読書 『「知」の十字路』 明治学院大学 国際付属研究所 公開セミナー(3)

”知の十字路”
知の十字路

明治学院大学 国際学部付属研究所 公開セミナー(4)『「知」の十字路』河出書房新社 を読む

「歴史の尻尾を手繰り寄せる」 佐野眞一 x 原武史

近代の皇后の存在感
明治、大正、昭和、平成と四代の皇后を通してみると、非常に目を引くのは、貞明皇后(大正天皇の奥さん、昭和天皇の母親)、それから今の美智子皇后です。このふたりの存在感はやはり際立っている。

近代天皇制における天皇、皇后のあり方を平べったい言葉で言いますと、「夫婦共働き」ですよね。それが連綿と続いてきて、そのピークが現在だと思います。美智子さんは巨大な存在でしょう。明治から近代天皇制で重要人物を3人挙げろと言われたら、まず明治天皇、それから、悲劇やあの孤独感も含めて昭和天皇でしょう。そして3人目が、現天皇には申し訳ありませんけれども、美智子さんでしょうね。美智子さんは「神事をおろそかにしてはならない」という貞明皇后の教えを守っている訳ではないでしょうけれども、一心不乱に神事を行っている。以前、彼女の故郷の館林に美智子さんが表敬訪問にいらした際に会ったのですが、驚いたことに、彼女の眼差しが、ひとりひとりを的確に捉えているんです。少なくとも私は「見られたな」という意識を持ちました。ひとりひとりが「見られている」とい感じる眼差しです。それは単に眼差しの強さというつまらないことではなく、「ああ、この瞳の中に入っちゃったんだな」という意識を持ちました。よく知られているように、天皇・皇后は沖縄戦の終わった日、日本の敗戦、それから広島、長崎に原爆が投下された日の四日は、すべて休んでただ祈るわけですよね。それを率先しているのは、美智子皇后だと思います。
さて、平成論になると、次の天皇になる方のお妃問題に触れざるを得ない。そうするとやはり、近代天皇制は、そろそろ耐用年数が切れつつあるというのが私の認識です。近代天皇制は、最大の危機を迎えていると思います。
昭和天皇の次の代に結婚した美智子さんは、皇族ではなく庶民からでた方ですけれども、そういう非常にわかりやすく言えばシンデレラ・ストーリーのような形で、ちょうど日本が高度経済成長という波に乗っている時代に皇室にはいった。ところが、昭和天皇っていうのは良くも悪くもたいへん長生きをしてしまったため、現天皇の皇太子時代が非常に長かった。それは皇太子妃美智子さんの妃としての生活が長すぎたことで、矛盾がいっぺんに押し寄せてきているように感じるのです。

少なくとも日本人は、天皇制に代わる新しい制度を編み出すほど独創的な民族ではないと思っています。

美智子皇后は、危機的な状況になればなるほど、輝きを増していきます。それは今だけを見れば確かにいいことのように見えます。しかし、「次は、どうなるんだ」という見方がされるようになる。つまり、皇位の継承という点から長い目で見たときに、美智子さんの行動が皇室の危機を深化させていると思えてくる。

美智子さんというのは、もう出てこないであろうスーパースター、出来すぎの女性です。これは美智子さんの責任ではありません。

私は美智子さんのことを、ゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」という有名な絵を見るようだと感じてしまう。彼女は出来すぎますから、自分の息子まで食べている感じを受ける。これは天皇制にまつわる宿命です。凡庸では危機は乗り切れませんから困るわけです。

ただし、天皇制はというのは新しい時代になれば違う天皇制を編み出していかなければならない。昭和天皇は昭和天皇流の編みだし方を、現天皇と美智子さんは、祈りという形で行っている。では、次期天皇がライフワークとするものが無くなっている。象徴的にいえば、昭和天皇は稲の天皇だった。現天皇、皇后は、エコロジー、平べったい言葉で言えば「縁」というところに依っています。そういう大きな構想力の中のメタファーまで手をつけられると次のテーマ
がないと思ってしまう。本当に難しい局面にきています。

「なぜ学ばなければならないのか」 佐藤 優 x 原 武史

総合大学とはなにか
大学で学べる学問を簡単に挙げてみますと、文学、哲学、法学、政治学、工学、理学などがありますが、これらはすべて実学であり、現実のどこかに役立つものです。また、論理や作品の形で示すことができます。ヨーロッパでは、この実学だけしか学べべない大学は総合大学と言わず、Polytechnique(ポリテクニーク)やCollege(カッレジ)と言います。なぜなら、神学部がないからです。
ヨーロッパにおいて総合大学といわれる場合には必ず神学部があります。神学は、虚学です。数学の背景にも、哲学の前提にも、歴史学の前提にも神学はあるし、音楽や体育にも、それを基礎づける神学があるのです。神学とは表にある様々な学問の裏側についている学問と言えるでしょう。そして虚の物と実の物を合わせたものが総合知であり、それらを学べる大学を総合大学と呼ぶ考えなんです。

中世の大学は何年制だったと思いますか?大学に入学するのが。12歳から16歳くらいです。一般教養を11年間やった後、法学部と医学部と神学部に分かれます。修業期間がもっとも短いのが医学部で、専門課程がだいたい5,6年でした。法学部で8年から10年くらい。神学部は、約16年です。ですから、神学部出身者は、大学に27年間いるということになります。大学入試はなく、大学の先生の弟子になるんです。入学しての卒業率は、約5%です。95%が途中で退学してしまう。
この中世において、「博識に対抗する総合知」という考え方がありました。専門知識をいくら知っていても、今で言うところの「オタク」扱いしかされません。それに対して、知識の量はほどほどにしかなくても、その知識をどう扱えばほかの分野の知識と連動させることができ、人間が生きていく上で役にたつかを知っていることを、中世の人たちは総合知と言ったんです。

民族と国家
「民族ができる」ということは、一定の教育を受けた労働者を作ることと同じなんです。産業転換の構造に合った形で、どんな労働にも就ける人を作らねばならないという要請の中で、民族が作られていく。その民族の構成員はは、均質で平等です。そうなったときに、「敵のイメージ」が重要になってくる。
「チェコ人」ができるいときにはドイツ人が「敵のイメージ」です。「ポーランド人」ができるときはロシア人が。「アイルランド人」は、イギリス人が。「フランス人」は、イギリス人とドイツ人が。「ドイツ人」は、フランス人が。どうしてフランスとドイツはお互いに「敵のイメージ」になるのでしょう。それは、戦争を繰り返す中で、自分たちが負けたときにの記憶-「我々はこけにされた」「ひどい目に遭わされた」といった記憶を結びつけていって、「私たちをよくもひどいめに合わせたな」という負の連帯意識を持つようななるからです。民族はこうしてできあがっていく。

見えない「関係」を見抜く
今、中国では、負の連帯意識によって、中華帝国時代の「漢人」とは異なる「中国人」という近代的な民族が作られています。このとき、我々日本人が「敵のイメージ」にされてしまっているため、日本と中国は、国家という位相では、ぜったいに仲良くならないことを前提として、お互いに関係を組み立てないといけない。国民国家形成のプロセスにおいて、日本人は中国人を「敵のイメージ」にしませんでした。このような非対称性うぃわれわれの努力で崩すことはできません。
ところが、この「敵のイメージ」をつくる課程において、中国は、チベット、ウィグルとの間での民族問題という深刻な問題を抱えています。
民族自決権を行使して、チベットがが独立するという、ナショナリズムを煽れば中国自身にブーメランで返ってくる事柄です。

