桜井 英治 著 『贈与の歴史学』を読む。
贈与の歴史学
日本の贈与は義務感にもとづいてなされる傾向がつよい。日本の民法が西欧諸国のそれと異なり、贈与の撤回を認めていないのもそのためだ。
そのような贈与のあり方は、日本の歴史の中で中世、鎌倉・室町時代(12世紀から16世紀)、武士が新たな支配階級として勃興してきた時代までさかのぼる。この時代、極端な功利的性質を帯びるのである。
中世は自給自足の時代などではなく、多くの商品が流通し、それらの需要と供給のバランスによって決定される市場経済が成立していた。
京都には、土倉とよばれる多数の金融業者が店舗を構え、貸出だけでなく、大口小口の預金者から資金を集め、営業利益に応じて利息を払うという、銀行さながらの業務をおこなっていた。また、権利(物権、債権)が中世ほど容易に移転しえた時代は少ない。一片の借金証文が債務者の知らないうちに金融業者間で転売され、いつの間にか見ず知らずの債権者の手に渡っているなど普通におこりえた。
市場経済にみられた合理的思考や計算、打算といった観念は、贈与の領域にも深く浸透していた。
思うに贈与経済と市場経済とは、一般に信じされているほど対立的なものではないのだろう。対立的に見えるのは、未開社会と近代資本主義社会しか分析せず、その中間に位置する多様な社会の分析を省いてきたことからくる偏見である。
贈与の功利的性質とか市場経済との親和性への反論は、、純朴な贈答が典型的な贈与の姿であるというもの。
この反論は、半分は正しく、半分は間違っている。ある時代のもっとも進んだ部分が、次の時代に跡形もなく消え失せてしまうことは、歴史にはしばしばおこりうる。
同じ贈与慣行のなかにも時代によって変わるものと変わらないものがある。かつて、フェルナンド・ブローデルは、人類の中長期的な歴史の営みを下層のもっとも変化の緩慢なステージから順に「物質文明」「市場経済」「資本主義」という三層構造として概念化したが、贈与の歴史においても参考になる。主に民俗学が注目してきた食品の贈答が「物質文明」の層に関わる事象とすれば、本書は、「資本主義」の層に相当する。そこに見られる贈与の振る舞いは自由奔放で、限りなく商取引に近づくが、それでも両者が完全に同化してしまうことだけはついになかった。最後まで踏み越えられることのなかったこの一線こそ、贈与を贈与たらしめている原理の心髄が潜んでいる。
1.4つの義務
マルセル・モースの問い
フランスの社会学者マルセル・モースの『贈与論』の中で、贈与をめぐる義務として次の三つをあげた。
贈り物を与える義務(提供の義務)
それを受ける義務(受容の義務)
お返しの義務(返礼の義務)これに、モーリス・ゴドリエによって、くわえられた第四の義務
神々や神を代表する人間へ贈与する義務(神に対する贈与の義務)
「お返しの義務」
贈答という言葉自体が返礼(答)の存在を前提にしている。このようにそっれを受け取った者に対して返礼を義務づける贈与の性質を互酬性(reciprocity)とよぶ。贈り物を一種の債務・負債と感じる意識がある。平たくいえば、贈り物を受け取ることにより受贈者には「借り」ができ、贈与者には「貸し」ができる。このような債務意識はどこから来るのか。
「贈り物を受ける義務」
贈り物を受け取ることにより、受贈者には贈与者に対する「借り」ができる。贈与者は、-ときに意識的に、ときに無意識に―その受贈者が自分と特別な人現関係を築いてくれることをもって回収しようとする。受贈者は、その期待に応えてもよいと思えば素直に受け取るだろうし、期待に応えられないと思えば受け取らないか、かりに受け取ったとしても、その期待とは別の対価で返済をおこなうだろう。要するに、人は返済のできる見込みのない「借り」をつくりたくないのである。
個人と個人、あるいは集団と集団が良好な関係を構築・維持しようとするとき、「贈り物を受ける義務」は、もっとも基本的なマナーとなった。
「提供の義務」
この種の贈与を強いるメカニズムは、表面的にはヴァランタリーな体裁をとっている場合でも、実際には暗黙の圧力・義務感のもとで贈られることがおおい。「贈り物を与える義務」の場合、贈与者-受贈者間だけでは完結せず、そこに比量の対象となる他者(同僚や同業者)が登場する。そして、受贈者で実際に同格他者との比較が行われるか、実際に行われないまでも、そのような比量がおこなわれることを恐れる気持ちが贈与者に萌しさえすれば、それはいつでも義務となる。
