴があり、護摩を焚くなどさまざまな儀礼、「修法」が開拓された。密教の立場からすれば、他の大乗仏教の教えは、「顕教」としてとらえられる。

<浄土信仰>
来世信仰の一種で、死後に西方浄土に生まれ変わることを願うものである。浄土というとらえ方は、インドの仏教にはないもので、中国から日本に伝えられた。
インドでは、輪廻の繰り返しによって苦がもたらせることを強調し、生まれ変わりを肯定しない。

<禅>
さまざまな宗教で実践される瞑想の一種で、直接にはインド出身の僧侶、達磨に遡るが、智顗の著作『摩訶止観』の影響も大きい。禅の受容が限定的なものになったのは、座禅という実践を必要とするからである。禅は、他の3つの流れとは異なり、現世利益や浄土への往生という実利的な効果をもたらすものではない。むしろ精神的な安定や生活規範として機能するもので、鎌倉時代以降の武家に好まれた。

<神仏習合>
神仏習合は、土着の神道と外来の仏教とが、お互いに異なる役割を果たしながら融合し、習合していった現象のことをさす。
それは、他の宗教においても見られる「シンクレティズム(諸経混淆)」の日本的なあらわれだが、神道と仏教が独自性を保持した点に特徴がある。
東大寺の大仏建立される際に、宇佐八幡宮の八幡神が勧請された。(手向山八幡宮)
興福寺(藤原氏の氏寺)は、春日大社(氏神)と密接な関係をもってきた。

<本地垂迹説>
日本の神々は実は仏教の仏がその姿を地上にあらわしたものだとするのが、神仏習合の現象を理論化した。
(興福寺の仏=春日大社の祭神の本地仏)

<廃仏毀釈>
日本固有の神道の純粋性を強調する国学者(平田篤胤)や神道家が、神道の世界から仏教的なものを一掃しようとする動き(神仏分離)が具体化した。仏教そのものを排斥しようとする過激な「廃仏毀釈」の嵐にさらされることになる。

<天台宗>
「日本人の無宗教標榜の根底にある『天台本覚論』」
自然に存在する草木でさえ成仏できるという「草木成仏」の考え方がある。高僧の良源に仮託された『草木発心修行成仏記』という短い文章で、植物が芽生え、成長し、やがて花や実をつけて枯れていくまでの過程が、仏道修行び過程と重ねあわされ、さらには草木はそのままで成仏していると説かれた。
本来仏教は、開祖である釈迦が家庭を捨て、世俗の生活を離れて出家したように、むしろ現実の価値を否定する「現世拒否」の姿勢を特徴としている。
ところが、草木成仏の考え方に代表される天台本覚論は、現世を全面的に肯定する思想であり、その点で本来の仏教の教えとは対極に位置するものだが、日本ではむしろこちらの考え方の方が広く受け入れられたのだった。
ただ、あらゆるものがそのまま成仏しているということであるなら、改めて仏道修行をする必要もなければ、戒律も必要もなく、さらに仏教の教えそのものさえ意味をなさないことになってしまう。それは無条件に現実を肯定することで、宗教そのものの存在意義を否定すること結びついていく。

<真言宗>
真言密教の第一人者 青龍寺 恵果は、空海を一目見て、笑みを浮かべて喜び、「我、先より汝が来ることを知りて、相待つこと久し。今日相見ること大いに好し、大いに好し。報命つきなんと欲するに付法に人なし。必ず須らく速やかに香花を弁じて、灌頂壇に入るべし」と述べたとされる。法を伝えるに値する人間が周囲にいなかったので、恵果は空海があらわれるのを待ち望んでいたというのである。空海は、この恵果から胎蔵界と金剛界の灌頂を受け、さらには伝法灌頂を受けて、阿闍梨の位を授けられる。あわせて密教関係の経典や仏像、法具などを調達し、それを日本にもたらすことに成功する。空海によって初めて密教は体系化された形で日本に伝えられることとなった。

<浄土宗>
法然の教えは、かなり斬新なものであった。「南無阿弥陀仏」の念仏さえ唱えれば極楽往生がかなうと説いたからである。
法然は、一般の仏道修行を「聖道門」と呼び、それをもっぱら念仏によって往生を果たす「浄土門」と対比させた。聖道門が、誰もが簡単に実践することができない「難行」であるのに対して、浄土門は、誰もが実践できる「易行」である。要するに法然の教えは、出家得度して、長い時間をかけて修行を行わなくとも、誰もが簡単に念仏さえ唱えれば悟りを開き、往生できると説くものだった。

<浄土真宗>
『歎異抄』は、親鸞の死後に、弟子の唯円が、親鸞のことばとして書き記したもので、本人が直接に筆をとったものではない。しかも唯円は、自分と異なる形で親鸞の教えを理解しようとする人間たちを批判するために『歎異抄』を編纂した。
『歎異抄』の中で語られた「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人おや」の「悪人正機説」が親鸞の思想の核心とされる。