読書 塩野七生『海の都の物語』 中央公論社 

塩野七生 著 『海の都の物語』 を読む。

第二話 海へ

”海の都の物語”
海の都の物語

中世の地中海交易が扱った商品といえば、香料を中心とした奢侈品であると思っている人は多いであろう。たしかにこれらの品は、ヴェネツィア商人が商った、典型的な品ではあった。しかし、奢侈品は、絶対に必要な品ではない。そして商売というものは、買い手が絶対に必要とする品を売ることからはじまるものである。買い手に買いたい気持ちを起こさせるような品を売りつけるのは、その後にくる話だ。

海洋貿易時代になると、主要商品が奴隷と木材に代わる。いづれも、ヴェネツィア商人の得意先であるアフリカの回教徒たちが、ぜひとも欲しいと望む品
であった。
キリスト教によって、奴隷制度は完全に廃止されたわけではない。キリスト教徒を奴隷として売り買いすることは禁じられてはいたが、キリスト教徒からみて、異教徒や、また単に不信の徒とされた人々、つまり、いまだにキリスト教化されていない人々の場合は、認められていたのである。
カトリック教会がそれを正当化するためにあげた理由とは、肉体を束縛することは精神の救済に役立つ、というものであった。この理由によって奴隷として売り買いしてかまわない人々には、異教徒である回教徒はもちろんのこと、同じキリスト教徒でもカトリック教徒以外の人々まで含まれるわけで、ローマン・カトリックから異端とされていたギリシャ正教を信じるカトリック教徒も、この分類に入ることになるのである。しかし、最大の奴隷”資源”の産地は、いまだキリスト教化されていない地方であった。6世紀頃はアングロ・サクソン人が、9、10世紀には入ると東欧のスラブ民族が、奴隷市場で売られる主要な民族であった。

それにしても、中世の奴隷は、ヨーロッパからアフリカへ流れていたのである。

奴隷の買い手は、アフリカのサラセン人が主要な客であった。ハレムにも売られたが、回教徒の軍隊を補強するのに、その大部分が使われたのである。

奴隷と並ぶヴェネツィアの二大商品のもう一つは、木材であった。これまた上得意は、アフリカの回教徒である。地中海地方は、長い間の手入れの悪さのために、木材がひどく欠乏していた。一方、ヴェネツィアの背後には、多量の木材の供給地が控えている。ヴェネツィアが造船業の先進国になれたのは、近くに安くて質の良い木材の供給地を持っていたからだと言われるほどであった。

北アフリカの回教徒に奴隷と木材を売り、金や銀で支払いを受けたヴェネツィア商人は、その”外貨”を持ってコンスタンティノープルへ行く。そして、そこで、必要不可欠な品ではないが西ヨーロッパ人が最も欲しがる、奢侈品を買い求めるのである。香料とか布地とか、金銀の細工品から宝石も。これらを積んでコンスタンティノープルを発ち、ヴェネツィアへ戻るのが、ヴェネツィア商人の主な交易路であった。商品を持ってヴェネツィアに着けば、ヨーロッパ各地から集まった商人たちが待っていて、荷をほどく間も惜しいように、またたくまに売れていくのである。

ヴェネツィア人は、彼らの力の基盤は船であることを熟知していた。いかなるヴェネツィア人も、老朽船でないかぎり、外国人に船を売ることは禁じられていたし、ヴェネツィア人が船を購入する時はヴェネツィア国内で造られた船を買わねばならないと、法律によって決められていた。
材料は売っても、完成品は売らなかったのである。

第四話

読書 『歴史と現在』 明治学院大学 国際学部付属研究所 公開セミナー(4)

明治学院大学 国際学部付属研究所 公開セミナー(4)
『歴史と現在』 河出書房新社 を読む

”歴史と現在”
歴史と現在

「演歌と夜汽車」 八代亜紀 x 原 武史

キャンペーンと鉄道
30日のうち28日は地方まわりですから、両手にトランクを抱えて、譜面を詰め、全国を移動し続けたんです。手はマメだらけで、毎晩夜行に乗って違う町へ行くわけです。あるとき、朝早い時間に、在来線-場所は忘れてしまったのですが、-に乗ったのですが、とにかく疲れていて、紐靴を履いていたのですが、「ああ、座席に足を乗せて眠ったら気持ちいいだろうなあ」と思っていたらそのまま寝ちゃったんです。そしてふっと気づいたら車内は超ラッシュ状態なんです。吊革に掴まってぎゅうぎゅう詰めになっていた。でも、私が足を投げ出して乗っているそのボックスだけ、誰も座っていなかったんです。私はすごく恥ずかしくて、ぱっと足を下ろして、一所懸命バッグを手元に寄せて小さくなりました。ただ、今だからわかるのが、おそらくそのときの周囲のみなさんは、泥のように眠っている、手をマメだらけにしてトランクを横に置いて眠っている若い女の子を、起こせといわなかったということです。暗黙のうちに「寝かせといてあげようよ」という雰囲気になってくれた、みなさんの気持ちですね。人間は、一所懸命やる若者に対して、ものすごく優しいということを学びました。

会場からの質問に答えて
「私は、大学生やキャンパスなどにすごく憧れているんです。その年代の私は、とにかく八代亜紀として過ごしていて、八代亜紀という責任があった。売れていようと売れていまいと、八代亜紀でなくてはならいけない。もちろん遅刻してはいけないし、反発も簡単にできない。だからこそ、そういう責任を持つようになる前の大学時代は、すごく貴重な4年間だと思います。特に、自分を知るチャンスですし、自分を知って、信じていくことが大事な時期です。いろいろな自分の姿を思い浮かべて、そのなかでも特にどれを信じられるかを描いてごらん。そして、それに向かっていけばいい。」

「文学と東京」 宮部みゆき x 原 武史

鉄道の存在が小説に与えるもの
英語版もいくつか出ているんですけれども、英語版の『火車』が出たときに、『ヘラルド・トリビューン』紙の記者の方がインタビューにきて下さったのですが、「私は東京と言っても非常に限られた場所にしか住んでいないので、私の書く東京は、ある種の偏った東京で、TOKYOではないかもしれない」と申し上げたんです。「ダウンタウンで、ブロンクスみたいなところ」と言ったら、「あなたがどこに住んでいて、どこに血脈があるかということにかかわらず、私たち英語圏の人間も、今の日本で何が起きているのかが知りたい。だから、日本の日常を生きている人たちが出てきて、事件に巻き込まれたり、あるいは事件を解決したりしていくような作品を読みたい。」と言われたんです。それに対して私が、「もっとスケールの大きい国際謀略ものとか、大国間の駆け引きなどが描かれている小説が日本にもたくさんありますから、そうゆうものもぜひ紹介してください」と言ったら、「それは国産で足りているのです。ただ、JAPAN NOWが欲しいんだ」とおっしゃるんですね。これはすごく意外なことでした。たとえば、「サラリーマンが会社帰りに居酒屋で一杯やる」といった描写を、アメリカの人たちが読みたいと思うとは思わなかったので。「生活人であるという点では、少なくともある程度の先進国ではみな同じハートを持っているけれども、ライフが違う。そのライフを見たいんだ」