「神に対する贈与の義務」
神頼みも無償ではかなえてもらえないわけだが、必ずしも多額である必要はない。
2.神への贈与
神に対する贈与が税に転化した例として、古代の祖と調があげられる。
「祖」
祖が土地からの収穫物の一部を初穂として神の代理人たる首長に貢納する慣習から生じた。そして、「未開社会」において「初穂または田祖は、首長(または共同体)の支配する領域の土地を用益する民戸の帰属を確認する最低限の義務であった。」
「調」
古代には毎年9月に伊勢神宮に初穂を奉る神嘗祭、11月に畿内諸社に初穂を奉る相嘗祭(後の12月の月次祭)、2月に全国の官社に幣帛を分かつ祈年祭という3つの重要な祭儀があったが、これらの初穂、幣帛に用いられたのが調である。
これら初穂。幣帛の内訳は繊維製品や海産物、酒、塩など調の品目と一致する。調の納期は、近国が8月中旬から10月末、中国が11月末、遠国が12月末であるのを受けたものである。
海産物の調が主に加工品であったのに対して、生鮮品を含む海産物を天皇の食事用に貢納した制度を贄というが、これも本来は神への捧げものであった。
「初穂・初尾」
農業や漁業から得られた最初の収穫物、初物のことで、初穂は神仏に捧げるべきものとされ、語自体も現代にいたるまで語義を変えずに用いられている。初穂は自然界から得られた恵みの一部を神仏に捧げるものであり、同様の捧げものは汎世界的に見出すことができる。
「人は、聖なる存在から受け取ったものの小部分を、聖なる存在に与え、しかも、自分が与えるもののすべてを、それから受け取るのである。」というのがその本来の意義であった。
3.人への贈与
人に対する贈与が税に転化した事例を見る。
室町幕府は、経済先進地帯である京都に本拠地を占めたことから、総じて土地や農業からの収益よりも、商業・流通・金融・貿易などに大きな比重をおいていた財政の特徴がある。
守護出銭とは、大小守護たちが将軍家に拠出した分担金にほかならない。守護出銭は、将軍家が大きな支出に直面した際に守護が臨時に拠出したもので、賦課方法は、諸大名が将軍に申し出るかたちでおこなわれた。
贈与の強制力
1.有徳思想
有徳銭の起源のひとつは、諸社の祭礼を挙行するために特定の有徳人を指名して祭礼費用を拠出させる馬上役のシステムにあったと考えられる。中世の京都では、五条以北を祇園社と六条以南を稲荷社がそれぞれの祭礼圏として分け合っていた。12世紀の京都には、大きな繁華街が、四条と七条の二か所に形成されており、多くの有徳人を生み出した。馬上役は、この祭礼圏に居住する有徳人の中から「闕(けち)」のあったものを差定する方式をとった。
貧しい民衆に代わって有徳人が祭礼費用を負担し、その祭礼を民衆が享受する。有徳人に徳行を求める民衆意識こそ、中世後期において有徳銭をささえていた主要な倫理的基盤であった。
徳性一揆(土一揆)
有徳銭が民衆に対する間接的な贈与であったとすれば、土倉・酒屋などの金融業者に債務破棄を求めた徳性一揆は、いわば民衆にたいする直接的贈与を求めた運動と位置づけられる。
2.「例」の拘束力(先例・新儀・近例)
中世においては「先例」、すなわり昔から連綿と続いてきたことこそが一般に<善いこと>とされた。その対義語が「新儀」であり、前例のない新しいことを意味した。前例のないことは一般に<悪いこと>と考えられていた。「新儀」が「先例」になるケースとして、それをおこなった人物が彼の家や所属集団に繁栄をもたらすなど、あやかるべき生涯を送った場合であり、彼の「新儀」は、「佳(嘉)例」と呼ばれ、準拠すべき「先例」に転ずる。
もう一つのケースとして、「新儀」が現に何度か続いて行われてしまうことによって、それが既成事実化して「先例」になることもあった。このような日の浅い「先例」のことを「近例」という。「新儀」の恩恵に浴している者はその「先例」化を願い、そうでない者は「先例」を守るためにこれを斥けようとするせめぎあいが、「近例」というステージで戦われた。
3.「相当」の観念と「例」の秩序
「先例」の拘束力は贈り物の品目や数量に及んだ。前と異なる品目を贈ったり、品目は同じでも数量を減らしたりすれば、受贈者側は不満を覚え、ときにはあからさまな抗議に出たこともあった。
「相当の儀」
対人関係において譲れるか譲れないかの判断基準を提供していたのが「相当」とよばれる概念である。