<禅宗>
禅は瞑想法の一種であり、インドから中国に伝わった。
中国各地に禅の修行を行うための禅院が次々と建てられていき、南宋の時代には、禅家五家(潙仰、臨済、曹洞、雲門、法眼)が成立し、江南の丘陵地帯や山麓地帯にあった禅宗の大規模寺院が「五山」に定められた。
<臨済宗>
常に戦闘に従事し、死と隣り合わせの武家にとって、死の覚悟をしながらの修行にいそしむことを説く禅は、相性の良いものであった。
南都六宗や天台、真言両宗は、朝廷や公家と密接な関係をもち、そうした階層出身の僧侶でなければ、出世がかなわず、武家出身の僧侶は禅宗に行くしかなく、禅宗と武家とが密接な関係を結ぶ要因となった。
禅が武家に受容され、大規模な禅寺が建立されることで、鎌倉末期には、南宋の五山をモデルとした五山の制度がつくられていく。

足利義満の時代には、南禅寺を別格として、京都五山、鎌倉五山が確立される。
京都五山:天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺
鎌倉五山:建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺

<曹洞宗>
僧侶は、必ず剃髪し、墨染めの衣を身にまとう。
強い影響を受けた中国の『禅苑清規』には、悟りを開いて亡くなった僧侶くための「尊宿葬儀法」と、まだ修行段階にありながら亡くなった雲水のための「亡僧葬儀法」の2つの葬儀のやり方が示されていた。
後者が一般信徒の葬儀に応用された。もともと雲水のための葬儀の方法であったために、そこには剃髪して出家したことにし、その上で戒律うぃ授け、さらに戒名を授ける部分が含まれている。つまり、死者をいったん僧侶にするわけである。死後に出家するというのは、仏教の伝統的な考え方からはずれるが、この方法は定着し、曹洞宗以外の他の宗にも伝わっていく。その点で「葬式仏教」の生みの親ということになる。

<日蓮宗>
「南無妙法蓮華経」の題目を唱えれば、現世において利益がもたらされるという信仰が京都の町衆のこころをつかんだ。

 

 

リフォーム現場撮影のポイント

デジカメ撮影の講習会に参加した。その時のポイントを残す。

  1. デジカメの設定
    1. フラッシュ停止
      カメラのフラッシュは止める。
    2. 設定の変更
      プログラム・モード(P)で設定する。
      ダイナミックレンジ:AUTO
      ISO感度:AUTO
      画質:FINE
      画像サイズ:LARGE(6Mピクセル)以上
      露出:+1.0
  2. デジカメの準備
    1. メモリーカード
      ブランドものを利用する。
      SAN DISK、東芝、Transcend 製が安心。
    2. 空容量
      画像サイズが大きいため、空き容量を確認する。
      古いデータは削除しておく。
    3. レンズの清掃
      専用のクロスでレンズを拭く。
      ティッシュペーパーはレンズに細かい傷がつくため、使用しない。
    4. 広角レンズ
      狭い室内で撮影するためには、20mm以下の広角レンズが最適。
    5. 補助照明
      明るさを補うには、LED照明を利用する。
    6. 三脚
      シャッター速度が遅い(1/60以下)では、手振れを防止するために三脚を利用する。
  3. 撮影場所
    1. 整理
      部屋の不要なものを片付ける。
      自分たちの靴や鞄は、押し入れにしまったり、ベランダに出す。
    2. 照明
      室内の照明は、すべて点灯する。
    3. カーテン
      レースのカーテンがあれば、引いておく。
    4. ケーブル
      インターフォンやランプのケーブル類は、養生テープで固定し、見苦しくないようにする。
      受話器のケーブルがこんがらがっている場合は、ほどいておく。
    5. 風呂場
      扉を全開の状態で固定しておく。
    6. 蛇口
      水道の蛇口は、使用する位置(手前)に動かす。
    7. シャワーヘッド
      シャワーヘッドは、上の固定位置にかける。
    8. クローゼット
      中を撮影するときは、白のワイシャツをかけておくと奥行きが表現できる。
  4. カメラの扱い方
    1. 持ち方
      左手でカメラを支えるように持ち、右手でシャッターボタンを軽く押すようにして撮影する。

    2. 脇をしめて構える。左は軽く開け、右はきつく締める。
    3. 高さ
      部屋の中心の高さに水平に構える。
      しゃがんで構えると安定する。
    4. 全体
      縦の線が垂直になるように写す。
    5. 部分
      部分を拡大して写す場合は、水平を意識して写す。
  5. 場所による撮影の仕方
    1. 玄関
      ドアを開けて、外から離れて写す。
    2. 部屋
      対角線で写す。

    3. 壁の正面から写す。
    4. 狭い場所
      狭いユニットバスなどを写す場合は寄らず、逆に離れて写す。

    5. 壁の鏡は、撮影者が写り込むため、写さない。
    6. 下がれない場所
      撮影者がシャッターを押せないような下がれない場所では、手振れを防止するために、三脚とセルフタイマーで写す。

    7. 段差の部分や隅を写す。
  6. その他
    1. デジカメとパソコンの違い
      デジカメの液晶で確認する画像とパソコンで見る画像の違いを知っておく。