「メディアと社会」 佐藤 卓己 x 伊東秀爾

メディアとは何か
1980年代になるまでメディアという言葉は広告業界のジャーゴン(業界内だけで通用する隠語)としては使われていたものの、一般の人たちが使う言葉ではありませんでした。ですから当時は新聞でメディアという言葉を使うときには、「報道などの媒体」「情報伝達媒体」といったように、カギ括弧つきで説明されていました。80年代後半になってバブル期に入るなかで初めて、メディアという言葉が日常用語として使われるようになりました。

私たちのテレビにまつわる思い込みと歴史的事実には大きなギャップがあるんです。一般の歴史書には「1953年に日本でテレビ放送が始まり、力道山のプロレスを見るために、街頭テレビに日本人は殺到した」と書いてあります。さらに1956年には、大宅壮一がテレビについて「一億総白痴化」、つまり、下品なテレビ番組を観ることで日本人が馬鹿になると言ったこともよく知られています。
しかし歴史的事実について見直してみると、街頭テレビで初めてテレビを見た人よりも小学校の教室でテレビに出会った人のほうが多いはずです。また、大宅壮一が1956年の日本テレビ系の『なんでもやりまショウ』を批判した当時、このテレビ番組を観られた地域は首都圏だけです。大宅壮一が批判した低俗番組は首都圏の「贅沢品」であって、とても一億人が観ていたわけではありません。

「フローなメディア」をいかに研究するか
テレビ研究は、史料収集という点で、メディア史研究のなかでも特に難しい面があります。

メディアは通常、フロー-流れ去って保存されない-メディアと、ストック-蓄積され頬保存される-のメディアとのふたつに分けられます。映画は当然ストックされるメディアで、名画座のようなところで繰り返し上映するのでフィルムは原則的に保存されます。しかし、テレビは、アーカイブがあるとは言っても、過去のものがほとんど残っていません。フィルム時代の60年代までよりもビデオ時代の70年代が特にそうです。というのもビデオで撮っても、放送が終われば、その上から被せて同じカセットを何度も使っていたからなのです。だから、皮肉なことですが、黄金時代の番組は、テレビ局にはほとんど保存されていません。テレビというのは、もともと保存や蓄積するということを考えていなかった「フローな媒体」だと言えます。
活字の世界でいえば、書籍が「ストックされるメディア」で、新聞や雑誌が「フローなメディア」でしょう。ストックされる本は、文化財的なものと評価されますが、それに対する新聞・雑誌などは、フローなメディアですから、消耗品として評価は低い。古本は売れますが、古新聞・古雑誌は通常ゴミです。同じことが映画とテレビの関係にも言えて、映画とテレビのどちらが高級かというと、まず映画でしょう。
「趣味はなんですか」と聞かれて「映画です」と答えるのは「読書です」と同じくらい恥ずかしくないでしょう。でも「趣味はテレビです」は「東スポです」「週刊大衆です」と答えるのと同じくらい恥ずかしい。

国会図書館ですら、『キング』は歯抜け状態で、まともなコレクションになっていない。大衆雑誌なんて集める必要がないと思われていたのでしょう。
おそらく50年後に皇室の研究をしようとしたら、『女性自身』は非常に重要な史料になるでしょうか、大学図書館で『女性自身』のバックナンバーをしっかり集めているところは東大以外にないでしょう。あるいは、昭和時代における女性の性意識を研究しようとしたら『微笑』などがとても役立つはずですが、果たして大学図書館でそれをストックしているところはあるでしょうか。あるいは、たとえばやくざの研究をするために『アサヒ芸能』を見たいといったときに、大学図書館の相互利用は絶望的ですね。

「文明の転換と資本主義」 中沢新一 x 高橋源一郎

人類の「普遍的能力」とグローバル資本主義の目指す「普遍」
人間の知的能力が、十数万年のあいだ、ほとんど変わらず同一の普遍構造を持っていることがわかったきます。どこの民族であろうが、どの言語を喋っていようが、どんなに違う言葉を喋っていようが、知的能力は同じです。そしてそこには普遍的な心の能力というものが潜んでいて、それが各母語や文化に展開するちう仕組みです。つまり、人間はある意味で普遍的な存在ということになるわけです。それが地域ごとに多様な文化、文明を作り出している。この普遍性と多様性がセットになっているのが人間であるという点が、最も重要な認識じゃないかと考えています。人類学では、レヴィ=ストロースが同様の認識をし、人類の文化は、普遍的構造の多様化として現れてくるが、それを生み出すおおもとは普遍的なものだと言いました。
いっぽう、現代の世界は、単一の文化、単一の社会システムに人類を作り替えようとしています。なぜなら、商品や労働力を迅速に流通うさせるためには、各言語や文化、パーソナリティの違いが大きな障壁になるからです。しかしこれが、人類の普遍に向かっていることを意味するかというと、そうではありません。今、地球上で均質化、単一化に展開しているものは、アングロ・サクソンのローカルな文化形態でしかありませんから、普遍ではない。
普遍的な能力は、私たちの脳のなかに宿っています。そして、それが多様性をそなえた文化であり言語となって展開してくるものであり、人類の普遍能力の豊かさを実証しているものです。けれども、もしもこれを人類が均質な文化であるとか、均質な経済システムであるとか、均質な生活様式、意見、世論、こういうものによって均質化したとき、私たちのなかで、普遍的な能力の展開は死んでしまうでしょう。
現代において最も重要な問題というのは、人間の世界が大きく二極分解しつつあるということだと思います。アングロ・サクソン型の資本主義を世界中に広め、労働力を自由に流動化させ、商品の自由化を推し進めていき、地球上を単一のシステムに変えようとしている。これがグローバル資本主義と呼ばれているものです。それは地域で育ってきた多様性を持った文化が最も邪魔になりますから、日本で言えば日本語や日本的なシステムに当たるものを破壊していく動きが展開されるつつあります。

読書 『リスティング広告 プロの思考回路』 アスキーメディアワークス

『リスティング広告 プロの思考回路』 アスキーメディアワークス を読む (Blog)

"リスティング広告"
リスティング広告

第1章 どうやって効果を高めるのか?
リスティング広告で一番大事だと考えていること

  • 自社(広告主)を知る
  • 競合を知る
  • お客様を知る

「ランディングページのファーストビューに本当に言いたいことがかかれていない!」(自社を知る)
「そんなキーワードで出稿したって(同じキーワードで出稿している)他社に勝てるわけない!」(競合を知る)
「その広告文で本当にクリックされると思う?」(お客様を知る)

プロが必ず実践していること
(1)「ユーザは必ず自社(広告主)と競合他社を比較している」ことを念頭に置く
(2)「比較されたときに勝てる武器は何か」を理解している

リスティング広告は、ユーザが何かのニーズをキーワードで表現し、検索したときに表示されるので、自社(広告主)がよほど強い商品を展開していなければ必ず競合の商品やサービスと比較される。そのとき、他社と比較されても、なお自社(広告主)の商品やサービスがユーザに選ばれる「武器」がなければ、どんなに何度も上位に表示されても、本来の効果は発揮できない。「比較されたときに勝てる武器は何か」を理解することが非常に重要であり、「クリック率」や「広告スコア」、「コンバージョン」、「LPO」といった指標を小手先でいじるより、はるかに大きな成果が得られる最善の策になる。