中世の人びとは損得勘定、釣り合いということに非常に敏感であった。彼らは、損得が釣り合っている状態を「相当」、釣り合ってない状態を「不足」とよび、他家との紛争や交際ではつねに「不足」の解消と「相当」の充足を求めた。
贈与における「相当」
何よりもまず、贈り物と返礼が同じものか、少なくとも等価値であることが不可欠である。これを人類学では、対称的返済とか同類交換の原理とよぶ。中世にもいつのころからか夏の恒例行事として瓜を贈りあう習慣が生まれたが、この季節にはどこの家にも瓜が溢れていると知りながら、人びとは瓜を贈り、また受け取りつづけたのである。
贈与と経済
1.贈与と商業
13世紀後半、米で納められていた年貢が、このころを境にして銭で納める形態に変化したのである。これを代銭納制というが、中世日本の経済にとって最大の事件であった。
代銭納制がはじまると、生産物を現地でいったん売却・換金し、それによって得た銭を年貢として中央に送る。生産物は、銭に変えられた時点で商品に変化する。つまり、代銭納制普及以後の日本列島では本格的な市場経済が展開した。
銭よりもさらに軽量で輸送コストの安い決済手段が求められた結果、この時期に出現したのが「割符(さいふ)」とよばれた手形である。
割符には、1個10貫文(今日の100万円)の定額手形が多く、それらは一つ、二つと個数で数えられ、一つといえば10貫文、二つといえば20貫文を指し、定額面であることから人から人へ転々と譲渡されうる紙幣的な機能が期待されていたことを示している。
代銭納制の普及は、商品作物の生産を促した可能性も高い。土地土地の気候に適した、しかも換金性のより高い作物、つまり商品作物を作ったほうがはるかに効率的なわけで、そのような生産者行動を制度的に可能にした。
2.贈与と信用
対称的返済、同類交換の原理が優越していた日本の贈与においては、財政や家計の状態にかかわりなく、つねに贈答品の交換価値に人びとの強い関心が向けられた。
贈り物の使用価値が重視されないのであれば、もはや現物で贈与をおこなう必要はなく、純粋に交換価値だけを運ぶ物品を贈りあえばよいということになる。ここに、交換価値の伝達を唯一の機能とし、それ以外の使用価値をいっさい脱ぎ捨てた物品、すなわち貨幣による贈与がはじまる必然性があった。現金が平気で贈答されることについて、日本の特殊性として指摘されるところだが、中世後期の日本も銭を贈答に用いることにまったく抵抗を示さなかった社会である。
贈り物を持参するさいに折紙(目録)を添える作法があり、銭の贈答の場合も同様であった。贈り物一般に添える折紙を「進物折紙」、銭の添える折紙を「用脚折紙」「鳥目折紙」などとよんだが、もともと儀礼の道具にすぎなかったこれらの折紙が銭の贈答をめぐる計算上の操作に利用された。
用脚折紙には、品目(銭)は書かず、金額だけを「疋」単位で記すことに特徴がある。一疋とは十文のことで、五百疋は、五貫文である。
「疋」というのは、もともと絹の長さの単位だったものが銭の単位に転用されたもので、かつて絹が貨幣として用いられた時代の名残である。12世紀から13世紀にかけて絹の貨幣機能が銭に奪われていくにしたがって、「疋」という単位も絹から銭に引き継がれたのだが、注目されたのは、贈答のような儀礼的な面では「文」や「貫文」ではなく、「疋」を使うのが一般的だった。「疋」はまさに儀礼用単位に特化した。
「折紙の使い方」
いきなり現金を贈ることはせず、まず金額を記した折紙を先方に贈り、現金はあとから届けるのが普通であった。
次に現金が引き渡されたあとで、折紙は清算が済んだ証として受贈者から贈与者に返却された。もっとも簡略な方法は、折紙の金額部分に合点を付して返却するというものである。より手の込んだ方法として、「裏封」といって折紙の裏面に受取文言を記載して返却する方法もあった。
「折紙の経済的機能」
折紙のシステムが贈与者にもたらした第一の利点は、資金の準備がなくても贈与がおこなえるようになったことである。
現金は用意できなくても、折紙を贈ることでとりあえずその場をしのげるようになった。
「贈与の相殺」
折紙を利用した計算上の操作として、もっとも典型的なのが贈与の相殺である。折紙のシステムによって贈答というすぐれて儀礼的な分野にも債権・債務関係と同様の操作が入り込んできた。とくに相殺という手段は、現金の移動がいっさいなく、帳面上の操作、計算のみによって贈与を完結させてしまう点で、贈与の存在意義を根本から脅かすものだった。