リスティング広告は最も手間のかかる手段
リスティング広告は、最も獲得効果の高い手段である理由は、テレビ広告やバナー広告がニーズのないユーザにも自社の主張を表示していたのに対し、リスティング広告は何らかのニーズをキーワードの形で表しているユーザに対してのみ表示される。ニーズには興味・関心の段階の含まれるので必ずしもすべてが購入に結びつくわけではないが、テレビ広告やバナー広告より効率が高い。
まず、リスティング広告はキーワードで網を張るところから始まる。しかし、ひとつの商品に対してユーザが検索に使うキーワードは何十、何百種類(ミスタイプまで含めればもっと多い)ににもなる「検索キーワードの多様性」がある。「検索キーワードの種類はニーズを持つユーザの数だけある」と言っていい。しかも時代の流れ、人々のニーズの変化によってひとつの商品に対応するキーワードも変わっていくし、寿命の短い商品であれば、商品の方が変わってしまう。リスティング広告でも商品に対応する細かなニーズとキーワードの関係を細かく幅広く更新し続けないと販売につながらない。
また、リスティング広告は多くの場合、同じキーワードで網を張っている会社、つまり同様の商品やサービスを提供している競合他社と自社の広告が一緒に表示される。テレビなら競合同士が同じ番組のスポンサーになることはあり得ないし、バナー広告なら一つの表示枠に1社しか表示できない。ところがリスティング広告の場合、ほとんどの場合は競合他社の広告が同時に表示され、即時に比較対象になる。USP(Unique Selling Point = 独自の売り)がないと見向きもされないのがリスティング広告だが、同じような商品やサービスが表示されている中で、数十文字のテキストでUSPを見せるのは非常に難しい。だが、USPがなければ売れないのも事実だ。広告文を絶えず競合と比較して見直し、他者には出せないUSPを模索し続けるしかない。
さらに、リスティング広告は出稿してクリックされただけでは売り上げにならない。

どんなにうまくキーワードの網を張って、広告文で差別化しても、最終的には「正しい情報」に導かないと意味がない。

リスティング広告は、キーワード選び、USP、ランディングページのクリエイティブや在庫管理との連動などがかみ合って初めてうまくいく手法であり、手間のかかるリスティング広告の運用を補ってくれるのが自動入稿システムなのだ。

 

 

読書 吉岡 忍 『日本人ごっこ』 文春文庫

吉岡 忍 著 『日本人ごっこ』 を読む。

”日本人ごっこ”
日本人ごっこ

台湾、朝鮮、中国を領有した日本はパールハーバー奇襲と同じ日、香港から東南アジア一帯にかけての侵攻を開始した。当時のタイ軍事政権と同盟を結んだ日本は、ラングーン側とタイ側の双方から兵力を進め、ビルマを支配した。
しかし、戦況はたちまち悪化した。アジア全体と太平洋に広がった占領地域のあちこちで抗日運動が広がり、他方ではアメリカ軍が反攻に転じた。日本本土は空襲で焼かれ、日本軍は玉砕し、潰走した。そして敗戦。日本人の姿は中国大陸からも、他のアジア地域からも消えていった。
その後、日本人がアジア各地に舞い戻ってくるのは、観光客としてではなかった。観光客より前に、アジア各地に姿を現したのは家電メーカーの社員たちだったはずである。
戦後日本の家電メーカーのなかで、外国にはじめて駐在員を派遣したのは松下電器だった。1957(昭和32)年のことだった。それ以前にも他のメーカーが、社員を短期的に出張させることはあったが、駐在員事務所を構えるような本格的な派遣は、同社がはじめてである。
そして、このとき松下電器が駐在員事務所を置いたのは、バンコクだった。タイは戦争中、他の国々のように日本軍に侵略されたわけではなかったので、反日や抗日の気運も少なかったし、戦乱による荒廃もほとんどなかった。日本のメーカーとしては行きやすかったし、市場としても有望と思われたのである。こうしてタイは、戦後の日本企業が世界に向けて製品輸出に乗り出す跳躍の場となった。

当時の日本では、電化の実際の中心はアイロンや扇風機や自転車用ランプ、それに真空管式からトランジスターに変わりつつあったラジオだった。敗戦による荒廃からの復興の時代、そして高度成長期に向かう助走の時代に、これらの製品は文字通り、飛ぶように売れた。大量生産によるコストの低減と価格の低下が、その売れ行きにさらに拍車をかけた。
そのころ、タイで売られていた扇風機やラジオの多くはアメリカやヨーロッパの製品だった。そこに、当時はまだ労賃も安く、大量生産によってますますコストも下がった日本の製品が入りはじめたのである。日本製品の価格は、欧米の製品にくらべて格段に安かった。
しかし、性能や品質やデザインも見劣りするものだった。
松下電器の駐在員の丸田は言う。
「だから私の仕事は、報告するための駐在員でしたよ。バンコクの店先でフィリップス(オランダ)とかテレフンケン(西ドイツ)とかRCA(アメリカ)などの欧米のメーカーの製品を見て、それをスケッチするんです。サンプルを買うお金もなかったですから。私の報告を見て、日本にいる技術者がイミテーションするんです。日本企業の海外進出なんて、最初はそんなふうにはじまったんですよ。」
バンコクからサケオ市などのカンボジア国境沿いの町を通過し、カンボジア国内を通ってサイゴンに入っていくトラックのルートを開拓した日立家電販売の藤田は、「家電製品で大事なのは、モノを売るだけはなく、そのあとの修理などのサービスなんです。戦争中の南ベトナムには延べにして5,60人、常時5,6人の技術者が行ってましたよ。彼らはあっちこっちの基地をまわって、仕事をしていたんです。」
「アメリカ兵たちは運よく戦死せずに、2年間の戦場生活を終えると、故郷に帰ったり、ヨーロッパにあるアメリカ軍基地に転任していった。彼らは南ベトナムで買ったテープレコーダーやオーディオ機器を持っていった。それが、日本のブランドを世界に広める大きなきっかけとなった。」
60年代に入って工業化政策を積極的に進めるようになったタイでは、製品輸入に対する関税を高めたり、輸入禁止品目をふやすなど、自国産業の保護育成をはかるとともに、外国企業に対して工場を誘致するようになった。
藤田は、「販売ルートを調べるために、タイ国内、くまなく歩きまいした。」そして、その過程で発見した大きなルートのひとつが、「スマッグル(密輸)だった。」メサイのように隣国と自由に往来できる国境の町は、タイのなかにいくつでもある。ビルマ、ラオス、カンボジア、それに南のほうにはマレーシアがある。それぞれの国境の町の業者と話をつければ、製品は外国にも流れていく。
これは、外国での現地生産に、当時、まったく不慣れだった日本の家電メーカーにとっては、大きな利点だった。

学生や若者たちにのあいだで、日本のファッションの人気が高いのはなぜだろう。
「私はそれは、文化の量の問題だと思っている。日本の文化情報はファッションだけでなく、車や電化製品や化粧品としても入ってくる。日系のデパートもある。タイでは、アメリカやヨーロッパの文化情報を圧倒している。そこにテレビや雑誌の広告が加わるんだ。日本はいま、ものすごい力で若者たちを引っぱっている。」
無数の「日本」に囲まれて、<ワタシはタイ人ですか?>とつぶやく歌の先を探っていけば、その社会がオリジナリティをどう築いていくのか、という問題にたどりつく。いや、そのことのむずかしさにたどりつくと言うべきかもしれない。
私が私である根拠を築こうとするものを無力感に追い込み、自信を失わせ、むなしさに囲い込む力としての「日本」が、ここにはある。

先進国や経済大国というものの力。それは経済や産業の分野にとどまらない巨大な力である。私が私である根拠を揺さぶり、ときには無力感さえ植えつけるその力は、人々を混乱に落としいれ、その社会全体に外側から変貌を迫っていく。
変わりつつあるタイの現在を、これは進歩への過程であり、繁栄への途上なのだとなかなか楽観できないのは、この問題に関わっている。これらは彼らの問題ではなく、先進国の中で働き、経済大国のなかで生きている私たちの問題である。

読書 岸良 裕司 『全体最適のプロジェクトマネジメント』 中経出版

読書 岸良 裕司 『全体最適のプロジェクトマネジメント』を読む。

”全体最適のプロジェクトマネジメント”
全体最適のプロジェクトマネジメント

1.プロジェクトはひとがおこなうもの(ひとのサガ:Human Behaviors)
プロジェクトとは今までやったことのないことをすること。
不確実性が高く、納期があり、人がおこなうものである。

 

 

「6つの問題行動」
プロジェクトには人にまつわる6つの問題行動が潜んでいる。
①サバよみ
②予算と時間をあるだけ使う
③一夜漬け
④過剰管理
⑤早く終わっても報告しない
⑥マルチタスク

2.マルチタスクをなくせ(選択と集中:Choke)
①プロジェクトの優先順位を組織全体の視点から検討する。
②「今はやらない」ことで、「集中する」ことが可能になる
③「今はやらない」と決めたプロジェクトでは万全の準備をする

3.目標を共有(すりあわせ:ODSC)
①目的:Objectives
目的について次の質問をまず繰り返す。
「目的はなんですか?」
「ほかにありませんか?」
ある程度、プロジェクトの目的が出てきたら、次の質問をする。
「財務、顧客、業務プロセス、成長と育成、経営理念、社会貢献の視点は入っていますか?」
(目的は自由に議論、言われたことをそのまま書く)

②成果物:Deliverables
成果物について、次の質問をまず繰り返す。
「成果物はなんですか」
「ほかにありませんか」
(目的と手段をはきちがえない)

③成功基準:Success Criteria
具体的に何を目的として、何を成果物としてつくるのかが共有されると、
それを具体的に測定できる言葉として成功基準を明確にしていく。
目的の項目を一つひとつ読み上げて、次のように質問していく。
「この成功基準はなんですか」
(ODSCは、経営幹部とすり合わせをする)

ODSCは、プロジェクトの大義名分
ODSCとは、プロジェクトが行われる理由づけとなるはっきりとした根拠、つまり大義名分を、目的、成果物、成功基準として明確に示すものである。

読書 足利 健亮 『地図から読む歴史』 講談社学術文庫

足利 健亮 著『地図から読む歴史』を読む。

第2章 平安京計画と四神の配置

地図から読む歴史
地図から読む歴史

鴨川
鴨川は少なくとも途中まで直線的に流れる「人工河川」です。
なぜ、鴨川は平安京の東京極に接して流れていないのか。
鴨川には堤防があり、京極との間には、田畑のみならず悲田院、藤原氏の崇親院、法成寺、法興院などが次第に進出することになる土地利用空間でした。東から鴨川、東堀川、西堀川、木嶋大路と御室川の四つが等間隔(α=588丈:約1750m)に配され、その中央に平安京が設けられたため、鴨川と東京極間に空地が生じたのである。

東西10里=1800丈の計画
問題は、鴨川・木嶋(このしま)大路間を3等分するαとは何かということです。3つの588丈を集計すると1764丈(=588x3)です。
1764(丈)=1800(丈)-18(丈)x2
まず初めに東西1800丈の範囲が設定されたとします。そこから、1800丈の100分の1の18丈ずつの幅の鴨川と木嶋大路・御室川帯がとられました。残る1764丈を3等分する線に2本の堀川を開いたと説明できます。
当時、1里は、180丈でした。1800丈とは10里にほかならなかったのです。なお、1丈は約3mで、18丈は、54mほどです。鴨川の幅は今60m内外ですから、18丈という計画寸法に無理がありません。

都市計画に乗った四神配置
和銅3年(710)に平城京がスタートしますが、その2年前の2月、「平城の地は四禽図に叶い、三山鎮をなす」所なので都を建てようとしている旨の詔が発せられます。都の地は、北に玄武(山)、南に朱雀(池沼)、東に青龍(川)、西に白虎(大道)があって、その外側に東・北・西と、山がめぐる地勢であることを理想とする考えが明示されています。四禽図に叶う、つまり四神相応と同じ意味です。この観念は、南に開いた豊かな土地にほかなりません。
こうした考え方の都作りが平安京に及んだ時には、四神も都市計画の中に完全に組み込まれてしまったようです。
まず、青龍は、問題なく鴨川です。対する西の神「白虎」は、鴨川と対称的な位置にある木嶋大路です。玄武が船岡山であることは確かといえます。玄武とは、亀と蛇がからみ合っている想像上の動物で、色は黒です。形も色も船岡山がピッタリです。船岡山頂が平安京正中線に乗り、かつ船岡山頂-北京極間が、大内裏南北距離(一条と二条の間)と等しいという都市計画上の「位置」も大変注目されます。最後に朱雀ですが、これはしばしば伏見の南に拡がっていた大池=巨椋池とされてきました。ところが、有名な東寺の南5km余りの所に「横大路朱雀」という小字があるのです。しかもその小字は、平安京正中線に乗り、羅城門からちょうど10里(5400m)というびっくりするような位置にあたります。京都市街南部の一番低い所で、人工池があったと想定してなにも不都合のない点です。私は、こここそ都市計画に乗せて作られた「朱雀」と見るのです。

第4章 古代の大道は直線であった

昭和40年代の後半、ほぼそのころに、わが国の古代幹線道路も、平野を通過する区間では、アッピア街道やフラミニア街道で代表される古代ローマの諸街道と同じように、測量に基づく直線の大道として建設されたのだという考えが芽生えます。
古代の主要道路には、原則として30里ごとに「駅家(うまや)」が設けられていました。古代の1里は、約530mですから、30里は約16kmになります。駅家は単に「駅」とも書かれますが、公務を帯びた人の通行や公用の情報伝達のために使う「駅馬(えきま)」が常備され、その世話をする「駅子(えきし)」が住み、駅長もいました。それゆえ、古代の主要道路は「駅路(やまやじ、えきろ)」とも呼ばれます。

第5章 条里-地を測り地を掌握するシステム

単位としての一町の大きさ
わが国の平野の景観、農村の景観を奈良時代から現代まで規定してきたといっても過言ではない「条里」という土地区画・土地制度を取り上げます。
一つ正方形は、の条里という制度の基本区画で、一辺の長さが一町、面積が一町歩でした。
一町に長さは60歩(ぶ)=60間ですから、一町歩は、3600歩になります。「歩」という単位は、3.3平方mを1坪という場合の坪のことですが、条里の制度では一町歩の正方形を坪と表現します。3.3平方mの単位面積と、その一辺の長さ=一間(約1.8m)は、共に「歩」と呼びます。
さて、長さ一町とは、約1.8mx60で約108~109mですから、面積一町は、約1.2ha弱となり、2万5000分の1図上では約4mm四方の正方形になるわけです。

条里システムと奈良盆地条里
面積一町の正方形の土地=坪は、縦横6町からなる大きな単位の正方形区画に編成されました。これが、「里」です。里を構成する36個の坪には、「一ノ坪」から「三十六ノ坪」まで2種類のいづれかの並び順=坪並方式で番号が付けられました。「並行式坪並」と「千鳥式(または連続式)坪並」と呼びます。「並行式」というのは、1から6へ、7から12へ、13から18への坪番号の進行方向が同じであることから名づけられたものです。
里が一列に並んだものを条と呼び、条および里にはそれぞれ序数を付すのが原則であった。それ故このシステムを「条里制」というのです。条里制における土地の最小単位は、一町を10等分した「一段(たん:反とも書く)」で、その等分の仕方も2種類ありました。条里制は、古代に、国が土地の所在を「何条何里何坪にある」というふうに記録し管理する必要から生まれたのですが、荘園領主もこのシステムを便利に活用し、中世の後期まで確実に存続しました。
条・里・坪による土地所在表示システムは早くにすたれましたが、それらはしばしば地名となって現地に残りました。

第17章 都市内道路名称の意味を解く

筋とはどういう道か
私はいつも、道路の名称は「家族名(族名)」と「個人名(個名)」から成り立っているといっています。大路・小路・街道(海道)・通り・町通り・筋・辻子(図子)・突抜・縄手(畷)・坂・越え・横丁・路地などが族名です。銀座通りとか御堂筋という場合の銀座や御堂が「個名」にあたります。
大阪では、南北の道が筋で、東西の道が『町通り』と呼びます。つまり、東西道路はどこも、家々が間口を開いて櫛比する賑やかなメインストリート=町通りだったのです。これに対して南北の道は、家々の横壁か塀が延々と続く、通過専用の横丁というわけです。こういう道であることが、筋という族名が付けられたゆえんです。
東西の道路は、伏見町通り、道修町通り、平野町通りなどですが、この場合、「伏見町」が個名で「町通り」が族名と捉えなければ本当のことがわからなくなります。「筋」は、「町通り」と対をなす概念なのです。「筋」に橋の名がついている例がおおいのは、筋が塀か壁に面した通過機能しかもたない道で、沿道に個性がなく、一般に個名を付けようがなかったため、道を出外れた所の堀に架かっている橋の名を借りて個名にすることがはやったからと、解釈できます。

町の変遷
大阪にはたくさんの筋がありましたが、京都には筋はほとんどありません。町が都市内の単位区画を意味する言葉として用いられ始めるのは意外に新しく、延暦三年(784)建都の長岡京からでした。都の条坊制の一つの坊を4x4=16の小区画に分けたその1単位は、平城京では、坪と呼ばれていましたが、平安京で町と呼ばれました。その大きさは、一辺40丈=120mの正方形で、大路・小路によって四面を画されていました。
京都における町の変遷は、事務職の一般役人や宮廷工房に勤める職人などは、一町を「四行八門」に割った小区画(または、さらに細分した区画)を与えられていた。32分の1町といっても30m x 15m=450平方mですから相当な広さです。
町は、四面が土塀で囲まれ、各面に一つ開かれた門を経て勤め先に往復する暮らしだったと考えられます。ところが、早くも9世紀から役所の縮小傾向が見え、本来官の工房で行われるはずの生産活動や生産物の交換が、職人の集住する町で行われるようになってきた。この傾向が、町の周りの土塀を壊し、家々が競って四辺の街路に直接面して商売を始めようとする流れを生み出した。家々が四面の街路にばらばらに顔を向けることになった状態は、まお一つの町としての形を保っている段階で「四面町」と呼びます。しかし、やがて各面の家々は、それぞれ別の町として独立し、正方形の一町が4つの町からなるものに変わっていきます。これが、「四丁町」です。次に四丁町のそれぞれが街路を挟む向かいどうしで町を形成することになります。それが「両側町」の姿です。京都では、両側町であることが普通のあり方となったのです。それは、あらゆる道が「町通り」になっていったということで、それ故、京都には「筋」がほとんどできなかったのです。

読書 丸山 真男 『日本の思想』 岩波新書

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伝統思想がいかに日本の近代化、あるいは現代化と共に影がうすくなったとしても、私達の生活感情や意識の奥底に深く潜入している。近代日本人の意識や発想がハイカラな外装のかげにどんなに深く無常観や「もののあわれ」や固有信仰の幽冥観や儒教的倫理やによって規定されているかは、すでに多くの文学者や歴史家によって指摘されてきた。むしろ過去は自覚的に対象化されて現在のなかに「止揚」されないからこそ、それはいわば背後から現在のなかにすべりこむのである。思想が伝統として蓄積されないということと、「伝統」思想のズルズルべったりの無関連な潜入とは実は同じことの両面にすぎない。一定の時間的順序で入ってきたいろいろな思想が、ただ精神の内面における空間的配置をかえるだけでいわば無時間的に併存する傾向をもつことによって、却ってそれらは歴史的な構造性を失ってしまう。小林秀雄は、歴史はつまるところ思い出だという考えをしばしばのべている。

日本社会あるいは個人の内面生活における「伝統」への思想的復帰は、いってみれば、人間がびっくりした時に長く使用しない国訛りが急に口から飛び出すような形でしばしばおこなわれる。その一秒前まで普通に使っていた言葉とまったく内的な関連なしに、突如として「噴出」するのである。

「神道」はいわば縦にのっぺらぼうにのびた布筒のように、その時代時代に有力な宗教と「習合」してその教義内容を埋めてきた。この神道の「無限抱擁」性と思想的雑居性が、さきに述べた日本の思想的「伝統」を集約的に表現している。絶対者がなく独自な仕方で世界を論理的規範的に整序する「道」が形成されたことがなかったからこそ、それば外来イデオロギーの感染にたいして無装備だったのであり、国学が試みた「布筒」の中味を清掃する作業-漢意(からごころ)、仏意(ほとけごごろ)の排除-はこの分かちがたい両契機のうち前者(「道」のないこと)を賞揚して後者(思想的感染性)を慨嘆するという矛盾に必然当面せざるをえない。

「国體」の創出
伊藤博文は日本の近代国家としての本建築を開始するに当たって、まずわが国のこれまでの「伝統的」宗教がその内面的「機軸」として作用するような意味での伝統を形成していないという現実をハッキリと承認してかかった。

「我が国に在りて機軸とすべきは、独り皇室あるのみ」

「将来如何の事変に遭遇するも、・・上元首の位を保ち、決して主権の民衆に移らざる」ための政治的保障に加えて、ヨーロッパ文化千年にわたる「機軸」をなしてきたキリスト教の精神的代用品をも兼ねるという巨大な使命が託されたわけである。

天皇制が近代日本の思想的「機軸」として負った役割は単にいわゆる国體観念の教化と浸透という面に尽くされるのではない。それは政治構造としても、また経済・交通・教育・文化を包含する社会体制としても、機構的側面を欠くことができない。

「天皇制における無責任の体系」
明治憲法において「殆ど他の諸国の憲法には類例を見ない」大権中心主義や皇室自律主義をとりながら、元老・重臣などの超憲法的存在の媒介によらないでは国家意思が一元化されないような体制が作られたことも、決断主体(責任の帰属)を明確化することを避け、「もちつもたれつ」の曖昧な行為連関(神輿担ぎに象徴される)を好む行動様式が冥々に作用している。「輔弼」とはつまるところ、統治の唯一の正統性の源泉である天皇の意思を推しはかると同時に天皇への助言を通じてその意思に具体的内容を与えることにほかならない。

「おわりに」
私達の伝統的宗教がいずれも新たな時代に流入したイデオロギーに思想的な対決し、その対決を通じて伝統を自覚的に再生させるような役割を果たしえず、そのために新思想をつぎつぎに無秩序に埋積され、近代日本人の精神的雑居性がいよいよ甚だしくなった。日本の近代天皇制はまさに権力の核心を同時に精神的「機軸」としてこの事態に対処しようとしたが、国體が雑居性の「伝統」自体を自らの実体としたために、それは私たちの思想を実質的に整序する原理としてではなく、むしろ、否定的な同質化(異端の排除)作用の面でだけ強力に働き、人格的主体-自由な認識主体の意味でも、倫理的な責任主体の意味でも、また秩序形成の主体の意味でも-の確立にとって決定的な桎梏となる運命をはじめから内包していた。

 

 

 

 

 

読書 竹下 節子 『キリスト教の真実』 ちくま新書

竹下 節子 著 『キリスト教の真実』 を読む

"キリスト教の真実"
キリスト教の真実

第二章 暗黒の中世の嘘

新しい思想は古い思想を仮想的としてみずからの正統性を主張する
近代の成立において、主としてプロテスタント勢力がローマ・カトリック教会を「敵」と見なし、その地位を貶めることによって自らの正統性を証明しようとした。

知を共有財とみなすキリスト教の教育
シャルルマーニュは、「知性」の必要性は、エリートだけでなく、庶民にも求めらるべきとだとして、「無償の学校」制度を設けた。
学校制度が可能になったのは、各地で「蛮族」の襲撃を逃れた多種多様の書物が、あらゆる教会堂や修道院へすでに避難させられていたからである。600年から750年の間にフランク王国内だけでも200の僧院が建てられた。シャルルマーニュの誕生からその孫の死までの期間(768-855)には、27の司教座聖堂(カテドラル)が建ち、417の修道院が建設された。偶像崇拝禁止であったが、読み書きできない民を教化するために、カテドラルや修道院は新旧聖書の図像で豊かに飾られた。

これら「知の流通」は、キリスト教の普遍主義に支えられていた。キリスト教においては、知は個人財産とみなされず、修道院図書館などに保存され、書写によって複本がつくられ、古典学術が継承されていった。背景には、キリスト教には全ての人間の自由意志を前提とした教育理念が備わっていたことがある。
修道院に付属学校が開設された後に、司教区の学校が作られる。司教区学校は聖職者養成のためだけにできたのではない。学校に集った若者にはラテン語の基礎や教養科目が教えられ、古典学術を継承するために不可欠な素養を身につけさせた。カリキュラムは、文法、修辞、弁証(論理)の三学と算術、幾何、天文、音楽の四科から成り立っていた。一方で神学の教育は聖職者の身分を擁する者のみに与えられていた。

大学の誕生
大学(ユニヴァーシティ)は、カトリック教会がヨーロッパ中に設置した教育研究機関だった。ユニヴァーシティの語源は、普遍=カトリックと同じものだ。教会という言葉が「教会堂」の建物を表すのではなく聖職者と信者の集まりを意味していたように、ユニヴァーシティも、教授と学生の共同体を意味するものであり、講義はカテドラル(司教座のある教会)の内部や私邸の中で行われていた。ローマ教皇はこのユニヴァーシティの監督保護者であり、教授に対する支払いが滞るなどの苦情が教皇にまで持ち込まれて処理されていた。

大学の誘致は経済効果があるため歓迎されていたが、学生を含めた大学関係者は消費者として地域経済に貢献するが、定住の意思を持たない「よそ者」であり、生産者でない。彼らは対等な市民とはみなされず、住居、食物、書物などの売買で騙され、警官からは暴力をふるわれた。そのような敵意から大学を保護するために、ローマ教会はかれらに「聖職者(clericus)」の身分を付与した。「聖職者に対する暴力」は、世俗でも犯罪とされ、聖職者自身は原則として教会の法廷によってのみ裁かれる地位を与えられた。この「大学」のおかげで、聖職者=知識人という構図がかたちつくられるようになった。

当時の大学は、14歳からの中等教育も受け持ち、庶民家庭の子弟が少なくなかった。三学四科の教養科目(リベラル・アーツ)と哲学(リベラル・アーツを統合して神学の予備となる高度な論理的思考だった)を修めた後で、さらに法学(世俗法と教会法)、自然哲学(自然科学)、医学、神学を学ぶことが可能だった。ラテン語で出回るようになったユークリッド幾何学、アリストテレスの哲学や自然学、ガレノスの医学書などが教科書として使われた。
ユニヴァーシティにおける教育機関はスコラ(scolas)であり、そこでの教育がスコラ学という方法論になった。社会の変化に応じて学問の方法が大きく変わっていった。教師たちは単に古典の購読だけでは満足できなくなり、理性を重視し、主論と反論を戦わせて結論を導く弁証法的な主知主義を用いて深い意味を汲もうとした。まず問いがたてられ、互いに反する仮説が提示され双方の議論の妥当性を検討し、自分の結論を提示したうえで、反論に答えるという形式が、次第に確立していった。スコラ学の誕生である。

第三章 「政教分離」と「市民社会」と2つの型

カトリックとプロテスタントの棲み分けは、次のようにおこなわれた。
ローマ・カトリックのホームグラウンドであるイタリアは、カトリックのまま。イベリア藩半島も15世紀末に達成されたレコンキスタによってカトリック陣営が強力だったため、カトリック圏にとどまった。10世紀以来神聖ローマ帝国皇帝を選挙で選んできたオーストリアからドイツ、中欧に及ぶ地域は、ハプスブルグ家がカトリックを維持し、他の領邦国家は、カトリック公とプロテスタント公に分かれた。1648年のウェストファリア条約以来、各国の領主が帰依した宗派が国の宗教となり、他の宗派の信者たちは、改宗か移住をすることで棲み分けを維持した。
絶対王権下にあったイギリスとフランスでは、どちらの王も宗教的権威のトップに立つカトリック教会と拮抗しようとしてきた。ヨーロッパ中をネットワーク化している教区と司教区と修道会を束ねるローマ教皇に対抗するには、主に3つの方法が考えられる。

①国内の司教や司教区や修道会長の任命権を獲得して血縁者に委任する。
②ローマ教会と断絶して国内のインフラをそのまま流用して王が「国教会」の長となる
③教会の財産を没収して市民宗教を作る。

フランスは最初の方法を選んだ。つまり、司教の任命権を得ることでガリア教会の自律性を確保しようとした。
イギリスは2番目の方法を選んだ。ローマ教皇に破門されて国教会を興した。

すなわち、フランスのおける政教分離は、それまでカトリック教会が一手に担っていたネットワークや社会運動から宗教のレッテルを外し、それらを政府がそのまま継承し、カトリック教会が独占していた利権システムを解消または吸収したものになった。

そのおかげで、フランスの政教分離は、「横割り二層型」になった。すなわち、「公共空間」における「宗教のレッテル外し」を各宗教が認め、宗教行為(あるいは宗教否定行為)と宗教的な信条はともに「私的空間」に追いやられたわけである。このことこそが、共和国主義の「普遍性」の本質である。たとえ「私的空間」であったとしても、その空間が異なる信条を持つ人びとからなる共同体に属しているのであれば、個人的な信条にもとづいたふるまいをすることは許されない。共同体のマジョリティが多数の力でみずからの主義をマイノリティに押し付けることは禁止され、もしそのような事態が生じた場合には、国家が「共和国主義」の普遍理念の名のもとに介入できるという伝統がある。
「民主主義」の概念には「多数決」に従う、というものがあるが、フランスを含めた、「カトリック否定型」の近代を作ってきた国の大きな特徴は、「多数決」よりも「普遍理念」が優先される普遍主義にある。

アメリカという国家は、ヨーロッパでマジョリティをしめるカトリック国家や、そのヴァリエーションとして国教会を持つイギリスを比べると明らかに異質である。
イギリス国教会から迫害されたマイノリティであるピューリタンの男たちによって「開拓」された「新天地」であり、既成の利権システムなどは存在しない世界だった。建国の核となったのは、WASPと呼ばれる白人アングロサクソン・プロテスタントという宗教的なレッテルに強固に結びついた同質の共同体だ。
アメリカのアイデンティティの核は、WASPのそれである。アメリカは「神の国」であり、アメリカの社会でリーダーシップをとるには、「アメリカの神」を掲げ、神の名によってアメリカを祝福することである。アメリカでは、政教分離を「縦割り」にして、宗教は公生活の「両輪」に一つとなる。政治家が所属教会を明らかにし、日曜日のミサに出ることは社会性と道徳性の証明にもなっている。

フランスの民主主義
フランスのおいて、民主主義はフランスの死守する「共和国主義」を担保するツールの一つである。アメリカにおいては、民主主義は功利主義経済システムを担保する「建前」である。フランスの共和国主義とは、出身地や人種や宗教の違いにかかわらず、同じ国に住む人間が、「自由・平等・博愛」という同じ共和国原理を共有し、それを、個人のアイデンティティのうちに理性的に「統合」していくことを目標にしている。
子どもたちはそれぞれの家族や共同体の文化や宗教の影響を受けて育っているが、その偶然の「与件」の特殊性の外側に、「普遍価値」があることが教えられ、普遍性という物差しを基準にして考える思考訓練がなされる。自分の頭で、自分の「与件」について考え、判断するならば、それをリセットして、共同体の価値観や伝統や習慣や文化や宗教を離脱して別のものを選択する自由が存在することを気づかせることが可能である。これが共和国の公教育理念である。

アメリカの民主主義
アメリカの教育の場において最も重要視されているのは、労働市場に見合った生産者、即戦力になる人間を養成することである。アメリカの教育において、「実学」とは別の「道徳」や「倫理」はどこで教えられているかというと、子供たちの生まれて育つ共同体であり、宗教行事の場である。アメリカにおいて「普遍的」なものは、経済活動における数の原理であり、競争原理である。「道徳」や「文化」や「価値観」については、特殊であっても「共同体的」であっても一向に構わない。いやむしろ、「道徳観」を持つ証明、「良心の査証」として、何らかの「宗教」への所属は大切な要素である。教育の場には「民主主義」の言葉と「星条旗」があればいい。
アメリカの政教分離は、功利主義経済を担保する宗教と、それを容認する政治という両輪なのだ。

読書 阿部 謹也 『世間とは何か』 講談社現代新書

阿部 謹也 著 『世間とは何か』 を読む

”世間とは何か”
世間とは何か

序章 「世間」とは何か

世間の掟
世間には厳しい掟がある。それは特に葬祭への参加に示される。その背後には世間を構成する二つの原理がある。

一つは、長幼の序であり、もう一つは贈与・互酬の原理である。
贈与・互酬とは、対等な関係においては貰った物に対してはほぼ相当な物を贈り返すという原理である。

世間には会員名簿などはない。したがって誰が自分の世間に入っているかは必ずしもはっきりしないが、おおよその関係で解るのである。

世間を騒がせたことに謝罪する
「世間」の構造に関連して注目すべきことがある。
世間は社会ではなく、自分が加わっている比較的小さな人間関係の環なのである。自分は無罪であるが、自分が疑われたというだけで、自分が一員である環としての自分の世間の人々に迷惑がかかることを恐れて謝罪するのである。日本人は自分の名誉より世間の名誉の方を大切にしているのである。

世間がなくなってしまったら
日本人は長い間世間を基準として生きてきた。世間の内部では競争はできるだけ排除されている。したがってあまり有能とはいえない人でも、その世間の掟を守っている限りそこから排除されることはない。

私達は個人と個人の付き合いに慣れていない。日本の個人はすべて世間の中に位置を持っているから、初対面の人の場合では、いったいどういう世間に属しているかが問題になる。(出身地、出身校、会社、地位)
世間が違いすぎると親しくなる可能性は低いのである。

欧米人は日本人のことを権威主義的という。権威主義とは、自分以外の権威に依存して生きていることをいうのである。何らかの意見を聞かれたときに、自分の意見をきちんということが大切であるが、他の人の意見を聞きながら自分の意見をそれに合わせたりすることをも権威主義的と呼ばれるのである。

坊ちゃんと赤シャツ
世間の中での個人の位置はどのようなものなのかという問いが浮かぶ。
私達は明治以来長い間個性的に生きたいと望みながら、十分な形で個性がのばすことができなかった。そのことは、この百年の間ロングセラーとして読み続けられている夏目漱石の「坊ちゃん」を見ればすぐに解ることである。

「坊ちゃん」はイギリスでヨーロッパにおける個人の位置を見てしまった漱石が、わが国における個人の問題を学校という世間の中で描き出そうとした作品である。

赤シャツは、あるとき坊ちゃんにいう。「あなたは失礼ながら、まだ学校を卒業したてで、教師は始めての、経験である。所が学校と云うものは中々情実のあるもので、さう書生流に淡白には行かないですからね。」

坊ちゃんはそれに対して「今日只今に至る迄是でいいと固く信じて居る。考えて見ると世間の大部分の人はわるくなる事を奨励して居る様に思ふ。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じて居るらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊ちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えない方がいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく方法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が、世の為にも当人の為にもなるだろう。」と考えている。

「坊ちゃん」は学校という世間を対象化しようとした作品であり、読者は坊ちゃんに肩入れしながら読んでいるが、その実皆自分が赤シャツの仲間であることを薄々感じ取っているのである。しかし世間に対する無力感のために、せめて作品の中で坊ちゃんが活躍するのを見て喝采を叫んで居るにすぎないのである。

非言語系の知
私達は学校教育の中で西欧の社会という言葉を学び、その言葉で文章を綴り、学問を論じてきた。しかし、文章の中で扱わないことを会話と行動においては常に意識してきた。
いわば世間は、「非言語系の知」の集積であって、いままで顕在化する必要がなかった。
明治10年(1877)にsocietyの訳語として「社会」という言葉が作られた。そして同17年頃にindividualの訳語として「個人」という言葉が定着した。それ以前にはわが国には「社会」「個人」という言葉がなく、現在のような意味の「社会」「個人」という概念もなかった。
それまでは、「世の中」「世」「世間」という言葉があり、時には現在の「社会」に近い意味で用いられることもあった。
欧米の社会という言葉は本来個人が作る社会を意味しており、個人が前提であった。欧米の意味で個人が生まれていないのに社会という言葉が通用するようになってから、少なくとも文章のうえではあたかも欧米流の社会があるかのような幻想が生まれたのである。
しかし、学者や新聞人を別にすれば、一般の人々は「社会」という言葉をあまり使わず、日常会話の世界では相変わらず「世間」という言葉を使い続けたのである。

日本の個人は、世間向きの顔や発言と自分の内面の想いを区別してふるまい、そのような関係の中で個人の外面と内面の双方が形成されているのである。いわば個人は、世間との関係の中で生まれているのである。世間は人間関係の世界である限りでかなり曖昧なものであり、その曖昧なものとの関係の中で自己を形成せざるをえない日本の個人は、欧米人からみると、曖昧な存在としてみえるのである。ここに絶対的な神との関係の中で自己を形成することからはじまったヨーロッパの個人との違いがある。